2012/10/30

内側の技術(七)

 好きになればなるほど、スポーツや芸事はどんどん上達するし、理解は深まる。しかし、それを実行することは、それほど容易いことではない。

 二十代の半ばくらいまでは、一冊の本に感激したら、その世界がどこまで広く深くても、後先考えずに飛び込んで耽溺することができた。
 残念ながら、今はそうではない。

『禅ゴルフ』や『新インナーゴルフ』をおもしろく読みつつも、もうひとりの自分が「これ以上、趣味を広げる余裕はないぞ。ゴルフ、ダメ、絶対。禅やヨガには近寄るな」と忠告する。

 ガルウェイのインナーゲーム理論は、もうひとりの自分が、無意識のうちに内なる欲求に歯止めをかけ、本来の動きを抑えこむ心理をくわしく解説している。

 わたしはガルウェイの本で「好調の波」を「ストリーク(streak)」ということを知った。

《いかにスランプから脱出するか、いかにストリークを続けるか。この2つの質問には、興味深い共通項があることにも、私は気づいた。前者は、スランプにいる自分は何かをしなければそのままスランプに留まるのだと仮定し、後者は何かをしなければストリークは終わってしまうと仮定していることだ》(「スランプからの脱出」/『新インナーゴルフ』)

 たとえば、悪いショットが続く。そうすると、次も失敗するのではないかと不安になる。よいショットが続いたときに、こんなことは続かないと悲観する。
 その不安や悲観は、次のショットにも影響を与え、スランプは長引き、ストリークを失速させる。

 わたしの場合、何か新しいことに興味をもつと、気持が高揚する。そのうち仕事や生活などの現実にひきもどされ、おもしろいとおもうことよりも無難なことを選択しはじめると、いつの間にか興味をなくしてしまう。いちど冷えてしまった興味を再燃させることは困難を極める。

 もはや法則といっていいくらいにこのパターンをくりかえしている。

 今回、そのパターンを自覚できたのは収穫である。

 自分の限界は自分の心が作っている。
 齢とともにリミッターを解除することへの怖れが大きくなっている。

「書けば書くほど書くことがなくなる」
「次のテーマを温める時間がない」

 そんな不安が筆を重くしていたのだ。

 できるとおもってやってみても成功したり失敗したりするけど、できないとおもいながらやると、まずうまくいかない。

「もうすこし自分を信頼してみよう」

 まずはそこからだ。

(……とりあえず完)

内側の技術(六)

「型」と「感覚」について考えていると「どちらも一長一短ですな」というおもいがこみあげてくる。対処療法がいいのか自然治癒がいいのかといった論争みたいなものだ。

 よいレッスンを受け、上達した人は「型派」になり、自己流で技術を身につけた人は「感覚派」になる。それだけのことなのかもしれない。自分に合った方法を見つけようとすれば、どうしても自分の経験に左右されてしまう。

 ガルウェイは「型」と「感覚」は対立する概念ではなく、同じ海に流れるふたつの川のようなものと表現している。
 そのふたつの川のいずれを選んだとしても、障害になるのが「自己不信」だ。

『新インナーゴルフ』に「自己不信の克服」という章がある。

 不調のときの対処は、自分にたいする信頼を取り戻し、「リラックスした集中」を得ることだ。しかしそれができないから自己不信に陥る。

 ガルウェイの『インナーゲーム』(日刊スポーツ出版社、一九七六刊)では、無我夢中になってプレーする境地への到達方法こそが「内側のゲームそのものなのだ」と述べている。
 その方法は「好きになること」である。何かに集中するときも、その対象を好きになるのがいちばんの近道なのだ。

 あらためて『キャプテン翼』の「ボールは友だち! 怖くないよ!」というセリフは深いとおもった。
 精神集中の“持続時間”を伸ばす方法をガルウェイはヨガの教えから導きだす。

《特にインド・ヨガは、心の乱れを克服する過程で“愛”の力を発見した。バーキ・ヨガは、対象物に心を奪われることによって完全に精神統一(集中)の域に達しようとする思想だ》(「ボールに心を奪われよ」/『インナーゲーム』)

