金曜日、西部古書会館。この日、文学展パンフがいろいろあった。『NHK広島放送センターオープン記念「井伏鱒二の世界」展』(一九九五年)を三百円。ただし鉛筆書き込みあり。
酒、将棋、書画、釣り、旅……。いい人生だなと。
このパンフレットでも『荻窪風土記』(新潮文庫)の「自分にとって大事なことは、人に迷惑のかからないようにしながら、楽な気持で年をとって行くことである」という言葉を引用していた。どうすればそんなふうに年を重ねられるのか。難題。
『荻窪風土記』の「善福寺川」のところを読む。太宰治が井伏鱒二のところに来ていっしょに善福寺川で釣りをした話のあと——。
《大正の末年頃は、ロシア人の羅紗売の行商人をよく見かけたものだ。落語の色物などのかかる牛込演芸館では、ひところ美貌のロシア女が高座に出て、バラライカを弾きながら「カチューシャ可愛や」という艶歌を歌った。ただ、それだけの芸だが、見物人は結構情緒を湧かしていたようだ》
ロシア革命後、日本に亡命したロシア人が羅紗(毛織物)の行商をしていた。大正末だから百年くらい前の話である。当時、ロシアから多くの職人、技術者が日本に逃れてきた。ロシアパンが日本に広まったのもそのころだ。
2022/03/11
善福寺川
2022/03/08
温厚の底
尾崎一雄の「私の中の日本人 基廣・八束」(『単線の駅』講談社文芸文庫、二〇〇八年)は、祖父と父の話——。初出は一九七四年。
祖父・基廣は「一口に言えば、頑固爺であった」。孫にたいしても「理不尽な怒り方」をし、雷のような声で怒鳴りちらした。いっぽう父・八束は「模範的封建紳士」でストイックな人だった。
《悪気なしの失敗を頭から叱り飛ばす、ということを父は絶対にしなかった。「今度から気をつけよ」と言った。が、同じ失敗を繰り返すと叱った。叱ると言っても、怒鳴りつけることはなかったし、いわんや手を上げることは決してなかった。「温厚の底に憤りをたたえ」と私は父の表情についてよく書くが、その顔つきで、こっちの眼を直視する。それが実に怖かった》
子どものころの尾崎一雄は怒鳴る祖父よりも静かに怒る父を怖れた。その後、厳格な父に反発し、文学に傾倒した。尾崎一雄の父は一九二〇年二月に満四十七で亡くなったが「七十四の私は、自分より『大人』だったという感じを未だに持ち続けている」と綴る。
《私は、基廣とも八束とも違った人間になった》
理不尽に怒る人にはなりたくないとおもいつつ、「温厚の底に憤りをたたえ」という人も近くにいると息苦しくなる。たぶん、ほどよくいい加減に生きるというのがよいのだろう。
2022/03/03
これだけの者
三月。水曜日夕方神保町。小諸そばで天ぷらうどん、神田伯剌西爾。東京堂書店の週間ベストセラーの文庫、尾崎一雄著『新編 閑な老人』(中公文庫)が二位だった。
先月、荻窪の古書ワルツの新書の棚で尾崎一雄著『末っ子物語』(講談社ロマン・ブックス、一九六四年)を見つける。新書版は持ってなかった。
この作品でも尾崎一雄おなじみの壮大な自問自答が見られる。
《広大無辺な宇宙のどこかに、地球という微細な星屑が生れたのはいつのことなのか》
《一方、原初以来、いつまでとも知れぬ無限の時の流れの、現在というこの瞬間に、どうして俺は生きているのか。なに故、今生きるべく俺という生命は決められたのか——》
たまたまこの時代のこの場所に生まれ、暮らし、いつの日かこの世を去る。そんな貴重な時間を生きているとおもいつつ、無為な時間を過ごすことも楽しい。人生とは何だろう。
尾崎一雄といえば、インターネット上に次のような“名言”がよく出回っている。
《一切の気取りと、背のびと、山気を捨て、自分はこれだけの者、という気持でやろう》
この言葉は「暢気眼鏡」や「虫のいろいろ」ではなく「なめくぢ横丁」(『芳兵衛物語』旺文社文庫などに収録)に出てくる。志賀直哉に憧れ、真似ばかりしていたが、自分流になりふりかまわず小説を書こうと決意したときの気持だ。
尾崎一雄には「なめくぢ横丁」「もぐら横丁」「ぼうふら横丁」の“横丁三部作”がある。