2012/11/28

目的地に着いても…

 長そでのヒートテックを着て背中にカイロを貼る季節になった。どうしても寒いと(もともと少ない)外出時間が減る。運動不足になる。すこしは歩かないと頭もまわらない。

 藤本義一著『生きいそぎの記』(講談社文庫)はNEGIさんが持っていて、貸してもらえることになった。助かる。

『週刊ポスト』の連載をまとめた関川夏央著『やむを得ず早起き』(小学館)はすごすぎる。週一ペースでこの文章の質はちょっと考えられない。

 この本の中の「目的地に着いても立たない乗客」と題したコラムを読んでいたら、「私の一九七〇年代の友人に、一歳年長のT君というシナリオライターがいた」という文章があった。
 あるときT君が缶詰めになっていた神楽坂の旅館に呼び出され、オリジナルのシナリオを読まされる。

 そのシナリオは——。

《野心を抱いた六人のチンピラ・ヤクザが自滅する滑稽な悲劇の生原稿だった》

 関川夏央はT君に「イメージキャストが川谷拓三など大部屋上がりの役者では、とても客が入らないだろう」と感想を語った。さらにコラムでは、本人の気持を汲んで口に出さなかった批評も続く。

 昨年秋に河田拓也さんが刊行した雑誌『For Everyman』に「伝説のチンピラ映画シナリオ発掘掲載『六連発愚連隊』」、そして河田氏による高田純の追悼文、インタビューが収録されている。
 追悼文とインタビューの熱量には圧倒されたのだが、初読のさい、高田純の幻のシナリオはピンとこなかった。
 むしろわたしは河田氏の追悼文の言葉にこの作品の真価を教えられた。

 高田純にシナリオの掲載をお願いしたとき、初稿を「現在の自分の目に耐えられる形に書き直したい」といわれる。
 ほどなくして大幅にマイルドに改変されたシナリオを見せられた。

《すぐに小田原まで伺って、「馬鹿な連中の、愚かさや残酷さがそのまま書かれていたからこそ、この映画は人間に対して本当に寛容なんです。そこを無くしてしまったら、この脚本の潔い魅力が消えてしまう。現在の穏当さが孕む不寛容へのカウンターとしての、作品の意味が見えなくなってしまう」と、必死に説得した》(河田拓也「追悼・高田純」/『For Everyman』)

 高田純に向けられた言葉だが、わたしにもグサっときた。
 穏当さ、あるいはバランス感覚がないゆえ、生きづらさをおぼえる人がいる。
 同じように生きづらくても、自分と別種の欠落には不寛容になってしまうことがある。わたしはいわゆるヤクザ、チンピラ映画のよさがよくわからない人間である。

 でも「このままでは、映画化の可能性がない。現在の観客、特に女の子が観ないような形で送り出したくない」といった高田純の言葉はけっして軽いものではなかったとおもう。

(追記)
『やむを得ず早起き』のT君の話のひとつ前のコラムは山田太一のドラマ『男たちの旅路』の話だった。

2012/11/26

読みたい本が…

 すっかり明け方の空気は冬。先週から貼るカイロ生活に突入した。早くも真冬とほとんど変わらない服を着て外出している。

 山口正介著『江分利満家の崩壊』(新潮社)、深沢七郎対談集『生まれることは屁と同じ』(河出書房新社)、上林暁著『ツェッペリン飛行船と黙想』(幻戯書房)……十一月の新刊はすごいなあ。
 橘玲、関川夏央の連載も単行本化。読みたい本が増え続けている。

 ここ数年でいちばん部屋が散らかっている。月末のしめきりを乗り切ったら掃除したい。

・四十は初惑。この言葉の出典元を年内に見つける。

2012/11/21

泥のなかから

 前にも書いた話なのだが、『藤本義一の軽口浮世ばなし』(旺文社文庫)の中にわたしのものすごく好きなエピソードがある。

 映画監督の衣笠貞之助が、仕事の労をねぎらうために若き日の藤本義一に「役者馬鹿ってことがあるが、なにかひとつを通したなら、人間、馬鹿と呼ばれるまでになりなさい。たったひとつのことが出来ればいいじゃないか。他人には絶対に出来ないことが。そうでしょう。あいつでなくては出来ないということがあれば、それが人生の価値ですよ」といった。

 衣笠監督の言葉に感動した藤本義一は何とかお礼の気持を伝えようと「先生、風呂で背中を流させて下さいませんか」と申し出る。
 たぶん衣笠監督は「こいつ、バカだなあ」と喜んだのではないか。

 あと別のところで「泥のなかから素手で掴む」という言葉も出てくる。

《泥にまみれるという言葉があるけれども、知らず識らずの裡に泥にまみれて方角がわからなくなるのは中年以降の生き方であり、二十代は、自らが泥にまみれようと意識することからはじまらなくてはいけないように思うのだ。
 奪われるものがないから、自分の素手で掴もうとすることすべてが、自分の血となり肉となるような気がするのである》(「プロフェッショナルの意識」/同書)

 二十代にかぎらず、フリーの仕事を続けていくためには、泥にまみれて、素手で掴む感覚が必要な気がする。価値基準が何もない混沌とした世界に潜り溺れながら何かを掴みたい。でもしょっちゅうその気持は弱ってくる。

『藤本義一の軽口浮世ばなし』では、プロとアマの差について語った話もおもしろい。読み返すたびに唸ってしまう。

 今、藤本義一著『生きいそぎの記』(講談社文庫)を探している。おもいのほか古書価が上がっていておどろいた。