本を読むときのからだの調子や頭の具合についてよく考える。
健康すぎるとだめだ。外に出たくなる。酒が飲みたくなる。からだを動かしたくなる。じっとしていられない。かといって、風邪をひいていたり、疲れすぎたりしていてもいけない。体調がわるいと、活字も頭にはいってこない。
程よく怠いこと。
わたしが本を読んでいるとき、集中できるというか、しっくりくるのはそういう状態である。
程よい怠さは、酒を飲んだときのほろ酔いの状態と似ている。狙ってその状態を作り出せない。
ずっとほろ酔いが続けばいいのになあとおもっていても続かない。たいてい痛飲し、泥酔し、二日酔いになる。
尾崎一雄の「日記」という随筆がある。
これまで日記を書いてこなかったのだが、今年の元旦から書きはじめたという。
志賀直哉の全集の日記の巻を読んで「文章はどうでもいい、その日あつたことを簡単に書きとめ、かつは又何か感想でもあつたら、自分があとで読んで判る 程度に書いておく、将来何かの足しになるかならぬかはしばらく措き、現在の自分を整理するための一助にはなるだろう」とおもい、毎日何かを書き記そうと決 めた。
《志賀先生の日記には、一日分として、「忘れた」あるいは「無為」などと書いてあることがある。私のにもそんなのが続々と出てくるかも知れぬが、とにかくつけることはつける》
わたしもかつて日記をつけよとしたことが何度かあるのだけど、あまりにも毎日同じようなことしかやっていなくて続かなかった。
でも「無為」な時間が、何かの拍子に「有意義」に変わることがある。
そのときそのときはただただどうしようもなく怠惰にすごしているだけなのだが、後からふりかえると、そんな無意味におもっていた時間から得るものが、あったりなかったりする。
本を読んでいるあいだ考えていたことは、ほとんど忘れてしまうのだが、やっぱり、それも何かの拍子におもいだすことがある。
今は何もおもいだせない。
2011/05/24
散財散歩
『小沢信男さん、あなたはどうやって食ってきましたか』(編集グループSURE)を読む。聞き手は、津野海太郎、黒川創。
《昔からずーっと、そんなに仕事をしないやつと思われていて。だけど、それにしちゃあね、まめに仕事をしているんだよ》
どうやって食ってきたのかと聞かれて、「ようするに、基本的にはずっと親のすねをかじっていたんですよね」「すねっていうのは、かじり続けていれば、かじれるんですよ」と悪びれずに語っているかんじが、おかしい。
新聞代や光熱費などの生活費は、タウン誌(『うえの』)の編集でどうにかなった。
「新日本文学」のような左翼系の場合、労働組合の新聞や雑誌の仕事があり、それが定収入になることもあったようだ。
あまりお金をつかわない生活をしていれば、サラリーマンの平均収入の半分くらいでも大丈夫という話に勇気づけられる
*
午後、ひさしぶりに阿佐ケ谷散歩。最近、十二枚セットの布巾を見かけなくて困っていた。以前は二百円前後だったのだが、三百円前後になっている。
帰りは新高円寺のほうに向かって歩き、アニマル洋子、ルネサンスに寄る。
昔住んでいたアパートの近所にdaysという文房具のセレクトショップがあり、カッターナイフと消しゴムを買う。
そのあと円盤に行って、かえる目の『拝借』をようやく購入。
しばらくかけっぱなしになる予感。
最近、京都のガケ書房に行ったとき、ちょうど店内でかかっていた平賀さち枝の『さっちゃん』というCDをずっと聴いていた。「阿佐ケ谷の部屋」「高円寺にて」という曲も収録。
歌手になるしかないような声だなとおもう。
散歩して古本屋をまわってCDを聴きながら酒を飲んで気分がよくなる。
《昔からずーっと、そんなに仕事をしないやつと思われていて。だけど、それにしちゃあね、まめに仕事をしているんだよ》
どうやって食ってきたのかと聞かれて、「ようするに、基本的にはずっと親のすねをかじっていたんですよね」「すねっていうのは、かじり続けていれば、かじれるんですよ」と悪びれずに語っているかんじが、おかしい。
新聞代や光熱費などの生活費は、タウン誌(『うえの』)の編集でどうにかなった。
「新日本文学」のような左翼系の場合、労働組合の新聞や雑誌の仕事があり、それが定収入になることもあったようだ。
あまりお金をつかわない生活をしていれば、サラリーマンの平均収入の半分くらいでも大丈夫という話に勇気づけられる
*
午後、ひさしぶりに阿佐ケ谷散歩。最近、十二枚セットの布巾を見かけなくて困っていた。以前は二百円前後だったのだが、三百円前後になっている。
