朝寝て昼寝て夜寝て……三度寝くらいしてしまう日が続いた。そのせいかどうか、しょうもない夢もたくさん見た。ベルトがちゃんとズボンを通っていないことに気づく夢とか冷凍庫から見覚えのない肉が出てくる夢とかトイレの電球が切れている夢とか……現実感がありすぎて起きたときに変な気分になった。
『本の雑誌』十一月号の特集「やっぱり神保町が好き!」。わたしは岡崎武志さんと「神保町を歩こう対談!」という対談をしました。小諸そばの話はカットされるとおもっていたが残っていた。
学生時代から御茶ノ水・神保町界隈に通っている。古本屋めぐりのために上京した……といっても過言ではない。しかしずっと古本に夢中だったわけでもない。どんなに好きなものでも熱は冷めてくる。それでも惰性や習慣で本を買う。何でもいいから買う。読みたい本が見つからないときはこれまで読んでこなかった分野の本を買う。
文学一筋、歴史一筋みたいな人生に憧れもあるが、自分はそうではない。漫画、野球、将棋、釣り、街道……と時期によって集めている本はバラバラである。古本屋に行って、家でごろごろしながら読んでも読まなくてもいい本を読む。十年、二十年前に読んだ本が今の自分の考え方につながっている……ことはよくある。
そのときどきの状況や体調によって読書の面白さも変わる。生活が不安定のときのほうが真剣に本を読んでいる気がする。読んでいるときは、それが後の自分にどんな影響を及ぼすのかわからないことのほうが多い。
四十歳前後に川の本を集め出したことが、街道への興味につながっている。街道から地理や歴史のことを知りたくなる。一つの関心を掘り下げていけば、いろいろなことにつながっていく。どこに向かっているのかわからなくなることもよくあるが、それはそれで楽しい。
2022/10/15
三度寝の日々
2022/10/10
寒暖差疲労
六日(木)、急に気温が下がる。十二、三度だったか。前日までは半袖の人をけっこう見かけた。冷えと疲れが、心身に及ぼす影響は個人差がある。「寒暖差疲労」と呼ばれる症状も千差万別だが、気温の変化によって体調だけでなく情緒が不安定になることもある。
日付が変わる深夜〇時、頭がまったく回らなくなり、貼るカイロの力を借りた。十月上旬にカイロを貼ったのはじめてかもしれない。夏用の肌掛けではなく、厚めの掛け布団を出す。
心や体は天候にわりと左右される。
日々の食事も細かく検証していけば、自分のコンディションとの関連が見えてくるかもしれない。肉を食ったら元気になったみたいなことは誰にでもあるだろう。様々な過不足が不調の原因につながっている。アルコールやカフェインの摂りすぎ、ビタミンや鉄分が足りない——栄養学が万能とはおもっていないが、バランスのいい食事の効能はあなどれない。不調がやや不調くらいにはなる。不調とやや不調の差を言葉にするのはむずかしい。
夕方、西部古書会館。木曜から開催だった。前の週の古書展が三日前くらいに感じる。しかし週一回のビンや缶のゴミの日はそんなふうに感じない。不思議である。九〇年代の『東京人』のバックナンバーなどを買う。ここのところ、古書会館に行くたびに昔の雑誌を二、三冊ずつ買っている。すこし前に九〇年代の『シティロード』も何冊か買った(文字が小さくて読むのに苦労した)。
自分が生まれる前の明治・大正・昭和の写真集などもたまに買う。昔の街道や川の写真を見ていると、今どうなっているのか確かめに行きたくなる。
弱っているときは自分の過去や現在より、自分の知らない世界に浸るほうが精神衛生によい——と中年以降に学んだ。現実逃避ともいう。
2022/10/02
電話のこと
金曜夕方、古着屋で秋用のシャツ(千円)を買い、そのあと西部古書会館に行く。古書展、平日の開催を忘れていたのだが、散歩中に気づく。夕方で人も少なく、ゆっくり目次や奥付を見て本を選ぶことができた。草柳大蔵著『ルポルタージュ ああ電話 山村のできごとからその未来像まで』(ダイヤル社、一九六七年)などを買う。昭和の電信電話事業のルポ。「申込んでもつかない電話」「つながらない市外電話」——五十数年前までは電話をかけるのも大変だった。
たとえば滋賀県の彦根市から市外電話をかけようとすると、つながるまでに「京都が四時間四十分、東京まで七時間」。電車のほうが早い。
わたしは一九六九年生まれで家(長屋だった)に電話がついたのは一九七四、五年ごろだった。自分の親は三十歳過ぎまで電話のない生活を送っていたのか。当時、近所には電話のない家はいくらでもあった。
上京して半年くらいは電話なしで過ごした。住んでいた寮の玄関に十円を入れるピンク色の電話があった。十円玉を何枚も用意するのは面倒だったから、こちらから電話をかけるときは近所の銭湯の公衆電話を利用した。金券ショップでテレフォンカードを買っていた。千円のカードが九百五十円くらいだったか。
部屋に電話をひいたのは高円寺に引っ越してきてからだ。権利だかなんだかのお金が七万円くらいした。郷里の家の電話はダイヤル式の黒電話だったので、東京に来てから留守電機能のついた電話をつかうようになった。道具が増えると楽になる。楽だとおもうのは最初のうちで、すぐ日常になる。
今や電話といえば、スマホや携帯電話を指し、自宅の電話を「家(いえ)電」と呼ぶようになった。