2023/03/13

西鷺宮駅

 土曜、西部古書会館(初日は金曜)。朝日新聞社編『人さまざま』(朝日文化手帖、一九五三年)など。『人さまざま』は文壇や画壇で活躍する著名人(百二十名)の寸評、エピソード集——古木鐵太郎著『折舟』(校倉書房)に寄稿していた浜本浩も収録されていた。
 浜本は高知の人(生まれは愛媛)で「『改造』の記者を辞めてから、大衆小説を書き出した」とある。

『折舟』所収、浜本浩の「微笑の人」に次のような記述あり。

《「改造」創刊以来、作家係として働いた編集部員は少くない。が、今もなほ、往年の大家連から、好意を以て記憶されている者は、三人か四人しかゐない。古木鉄太郎君はその一人であつた》

『古木鐵太郎全集』の追悼文を読むと、古木の人柄を「温厚」「素直」と評した文言が並ぶ。編集者としては得難い資質だったかもしれないが、作家としては不遇だった。しかし人の縁には恵まれた人生だったのではないか。

『折舟』所収作だと、わたしは「月光」が好みの作品だった(全集では題名が「月の光」になっている)。

《鷺宮に越してから今日は四度目の十五夜である》

 古木が野方から鷺宮に引っ越したのは一九三八年四月——。
 鷺宮の八幡神社の祭、家族の話などが続く。子どもたちは野方の国民学校に電車で通っている。買物も野方に行っていたようだ。
 散歩中、古木はこんな思索をする。

《……自分は自分の貧しい生活を想ふと、どうにかしなければならないと思つた。いゝ小説を書きたいと思ふが、それがなかなか出来ないのだ。そして自分は自分の現在の仕事のことや、将来の生活のことなどをいろいろ考へながら帰つて来た》

 わたしも散歩中にこういうことをよく考える。どうにかしなければ。

 今回「月光」を読んでいて次の一文が気になった。

《線路の所まで来て、そこから線路に沿つて畠の傍を歩いて行くと、すぐ向うに、ついこの前出来た新しい駅が見える》

 新しい駅は何駅か。作中「自分は踏切の所から西鷺宮の駅の方へ向つて」という文章がある。ネットで検索。西鷺宮(西鷺ノ宮)駅はかつての西武新宿線の駅で一九四二年九月五日開業(一九四四年八月二十日閉鎖、一九五三年廃止)した駅のようだ。鷺ノ宮駅と下井草駅の間にあった。

「月光」のころは駅ができたばかり。「四五日前の夜、そこでその落成祝の余興」があった。バラックの舞台があり、「素人の万才や浪花節や落語」が演じられた。西鷺宮駅のことを調べてなければ、この作品が一九四二年の秋の話と気づけなかった。

 古木の家(当時は借家)には畑があり、さつまいも、里芋、れいし、韮などを作っている。それを世田谷に住む病気で療養中の兄におすそわけする。野菜をあげたり、もらったり。古木は日常の些事をよく記した。
 兄の家に行き、故郷(鹿児島薩摩郡さつま町)の話をする。

《「君はまだ家屋敷と、地所も少しあるから、郷里に帰つても何とか暮せるよ。僕はもう何も無いから、何処か、U(少し離れた温泉場)の辺りに家をこしらへて、そこで百姓をしたり釣をしたりして暮したいと思ふよ」と云ふので、そんなら自分は郷里へ帰れば何とか暮して行けるのか知らと思つて、そのことが一寸不思議な気もした》

 戦時中の話だが、わたしも近所の友人と似たような話をよくする。温泉、釣り、畑か。「U」はどこだかわからないが、地図を見ながら、さつま町の川の近くのこのあたりかなと予想する。

2023/03/07

折舟

 先月から歯科通い。今回初診のさい、過去のレントゲン写真が手前のディスプレイに映し出され、その日付が二〇〇八年、一一年、一五年、一九年とだいたい四年間隔で自分が歯の治療をしていることがわかった。開業した年からずっと同じ歯科である。
 やはり先送り癖はよくない。目に見えるくらい悪化してから行って、いつも後悔する。

 麻酔が効いたまま、荻窪へ。岩森書店で古木鐵太郎著『折舟』(校倉書房、一九六六年)を買う。『折舟』は古木鐵太郎の十三回忌に刊行された本で古木の作品だけでなく、尾崎一雄、小田嶽夫、上林曉、木山捷平、外村繁、中谷孝雄、浜本浩の追悼文も収録。あとがきは浅見淵。函や表紙の題簽(だいせん)は尾崎一雄が書いている。

 古木鐵太郎は改造社の編集者で上林曉と同僚だったこともある。
 木山捷平の回想に高円寺(旧地名・馬橋)の話あり(かつて古木も高円寺に住んでいた)。

《私は昭和七年から十一年にかけて馬橋にゐた。
 そのころ同人雑誌はちがつてゐたが、古木さんはその馬橋のうちによく立ち寄つてくれた。(中略)古木さんは他にちよつと類がないほど散歩ずきな人だつた》

