2010/05/31

岡山から

『活字と自活』(本の雑誌社)所収のいちばん古い原稿は二〇〇四年春くらいの『クイック・ジャパン』のコラム。六年分の原稿を読んでいて、自分の文章の中に、そのときどきに飲んだり遊んだりしていた友人の言葉や考え方がずいぶん溶け込んでいることに気づいた。

 刊行は七月十三日くらいの予定です。

 土曜日、岡山からカメラマンの藤井豊さんが上京する。今回の本は藤井さんが十年くらい前に撮った高円寺の写真が随所に出てくる。
 深夜〇時すぎ、コクテイルからペリカン時代に行く途中、道でだるまさんがころんだをやっている家族がいる。藤井さん、「写真とってもええっすか」と話しかける。

 ペリカン時代の増岡さん、原さんと藤井さんが会うのは十年ぶりくらいだったのだが、まったくそんなかんじがしない。高円寺にいたころの藤井さんが、いかに変だったかという話題がつきない。
 もともと藤井さんの同級生のライターが高円寺に住んでいて、「地元におもしれえやつがおるんじゃ」というので「遊びにきたら」と電話したら、その翌日くらいにすぐうちに遊びにきて、気がついたら、高円寺に住むようになった。
 その後、知り合いの職場(在日フィリピン人向けの新聞を作っている)に藤井さんを送り込んだところ、なぜか道で弁当を売っていた。
「何しているの?」
「ようわからんけど、こういうことになってしまったんじゃ」

 岡山に帰ってからは「今、畑やっとります」「今、牡蠣の殻むきやっとります」と連絡があるたびに仕事が変わる。
 今は家具の会社で働きながら、写真を撮っている。

 六月、倉敷の蟲文庫で藤井さんは「僕のおばあちゃん」という個展を開催(六月十八日〜七月二日)。
 藤井さんのおばあさんは、麦稈真田(ばっかんさなだ)編みの名人だったという話を聞いたことがある。

 さらに蟲文庫では「武藤亮子 個展『曇天画』」(八月十日〜二十二日)という企画もあります。

 それから七月、トークショーをします。

・西荻ブックマーク vol.44
「つれづれなるままに古本」
荻原魚雷、向井透史(古書現世)
7月11日(日)
場所:今野スタジオマーレ
開場:16:30/開演:17:00
料金:1500円
定員:30名
要予約

http://nishiogi-bookmark.org/2010/nbm44/


※当日、会場で(なんとか間にあえば)単行本の先行発売させていただく予定です。

2010/05/22

上林暁展

 知り合いの古本屋さんに、杉並区立郷土博物館で、写真展「杉並の作家たち 上林暁展 闘病の作家 その作品と生涯」という企画が開催中であることを教えてもらいました。
 六月二十日(日)まで。
【開館時間】午前九時〜午後五時
【休館日】毎週月曜日・毎月第三木曜日(祝日・休日の場合は、翌日)

 同時開催の「杉並文学館」の特集では「上林暁 文学への情熱」という企画もあり、上林暁が左手で書いた原稿なども展示されるそうだ。

 また五月二十三日(日)には「杉並文学館」で上林暁の創作活動を支えた妹・徳廣睦子さんの講演会もあります。

 講演「兄の左手〜看病と創作の思い出」
【日時】五月二十三日(日) 午後二時〜四時(午後一時から整理券を配布)
【講師】徳廣睦子 聞き手「あかつき文学保存会」代表・萩原茂
【定員】六十名(先着順)

 天気がよければ、自転車で行ってこようとおもう。
 最近、『諷詠詩人』(新潮社)を読み返して、ひさびさに上林熱にやられました。

・杉並区立郷土博物館(http://www2.city.suginami.tokyo.jp/histmus/index.asp

2010/05/21

本の題

 本の雑誌社から出る単行本のタイトルは『活字と自活』に決まりました。
 このブログで書いた「十年前」を加筆した文章の改題作のタイトルでもあります。

 好きなことを仕事にする。しかしほんとうに好きなことを仕事にすると、それはそれで次々とむずかしい問題が出てくる。自分のほうから、むずかしい問題が出てくる方向に突き進んでいってしまうといったほうがいいのかもしれない。

 誰かにいわれたことがそのとおりにできても、場合によっては、マイナスになることがある。いまだにその見極めはむずかしい。
 何を書くかどう書くかといったことにしても、自分の感覚で選んでいくしかない。
 開き直るわけではないが、その感覚はまちがっていてもいいのである。まちがっていると自分でわかる前に修正してしまうのはよくない。人にいわれてすぐ修正する癖を身につけてしまうと、自分のやりたいことがわからなくなる。

 友人のミュージシャンが、わかりやすくてノリのいい曲を作った。わたしが「いい曲だねえ」とほめたら、「ええ、そうか。ぜんぜんおもしろくないとおもったんだけどなあ」という。
 写真家の友人も、同じような反応をよくする。こちらが見てすぐ「いい」とおもうような写真をほめてもちっとも喜ばない。
 逆に本人が気にいっている写真を見せてもらうと、どこがいいのかまったくわからない。

 多くの人が「いい」とおもうものと自分が「いい」とおもうものが重なるのは理想なのかもしれないが、わたしはそこがずっとズレている人の表現が好きである。
 十代二十代のころは、多くの人がそうしたズレを抱えている。でもそのズレはいつの間にかなくなってしまう。

 わたしも二十代のころは、いろんな人からああしろこうしろといわれた。
 いわれたことをすぐやると、たいていおかしくなる。中にはありがたい忠告や助言もあった。でも自分に合わないことをやっても、なかなかうまくいかない。
 他人の意見というのは、頭の片隅におぼえておいて、ときどきおもいだすくらいでいいのではないか。

 時には他人の意見とぶつかりあうことも大事なのだが、ぶつかってばかりいると、いつの間にか角がとれてしまうこともある。
 角がとれてしまうのは、かならずしもいいこととはかぎらない。
 最近、よくそうおもう。