《集中がさらに深まるのは、心が集中の対象に興味を抱いたときだ。興味のないものに心を留めておくのは難しい。(中略)興味が深まれば、第一印象よりもさらに細かな、見えない部分にも興味を持ち始める。興味の奥行きが増せば、人は体験をより感じることが出来るようになり、興味を持ち続ける努力を支えることになる。けれど、興味を強制すれば興味は失われていく》(「集中技術の練習」/『新インナーゴルフ』)

 ことわざの「好きこそ物の上手なれ」と同じようなことをいっているのだが「興味の奥行き」という言葉は大事な指摘だ。
 もっとも「恋は盲目」という言葉もあるように、無我夢中の状態というのはまわりのことが見えなくなる。

……ここまで書いて、ちょっと散歩に出かけた。

 いつものように高円寺の古本屋をまわる。ゴルフやスポーツ心理学、禅やヨガの本が目に飛び込んでくる。
「しかし、待てよ」
 自分の気持にブレーキがかかる。
「今月は本を買いすぎてしまった」と反省する。

 スポーツ心理学の本は三十代半ばごろから気分転換用の本として買い続けてきたが、さすがに禅やヨガの本まで手を広げると、収拾がつかなくなるのではないか。テーマが大きくなりすぎて、探求する時間を捻出できそうにない。

 いくら好きになることが大事といっても、おのずと限度がある。

 古本に人生を捧げてもいいとおもうくらい好きで、しかもある意味仕事の一部になっているにもかかわらず、知らず知らずのうちにブレーキをかけてしまう。

(……続く)

内側の技術(五)

 ガルウェイはインナーゲーム理論で「正しいフォーム」に疑問を投げかける。
 つまり、人は自分の内なる欲求(感覚)に従ったほうが、より自分に合った理想にちかい動きになる。逆に頭で批評しながら、からだを動かそうとすると、ぎこちなくなる。
 簡単にいうと、ブルース・リーの「考えるな、感じろ」だ。

 コーチが言葉であれこれ説明したり、手とり足とり指示しなくても、ゲームに集中し、自分の感覚を信頼しながら、からだを動かしたほうが、はるかに上達するのが早い。

 もちろん、こうした考え方がすべての人に当てはまるかどうかはわからない。
 おそらく最初に型を徹底しておぼえることのほうが、自分の欲求に合致している人もいるだろう。
 とにかく「型」を自分のものにさえしてしまえば、こうしようああしようと悩みながらからだを動かさなくてもよくなる。

 自分に適したやり方はどちらなのか。
 いろいろなジャンルでも「型派」と「感覚派」に分かれる。

 料理でも「レシピ重視派」と「レシピ無視派」がいる。

 わたしは、その日の食材とか体調とか気分とか空腹度によって量や味つけを変える。最初は大雑把に作って、最後に味を整える。薄めに作って、後で味を足す。

 料理にかぎらず、たいていのことは感覚(自己流)でやっていて、何かを判断するときの価値基準も、楽とか心地よいとか、そういう感覚を優先する。こうした傾向はちょっとやそっとでは変わらないとおもう。

 インナーゲーム理論とはズレるかもしれないけど、自分の内なる欲求に従う人間というのは、チームプレイや共同作業にはあまり向いていない気がする。

 向き不向きでいえば、わたしは人に何かを教えたり、何かを教わるのも苦手である(まわりからもよくいわれる)。
 何かを習得するときのパターンは「観察(読書)→自己解釈(自問自答)→試行錯誤(工夫)」のみなのだ。

 自分もそうだから、人にたいしても「本人が気づかないかぎり、どうにもならない」とおもいがちだ。

 でも「感覚派」は「感覚派」で、常に自分の感覚に自信を持っているわけではない。
 自信がゆらいだときの修正は「型派」よりも厄介かもしれない。

 自分の内なる声に従ってやってきたのに、ある日突然、おもうようにできなくなる。
 急に「自己流でやってきたツケか」と反省する。
 反省しはじめると、どんどん堂々めぐりに陥って、「あれ、おかしい、こんなはずでは」と、それまで何も考えずにできたことすらできなくなる。

 この状態から脱け出す方法は「いや、俺はそうでなければいけないんだ」(尾崎一雄「暢気眼鏡」)という開き直りの自己肯定しかない。

 だめなときもふくめて自分の感覚を受けいれる。受けいれつつ、回復を待つ。
 半ばヤケクソで「寝れば直る(治る)」くらいのおもいこみも必要なのかもしれない。

(……続く)