2022/11/11

帰省 その二

 今おもうと郷里で暮らしていたころのわたしは地元の学区内のことさえよく知らなかった。自分の生まれた町に興味がなかった。あちこち歩きまわっているうちに、これまで知らなかった町が面白くなってきた。退屈なところだとおもっていたのは、自分の関心のなさ、行動範囲の狭さに起因していたにすぎない。

 鈴鹿市内は近鉄、JR関西本線、第三セクターの伊勢鉄道(伊勢線)が通っている。わたしが十九歳まで住んでいたのは近鉄鈴鹿線の終着駅の町である。家は長屋(いわゆる隣と接している二軒長屋)だった。
 駅からは関西本線の亀山駅、加佐登駅行きなどのバスもある。加佐登駅は東海道の庄野宿が近い。以前、母の弟(わたしのおじ)に亀山駅まで車で送ってもらい、JR関西本線、草津線で滋賀県の草津経由で京都に行ったら運賃が千三百四十円で近鉄よりかなり安かった。もっと早く知りたかったとおもった。近鉄の特急で京都に行くと三千五百円くらいかかる。時間もJRのほうが三十分くらい早い(電車の本数は近鉄のほうが多い)。
 ただ、わたしは近鉄の特急が好きで何の用がなくても乗りたい。名張から奈良に入るあたりの景色が好きなのだ。とくに紅葉のシーズンは素晴らしい。

 わたしが上京した年——一九八九年に親も市内で引っ越した。もより駅もちがう。
 もより駅の南のほうから神戸公園(神戸城趾)まで続く遊歩道があり、帰省するたびに散歩する。神戸公園は伊勢鉄道の鈴鹿駅、近鉄の鈴鹿市駅から近い。この周辺が伊勢街道の神戸宿である。
「筆は一本也、箸は二本也」の斎藤緑雨が生まれたのも神戸だ。

 父が生きていたころは青春18きっぷで東京に帰るときは伊勢鉄道の鈴鹿駅まで車でよく送ってもらっていた。伊勢鉄道は18きっぷの対象区間ではなく、一駅先の河原田駅(四日市市)までの乗車賃が必要になる。わたしの母は五十年以上鈴鹿に暮らしているが、伊勢鉄道の鈴鹿駅を利用したことがないといっていた。

(……続く)

2022/11/09

帰省 その一

 先週、金券ショップで新幹線の切符を買った。日程変更が必要な切符で、高円寺駅(阿佐ケ谷駅も)にみどりの窓口がないので中野駅か荻窪駅まで行かなくてならない。どちらも散歩圏内だが、世の中はすこしずつ便利になるかとおもえば、こんなふうに不便になることもある。

 四日、金曜の昼すぎ東京駅へ。名古屋駅まで自由席——なるべく混んでなさそうな新幹線に乗ろうと新大阪行きのひかりに乗る。ひかりは自由席の車両が多いので座れる確率が高い。途中の停車駅は小田原駅が一つ増えるくらいで時間もそんなに変わらない。
 出発十五分前くらいに着いたら、新幹線の到着ホームの先頭だった。

 前は郷里に帰るさい、ノートパソコンを持参することがあったが、今はキンドルでだいたいすむ(何度も書いていることだが、携帯電話やスマホを持っていない)。ところがわたしはキンドルのタッチパネルで文字を打つのが苦手で、ちょっとしたメールを送るのにものすごく時間がかかる。悪戦苦闘の末、F社のHさんに改行なしのメールを送ってしまう。

 名古屋駅のエスカの寿がきやで白ラーメン、とうとう六百円台に。エスカの寿がきやは高級(?)路線で、通常店のラーメンはまだ三百円台だったはず。さくっと食べて近鉄へ。まだ明るかったので鈴鹿市駅で降り、旧伊勢街道(神戸宿)を歩く。ほんのちょっと宿場町の雰囲気が残っている。