帰りは新高円寺のほうに向かって歩き、アニマル洋子、ルネサンスに寄る。
昔住んでいたアパートの近所にdaysという文房具のセレクトショップがあり、カッターナイフと消しゴムを買う。
そのあと円盤に行って、かえる目の『拝借』をようやく購入。
しばらくかけっぱなしになる予感。
最近、京都のガケ書房に行ったとき、ちょうど店内でかかっていた平賀さち枝の『さっちゃん』というCDをずっと聴いていた。「阿佐ケ谷の部屋」「高円寺にて」という曲も収録。
歌手になるしかないような声だなとおもう。
散歩して古本屋をまわってCDを聴きながら酒を飲んで気分がよくなる。
2011/05/19
そこにいること
土曜日、西部古書会館の古本博覧会。ひさしぶりに初日の午前十時前に並ぶ(前日から時差調整していたのだ)。盛林堂がいい本を格安で出ていた。股旅堂が出品していた本もけっこう買った。
古本博覧会は若い(といっても、わたしと同世代)古書店主が参加しているせいか、いつもの古書展と棚の雰囲気がずいぶんちがう。
棚の数を減らし、本も見やすい。量を重視するお客さんには物足りないかもしれないが、わたしはこの試みはすごくいいとおもう。昔から、棚と棚のあいだで押しあいへしあいになるかんじが苦手なのである。
そのあと仕事があって、あずま通りの青空市は日曜日に行った。
こちらも楽しかった。
*
『活字と自活』(本の雑誌社)の写真を撮った岡山在住の藤井豊さんが、一ヶ月以上、青森から福島まで、ほぼ徒歩で写真を撮り歩き、その帰りに東京にやってきた。
ペリカン時代で珍道中としかいいようのない話を何時間にもわたって聞かせてもらったのだが、いずれ写真といっしょに藤井さん自身が語るときがくるとおもうので、その内容は秘しておく。
ただ、藤井さんは顔つきが別人のように変わっていて、野人化していた。
写真家にとっての才能は、いろいろなセンスもあるのだろうけど、何よりも「そこにいること」だろう。
では、わたしにとって「そこにいること」とは何だろう。
外出するときにマスクを着用し(今のところしていない)、水や食べ物を気にしたり(まあ、多少は)、洗濯物を外に干すかどうか迷ったり(やむをえず部屋干し)、そんなおもいをしてまで、東京にいる理由はあるのかと自問する。
酒びたりの不健康な生活をしていても、四十歳すぎていても、子供がいなくても、放射性物質は怖いし、いやだよ。
地震や原発事故と関係なく、いつ食えなくなってもおかしくないという不安もある。
このままここにいられるのか。
どこにいけばいいのか。
毎日のように考えてしまう。
まあ、答えはいつも同じなのだが。
古本博覧会は若い(といっても、わたしと同世代)古書店主が参加しているせいか、いつもの古書展と棚の雰囲気がずいぶんちがう。
棚の数を減らし、本も見やすい。量を重視するお客さんには物足りないかもしれないが、わたしはこの試みはすごくいいとおもう。昔から、棚と棚のあいだで押しあいへしあいになるかんじが苦手なのである。
そのあと仕事があって、あずま通りの青空市は日曜日に行った。
こちらも楽しかった。
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『活字と自活』(本の雑誌社)の写真を撮った岡山在住の藤井豊さんが、一ヶ月以上、青森から福島まで、ほぼ徒歩で写真を撮り歩き、その帰りに東京にやってきた。
ペリカン時代で珍道中としかいいようのない話を何時間にもわたって聞かせてもらったのだが、いずれ写真といっしょに藤井さん自身が語るときがくるとおもうので、その内容は秘しておく。
ただ、藤井さんは顔つきが別人のように変わっていて、野人化していた。
写真家にとっての才能は、いろいろなセンスもあるのだろうけど、何よりも「そこにいること」だろう。
では、わたしにとって「そこにいること」とは何だろう。
外出するときにマスクを着用し(今のところしていない)、水や食べ物を気にしたり(まあ、多少は)、洗濯物を外に干すかどうか迷ったり(やむをえず部屋干し)、そんなおもいをしてまで、東京にいる理由はあるのかと自問する。
酒びたりの不健康な生活をしていても、四十歳すぎていても、子供がいなくても、放射性物質は怖いし、いやだよ。
地震や原発事故と関係なく、いつ食えなくなってもおかしくないという不安もある。
このままここにいられるのか。
どこにいけばいいのか。
毎日のように考えてしまう。
まあ、答えはいつも同じなのだが。
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