2023/09/09

歌枕

 街道を歩いたり、街道本を集めたりするようになって七年ちょっとになる。街道に関する文献を読み、地図を見ているうちに、いつの間にか和歌や古典にたいする苦手意識が薄れてきた。知りたいことがあると勉強がそんなに苦にならない。

 五年十年と何か一つのことを追いかけていると、最初のころには想像していなかったようなことに興味がわいてくる。靴や足の調子にも気をつかうようになった。そういう変化も楽しい。

 高校時代、古典の授業はずっと退屈だった。どこで何をしているのかもわからないまま読んでいたせいかもしれない。源平合戦の話にしても自分が歩いた場所が出てくるだけで急に面白くなる。

 街道沿いには歌碑や句碑が無数にある。すこしずつ見覚えのある地名や歌が増えていく。専門家からすれば初歩の初歩の知識であっても、それが古典を読む手掛かりになる。

 古典(紀行文)を読むさい、歴史や地理の感覚が大切だなと……。精密な地図がなかったころの旅はどんな感じだったのか。目印になるような場所、道標みたいなものは今とは比べものにならないくらい重要だったにちがいない。

 歌枕の土地は交通の要所が多いのも偶然ではない。

2023/09/05

青墓

 日曜夕方、二日連続で西部古書会館。『坂本太郎著作集 第八巻 古代の駅と道』(吉川弘文館、一九八九年)——前の日、買うかどうか迷って棚に戻した本を入手する。名古屋以西の東海道(美濃廻り、伊勢廻り)に関する記述あり。

《鎌倉時代の東海道は近江から琵琶湖にそって北進し、美濃・尾張にかかるもので、いまの東海道線の鉄路に近いものであった。これに反し古代と江戸時代の東海道は近江から南に下って伊勢の鈴鹿をこえ伊勢から尾張に入るものであった》(「第三部 交通と通信の歴史」/同書)

『更級日記』や『十六夜日記』を読み、平安、鎌倉期の東海道は美濃廻りで、美濃の墨俣が交通の要所だったことを知った。
 わたしは東海圏(三重県鈴鹿市)に生まれ育ったのだが、墨俣はなじみのない町だった。古代の美濃の国府が不破郡垂井にあったことも街道に興味を持つまで知らなかった。垂井は中山道と美濃路の追分もある。古代・中世の街道(東山道)の青墓(青墓宿)という土地も気になる。もより駅は美濃赤坂駅——東海道本線の荒尾駅と垂井駅の間くらいにあり、美濃国分寺(跡)も近い。

『古代の駅と道』には美濃の宿駅として、野上、垂井、青墓、株瀬川(杭瀬川)、墨俣、黒田、小熊の名が記されている。

《遊女記いふ所の神崎、江口、蟹島の三所を初め、淀川沿岸に於ける彼らの活動は最も旺盛である。その他の地方に於いても、肥後の遊君、青墓のくぐつの如き、才学ある者もある。相模の足柄と、美濃の野上とにゐたことは、更科日記に記される。(中略)遊女のゐる所は、殆どすべて交通の要地である。換言すれば宿駅である》(第一部 上代駅制の研究/同書)

 青墓、傀儡(くぐつ)の地だったのか。墨俣と青墓あたりなら郷里の家から日帰りも可能である。

2023/09/03

とはずがたり

 土曜昼すぎ、西部古書会館。山本光正著『房総の道 成田街道』(聚海書林、一九八七年)、上方史蹟散策の会編『熊野古道』(向陽書房、一九九五年)など。『成田街道』は署名本だった(書き込み多し)。『斎藤茂吉資料』(斎藤茂吉記念館建設実行委員会、一九六五年)も買う。

 夕方、馬橋稲荷神社の祭を見に行き、パエリアをテイクアウトする。生ビール飲む。昨年も同じ屋台のスペイン料理を食べた。

 仕事の合間、池田香澄『とはずがたり 全訳注』(上下巻、講談社学術文庫)の街道絡みのところをちょこちょこ読む。学術文庫の書き下ろし古典全訳注のシリーズ、品切本の中には定価の倍くらいの古書価がついているものがある。『とはずがたり』の下巻、東海道の旅も綴られている。「美濃の国赤坂の宿」を通る。美濃廻り東海道である。巻末の年譜を見ると一二八九(正応二)年二月、「作者都を出立。東海道の旅」とある。作者(九我雅忠女)は三十歳か三十一歳。西行に傾倒している。やはり西行は避けて通れないのか。

 本を読んでいるうちに次に読みたい本が見つかる。文章を書いているうちに次に書きたいことが見つかる。知りたいことがすこしずつ増えていく。

 今は街道本を中心に読んでいるが、そこから派生する形で地図を見たり、古典を読んだり、歩いたりすることが楽しくなった。あと何年仕事を続けられるかわからないが、読みたい本、歩きたい場所はいくらでもある。生活さえ行き詰まらなければ、退屈しのぎには困らないだろう。問題は生活の持続である。