 郷里の商業施設事情もずいぶん変わった。ハローベルベル(地元ではベルベルと呼んでいた)、アイリスがなくなった。鈴鹿ハンター内のフードコートのスガキヤも三年くらい前になくなった。アイリスにもスガキヤがあった。中学時代のたまり場だった。
 近鉄の鈴鹿市駅にはキング観光鈴鹿店(パチンコ屋)に寿がきや(高級なほう)がある。

 そのまま歩いて母が暮らす家に向かうが、その前に港屋珈琲で休憩する。机が広くて快適である。喫煙席は電子タバコ専用になっている。わたしも三年前からアイコスに変えた。
 地元、夜間も営業している喫茶店が増えた。夜の避難所になっている。助かる。

 東京から掃除グッズ(スキマブラシ、化学スポンジなど)を持ちこみ、家の掃除する。袋の数がすごい。賞味期限のチェックもした(高齢の親と離れて暮らしている人はやったほうがいいとおもう)。
 郷里で過ごしているうちに、子どものころ、家を出たかった理由をおもいだす。たとえば、夜、起きて本を読んでいると、いきなり家中の電気を消される。まさか五十代になっても、こんな経験をするとはおもわなかった。「電気代を払う」といっても無駄である。この日、鞄からLEDのヘッドライトを出し、「ここは洞窟だ」と言い聞かせながら本を読み続けた。街道歩きのために常備しているライトがおもわぬところで役に立った。

(……続く)

2022/11/07

歳月

 十一月、今年もあと二ヶ月。いろいろやることが残っているが、一つ一つ片付けていくほかない(いちばんやりたいのは仕事部屋の蔵書減らし)。一年の経つ早さ(体感)を考えると、当然、五年十年なんてあっという間に過ぎていく気がする。そうやって老いていく。テレビを見ても知らない人ばかりになる。知らない人を覚えられないまま新しい人が出てくる。

 三日の祝日。高円寺は馬橋盆踊りの日だったのだが、夜まで仕事で神保町。途中、神田古本まつりに寄る。喫茶店、店の外まで人が並んでいる。均一で街道関係の資料を買う。いちばん混雑していたのは岩波ホールの裏の路地だった。『特別展 漂流 江戸時代の異国情報』(仙台市博物館、一九九八年)を見つけ、心の中で「値段がいくらでも買う」と決意し、値札を見る。良心価格でほっとする。大黒屋光太夫が書いたロシア文字と数字も収録している。古書ニイロクの出品。古書ニイロク、このあいだの西部古書会館の古書展でも面白そうな見たことのない本をいっぱい並べていた。

 大黒屋光太夫は伊勢しかも鈴鹿の人である。わたしの郷里には大黒屋光太夫記念館があり、地元のスーパーでは「大黒屋光太夫あられ」というあられも売っている(わたしの大好物。特に「味三色」がお気に入り)。

 来年の大河ドラマ絡みで徳川家康関連書籍の刊行予定がすごい。年内だけで何冊出るのか。どうなるんだろう。

 竹橋方面を歩いていると神田共立講堂で「グレープ50周年」のお祝いの花が飾られていた。わたしは会場の前を通り過ぎただけ。さだまさしは今年七十歳。グレープはさだまさしと吉田正美(政美)のフォーク・デュオ。代表曲「精霊流し」は一九七四年。さだまさし、二十二歳。わたしはグレープのころの記憶はなく、小学生のころ「関白宣言」や「親父の一番長い日」あたりで知った。そのころ、さだまさしはまだ二十代だったんだなと今さらながら気づく。自分と十七歳しか年が離れてなかったんだな。子どものころから知っている有名人は、ずっと年上のようにおもえる。

……と、ここまで旅行前に書いていたのだが、先週の金曜から光太夫の地元に帰省し、光太夫あられを二袋、コーミソースを二本買い、大阪に行って、今日の昼すぎに東京に帰ってきて洗濯して寝て、今、起きた。