2015/11/29

「持続可能」ということ

 一日の大半は、古本を読んだり、酒を飲んだりしている。
 自分をとりまいている状況がもっと逼迫してきたら、今みたいな生活は送れなくなるだろう。そうならないために戦うべきなのか。
 どんな世の中になっても、のんびりぼんやりしながら、だらだら暮らしたい。そういう戦い方もあるのではないか。

 二十代前半のわたしはいわゆる「社会派」だった。仕事を干され、生活が苦しくなり、それどころではなくなった。
 当時、環境問題の分野では「持続可能性(英:sustainability)」という言葉がキーワードだった。今でもよくつかわれている言葉である。わたしは生活においても思想においても、持続できるスタンスを構築しなければならないと考えていた。

 強靭な肉体や精神力を前提とした生き方はできない。
 人間、病気もするし、年もとる。
 だから、弱っているときの自分を想定して、仕事や遊びの予定を組む。
 しかし続けることばかり考えていると、安全策ばかり選んでしまう。今まで通り、いつも通りの暮らしを維持したい。そうおもっているうちに、大きな変革を望まなくなる。

 少々嫌なことがあっても我慢する。「持続可能」な生活のためには忍耐と寛容が必須である。
 真面目に穏やかに暮らしているうちに、すこしずつだけど、仕事が長続きするようになった。
 その結果、「保守化」する。すぐ守りに入ってしまう。そういう落とし穴もある。

 そのあたりのバランスはすごくむずかしい。

2015/11/26

神保町

 今年は十一月半ばすぎてもあったかいなとおもっていたら、急に寒くなった。
 夕方、神保町。小諸そばでから揚げ二個サービス中のとろろ丼とうどんのセット、神田伯剌西爾でマンデリン。神保町に行くたびに、夏でも冬でも小諸そばのから揚げうどん(温)を注文しているのでお店の人に「今日はちがうんですね」といわれる。

 東京堂書店、『閑な読書人』(晶文社)が平積になっていた。吉上恭太著『ときには積ん読の日々』(トマソン社)と隣同士というのも嬉しい。
 今回の本はもっと早く刊行する予定……というか、当初は今年の春くらいに出すつもりで作業していたのだけど、途中で行き詰まって、この時期になってしまった。

 帰り中野駅で途中下車、薬局で葛根湯(冬の必需品)を買い、古本案内処に寄る。棚を見ていたら、声をかけられ、横を見たらトマソン社の松田友泉さんがいた。
 こんなところで会うかなとおもったが、こんなところだから会うのだろう。すこし前に岡崎武志さんも来ていたらしい(個人情報漏洩)。

 このあいだ、はじめて郵便局のレターパック(一八〇円)をつかった。厚さ二センチまでのものなら、一八〇円で送ることができる。ところが、穴の空いた定規にレターパックを通そうとすると、ギリギリひっかかる。最初は「ダメですね」といわれた。で、しかたなく、レターパック代を切手に交換してもらおうとしたら、郵便局の人「なんとかしてみましょう」と本を押しつぶすかんじで通してくれた。二センチというのは、本を送るには微妙な厚さであることがわかった。

2015/11/25

陀仙忌

 二十三日、午後一時すぎ京都駅。旅行客多い(わたしもそのひとりだが)。出町柳まで行って、古書善行堂。安西水丸『エンピツ絵描きの一人旅』(新潮社、一九九一年刊)、『私の本の読み方・探し方』(ダイヤモンド社、一九八〇年刊)を買う。
 一九七〇年代〜八〇年代のアンソロジーは見かけたら買うようにしている。
 善行堂で古書ダンデライオンひとり古本市のチラシをもらい、急遽予定(カナートでスガキヤのラーメンを食べる)を変更し、丸太町のアイタルガボンに行く。隣が誠光社(堀部篤史さんが新しくはじめる書店)で開店準備の追い込み作業中だった。

 丸太町から歩いて徳正寺。この日は「陀仙忌・辻潤遺墨と大月健の夜」。辻潤の書と愛用の尺八を見て、大月さんの京大の図書館の話、草野球と釣りの話を聞く。
 辻潤の命日は一九四四年十一月二十四日(とされている)。
 岡山から藤井豊さん、高松から福田賢治さんも来ていた。会の最初から酒。さらに打ち上げも飲み続ける。辻潤の会らしい。

 わたしは学生時代に辻潤を知った。アナキズムを入口に辻潤を読み、そこから読書が広がった。辻潤がきっかけで知り合った人も多い(扉野良人さんもそう)。

 深夜ラーメンを食べに行く。楽しい夜だった。

 翌日、メリーゴーランド京都で宇野亜喜良個展を見て、六曜社でコーヒーを飲んで、そのあと東京に帰る。
 京都滞在時間は二十四時間ピッタリ。来年は二泊三日くらいの旅行をもうすこししたい。