 戦前の文士はみなよく歩いた。その中でも「類がないほど散歩ずき」といわれるのは、よっぽどのことである。

 小田嶽夫の追悼文には——。

《文学青年と言ふと、何か狷介な、若しくは無頼な感じのものの多いなかにあつて、古木君は若いときから改造社に何年かゐたせいもあつてか、そんなクセのまつたく無い非常に温和な人柄であつた。大人であつた。葛西善蔵の「湖畔手記」を取つたのが彼ださうであり、彼は聞かれるままにわれわれに葛西善蔵をはじめ、いろいろ有名作家の印象を語つてくれ、それがわれわれに大きな刺戟になつたものだ》

『折舟』所収の「山の花」は、葛西善蔵のことを書いた随筆のような小説である。葛西が滞在していた日光湯本の板屋旅館に行き、同じ宿に泊る。

《自分はあんなに度々催促に其所まで行くつもりはなかつたのだが、葛西さんの小説がなかなか出来上がらないので、仕方なく何度も行くことになつたのだつた》

 葛西善蔵と古木鐵太郎は二人でよく湯ノ湖の路を散歩した。朝夕の食事もいっしょだった。

《酒を飲んで生活が乱れてゐるやうに世間では思はれることもあつたが、自分は決してそんな感じのものではなかつたと思ふ。自分はよく葛西さんの仕事をされる様子を傍で見てゐたが、それは実に真剣な感じのものだつた》

 たぶん編集者が横にいれば、作家はそうする。

2023/03/03

趣味の会

 戦前の中央線界隈の文士の趣味について調べているうちに、高円寺に暮らしていた龍膽寺雄がシャボテン(サボテン)にのめりこんだのはいつごろか知りたくなった。龍膽寺雄が高円寺から神奈川県高座郡大和村下鶴間(現・大和市中央林間)に転居したのは一九三五(昭和十)年十一月。彼が中央林間に引っ越したのは、シャボテンを栽培するための広大な敷地が必要だったというのも理由の一つである。つまり、それ以前からシャボテンの栽培はしていた。

 ちなみに「阿佐ヶ谷会」がはじめて開かれたのは一九三六(昭和十一)年といわれている(諸説あり)。

 一九二五(大正十四)年に中村星湖の「山人会」、一九三四(昭和九)年に中西悟堂の「日本野鳥の会」、そして一九三六(昭和十一)年に「阿佐ヶ谷会」と時期はバラバラだけど、趣味の集まりが誕生した。さらにいうと、星湖、悟堂、井伏鱒二のいずれも旧・井荻町(豊多摩郡)に住んでいたのも面白い。

「阿佐ヶ谷会」の初開催は一九三六年(昭和十一)四月——というのは木山捷平の年譜の記録なのだが、この年、二・二六事件が起きている。

 井伏鱒二著『荻窪風土記』(新潮文庫)の目次を見ると「阿佐ヶ谷将棋会」「続・阿佐ヶ谷将棋会」のすぐ後に「二・二六事件の頃」という見出しが並んでいる。「二・二六事件の頃」も「阿佐ヶ谷将棋会」の話からはじまる。

《阿佐ヶ谷将棋会の連中は、ABCDEF……お互に世間的には丙と丁の間ぐらいの暮しをしていたが、お互に意地わるをする者もなく割合に仲よく附合っていた》

 そんな話から「左翼文学が華々しく見えていたが、軍部が頻りに政治に口出しするようになる時勢であった」と井伏鱒二は回想する。

《二・二六事件があって以来、私は兵隊が怖くなった。おそらく一般の人もそうであったに違いない》

『荻窪風土記』所収の「阿佐ヶ谷の釣具屋」の冒頭に「戦前、釣の流行で東京に釣師の数が殖えるようになったのは、昭和八、九年頃であったと思う」という記述もある。そのころ、中央線のどの駅にも釣具屋があったらしい。

「阿佐ヶ谷の釣具屋」では一九三三(昭和八)年「大塚金之助検挙。河上肇検挙」「小林多喜二、築地署に検挙、虐殺される……(後略)」と岩波書店の「日本史年表」を引用している。

 小林多喜二は、その後「阿佐ヶ谷会」のたまり場となるピノチオにも出入りしていた。

《多喜二が亡くなったという速報が伝わった日に、私は外村繁や青柳瑞穂とピノチオに集ったが、刑事がお客に化けて入って来ているのがわかったので、私たちはこそこそ帰って来た》

「阿佐ヶ谷会」が誕生した時期に「諸説あり」と付けたのは、以前から井伏鱒二や青柳瑞穂はピノチオにしょっちゅう集まっていたからである。

 わたしは「山人会」「日本野鳥の会」「阿佐ヶ谷会」も一癖も二癖もある文士や学者が集まって、戦前の中央線界隈は楽しそうだなとおもっていた。昭和十年前後は「文芸復興時代」と呼ばれ、華やかな印象を抱いていたのだが、その背景には軍部の圧迫があり、さらに不況も重なり、そんなに単純な話ではないなと……。