2025/05/12

九段坂公園

 十年前、二〇一五年のブログを読み返していたら、四月三十日に「昨日、コタツ布団しまう」と書いている。
 昨年五月のブログに「上京して三十五年になるが、これまで四月にこたつ布団を片付けた記憶がない。自己新かもしれない」と書いているがちがった。勘違いに気づくのに一年以上かかった。

 何の役にも立たなさそうな備忘録も記憶の一助にはなる。
 これまで読んできた本の内容もいろいろ思い違いがあるにちがいない。

 日曜午前中、部屋の換気のち西部古書会館。臨時開催の高円寺均一まつり。二日目全品百円。『近世武相名所めぐり』(神奈川県立博物館、一九九一年)、『挿絵と装幀の小宇宙 竹下夢二から川上澄生まで』(北海道文学館、二〇〇〇年)、辰野隆編『酒談義』(日本交通公社出版部、一九四九年)など十二冊。『酒談義』は折込の「一目で分かる 全國名酒分布図(地図)」付。地図中と欄外に各地の日本酒の名前がびっしり。詳細すぎて一目で分からない。『続・酒談義』も刊行された。いったん家に帰り、妙正寺川沿いの道を歩く。

 散歩中、少子高齢化社会は平和や安定、それと衛生と医療の向上の副作用なのかもしれないとぼんやり考える。今の時代も政治にせよ経済にせよ、何かと問題はあるが、昔と比べると、ひとりでも生きやすい社会になっている(とくに都市部は)。

 先週は二日連続で神保町から靖国通りを歩いた。九段坂公園は東京タワーだけでなく、東京スカイツリーも見える。両方見えるポイントもある。タワーを意識するようになって、ときどき後ろを振り返る習慣が身についた。九段坂公園付近、街路樹が繁ってくるとスカイツリーが見えにくい。天候や季節によって見えたり見えなかったりする。

 一口坂から市ケ谷駅に向かうまでの間、武道館側の歩道だとドコモタワーが正面方向にはっきり見える。これまで靖国神社側の歩道ばかり通っていたので気づかなかった。

 靖国通りは武道館側(南)の歩道か靖国神社側(北)の歩道かで見える景色が変わる。水曜日は小雨が降ってきたので市ケ谷駅から電車に乗った。木曜日は四ツ谷駅まで歩いた。市ヶ谷橋を渡って市ヶ谷濠沿いの道を歩く。途中、高力坂という坂があり、そのすこし先に外濠公園野球場がある。草野球のナイターを見る。市ケ谷駅〜四ツ谷駅間は近い。八百メートルちょっと。

 二十歳前後——三十五、六年前、麹町の編集プロダクションに出入りしていた(雑用係)。高円寺駅から四ツ谷駅まで行き、麹町まで歩いた。当時、仕事が終わると寄り道せず、高円寺に帰った。

 四ツ谷駅から乗った総武線が中野駅止まりだったので代々木駅で降り、新宿駅寄りの十号車乗り場付近からドコモタワーを見る。

 高円寺駅は中央線と総武線のホームでドコモタワーやスカイツリーの見え方がちがう。
 わたしは総武線のホームの八号車と九号車乗り場(阿佐ケ谷駅寄り)の間くらいからドコモタワーと都庁を見ることが多い。たまに中央線のホームの新宿側からのドコモタワーとスカイツリーを見る。新宿寄りの二号車の乗り場あたりに両方見えるところもある。

 またタワーの話を書いてしまった。タワーが見えると嬉しい。タワーが見える場所を見つけるのも楽しい。この感情は何なのか。

2025/05/05

適齢期

 五月四日、午前中にコタツ布団を洗濯し、押入にしまう(昨年は四月三十日だった)。
 午後、西部古書会館。清水博著『有島兄弟三人列伝 武郎・生馬・里見弴』(須坂新聞社、一九八八年)、『秋の特別展 夢二と華宵展』(愛媛県立美術館、一九七四年)、『面白半分 全特集 佐藤愛子と田辺聖子』(一九七五年三月臨時増刊号)、『江戸後期歌舞伎資料展目録』(国会図書館、一九八一年)など。

 人生五十年といわれた時代と人生八十年、九十年の時代では生きる難易度がちがう。人の寿命はわからない。作家の年譜を見ていると、今の自分の齢より若くして亡くなった人はいくらでもいる。
 笠井潔が聞き手の山田風太郎ロングインタビュー「〈人生貼雑話〉忍びの読書術入門」(『文藝別冊 我らの山田風太郎』河出書房新社、二〇二一年)に「僕は、人間の死ぬ適齢期は六十五歳だとみています」という言葉があった。初出は『GQ JAPAN』(一九九五年三月)。風太郎、七十三歳。山田風太郎は二〇〇一年七月二十八日没。享年七十九。

 昨年秋、わたしは五十五歳になった。六十五歳……もそうだが、還暦まで四年半。二十代三十代のころはずっと先のことにおもえた齢が近づいている。
 六十五歳はシビアな数字におもう人もいるかもしれないが、今、五十五歳のわたしは「そこまでどうにかなれば御の字だな」という気分だ。たぶん六十五歳が近づけば、考えも変わるだろう。今は長生きしすぎてしまうほうが怖い。

………ここまで書いたところで昼寝二時間(十四時半から十六時半)。古代の中国みたいな町(看板がすべて漢字だった)の八差路で迷う夢を見る。
 夜の散歩。十九時半、そぞろ書房の「よりみち短歌展」を見る。帰りは小雨。高円寺駅北口芸術会館通りの東急ストアの前〜やよい軒前の信号あたりの歩道から東京スカイツリーを見る。緑のライティング。途中、色が変わる。高円寺の北口からスカイツリーが「見える」とわかって以降、朝でも昼でも夜でも「見える」ようになった。雨の日は見えないこともある。中央線の東方面の延長戦上にスカイツリーは建っている。しかしそのことを認識するまでまったく気づかなかった。
 人の目は見ているようで見ていない。高円寺駅の総武線・中央線の両ホームの新宿側からもスカイツリーは見える。いずれは建物に遮られ、見えなくなる日も来るかもしれない。

 古本もそういうことがある。長年探していた本を買う。一度入手すると、その後、頻繁に見かけるようになる。単行本と文庫ばかり買っていたときは図録などの大判本は視界に入っていなかったようにおもう。ずっとほしかった随筆集が新書で気づず、なかなか見つけられなかったこともある。
 興味のない分野の本は見ても記憶に残りにくい。目は脳の一部だから、脳が衰えれば目も弱る。その逆もあるだろう。

 衰え弱る過程も人生である——とはまだ達観できない。

2025/05/03

単純な事実

 気がつけば五月。コタツ布団を片付ける時期だが、明け方まだちょっと寒い。
 野方をうろうろ。上越泉(銭湯)に行く。ぬるめのお湯がありがたい。

 尾崎士郎著『京濱國道』(朝日新聞社、一九五七年)を読む。装丁は寺田政明(買ったときは気づかなかった)。街道小説としても面白い。「第三章 鈴ケ森・権八茶屋」にこんな一節がある。

《古い文献によると、大森から品川まで東海道は海とすれすれにつづいていて、ずっと昔は、鈴ケ森は笠島と呼ばれ、海中の島であったらしい》

《今日、八景坂という名前の残っているのは、大井と新井宿の境にある高地から見た景観を近江八景に模して名づけたものである》

 このあたりは古東海道(旧平間街道)も通っている。十年前ならこうした記述を読み飛ばしていたかもしれない。今はすぐ地図を見る。八景坂は東海道本線大森駅山王口前の近く(池上通り)。何年か前、「カフェ昔日の客」に行く前、駅前の八景天祖神社に寄った。

 作中、空襲の話も出てくる(第二十五章 「イエス」「ノー」)。

《昭和十九年の終りから二十年にかけて、東京市内の主要な場所はほとんど空襲をうけていた。山王一帯に強制疎開が始まったのは十九年も終りに入ってからであるが、朝から晩まで危険のなかに身をさらしている私たちにとっては、人間関係も、季節の変化も、もはや、ただ生きているという単純な事実としてうけるだけのことである》

 八十年前の五月二日、ドイツは首都ベルリン陥落。東京は五月二十四日、二十五日、山の手大空襲があった。今は「ただ生きている」ということに関しては恵まれている。空襲がない。強制疎開もない。食料事情、衛生、医療も向上した。

 いっぽう「ただ生きている」がややこしくなった。日々の営みが複雑になった。散歩と読書、家事ときどき仕事。それで生きていければいいのだが、それがむずかしい。