突然、ブログの仕様が変わり、投稿の仕方がわからなくなる。Bloggerの利用者、ついていけてますか。変な「+」マークをクリックすると新しい投稿が作成できるようだ。
新刊の『中年の本棚』(紀伊國屋書店)が出ました。「scripta」で二〇一三年春から二〇一九年秋まで続けた連載をまとめた一冊(書き下ろしも一篇収録)である。コロナ禍の推敲作業——五十肩の痛みに耐え、よく頑張ったとおもう。
今「中年本」は出版のひとつのジャンルになっている。「四十歳からの~」「五十歳からの~」といった本も合わせるとすごい量だ。就職氷河期世代の「中年本」も次々と刊行されている。
《仕事が減る。将来に不安をおぼえる。そのときにちょっとした発想の転換ができるかどうか》(「中年フリーランスの壁」/『中年の本棚』)
今もわたしはそういう状況にいる。自分の書いた文章に教えられ、気づかされることもある。「初心」を忘れず、「好奇心」を持続し、さらに休息をとって――中年は課題だらけである。
中年ひとりひとりの事情は多岐にわたる。子どものいないわたしは「親」という立場からの中年論には踏み込めなかった。自由業しか経験していないので勤め人の中年事情にも疎い。それでも中年期の「心のもや」を晴らす一助になるような本を目指したつもりだ。
ヘタな考え休むに似たり。だったら、とりあえず一休みしてから考えようというのが、わたしの人生の方針である。疲れた状態で悩んでもロクな結論に至らない。
今はどうにかこうにか本の形にまとまったことを喜びたい。
2020/07/28
藤原審爾のこと
藤原審爾著『一人はうまからず』(毎日新聞社、一九八五年)の「梅崎春生 その噂」は「もの書く連中で、戦後、最初の友人は、梅崎春生と江口榛一である」という一文ではじまる。
江口榛一は赤坂書店の『素直』の編集長である。
《「素直」に作品をわたしはのせてもらったし、そのころ梅崎は高円寺よりの阿佐ケ谷に住んでおり、わたしは阿佐ケ谷の外村繁師の宅へ泊っていたものだから、自然、親しくなったのである》
梅崎春生、阿佐ケ谷に住んでいたのか。
梅崎春生の年譜には一九四五年九月に「南武線稲田堤の知人宅にころがりこむ」、一九四六年二月「目黒区柿ノ木坂一五七の八匠衆一宅に転居」とある。
《それ以前、梅崎の噂をよくきいていたし、梅崎と一緒に住んでいた八匠衆一とは、もう知り合っていたから、万更知らぬ仲でもなかった》
一九四七年一月、梅崎春生は結婚、十月に世田谷区松原に引っ越す。松原には椎名麟三も住んでいた。
梅崎春生が「高円寺よりの阿佐ケ谷」に住んでいた時期を推測すると結婚して世田谷に引っ越すまでの間か。藤原審爾が梅崎春生にはじめて会ったのは「秋津温泉」を発表後とある。「秋津温泉」の発表は一九四七年——梅崎春生はその作品を「曲射砲で撃たれたようだ」と評した。
他のエッセイでも梅崎春生に誘われて新宿のハモニカ横丁で飲んだ話などを綴っている。
藤原審爾は一九二一年三月生まれ。幼いころ、両親を亡くし、岡山の父方の祖母に育てられた。
《わたしが育った家は、瀬戸内海の入り海ぞいの町で、岡山市から七里(約二十八キロ)ほど離れたところである。今は、隣町と一緒になり、備前市となっている》
すこし前に笠岡市の古城山公園の木山捷平の詩碑のことを書いたが、詩を選んだのは藤原審爾だったことを『一人はうまからず』の「木山捷平さんの詩のこと」で知る。
《わたしは、大いに迷ったが、「杉山の松」をえらんだ。二十の頃のわたしはこの「杉山の松」に出あい、大きな感銘をうけた》
江口榛一は赤坂書店の『素直』の編集長である。
《「素直」に作品をわたしはのせてもらったし、そのころ梅崎は高円寺よりの阿佐ケ谷に住んでおり、わたしは阿佐ケ谷の外村繁師の宅へ泊っていたものだから、自然、親しくなったのである》
梅崎春生、阿佐ケ谷に住んでいたのか。
梅崎春生の年譜には一九四五年九月に「南武線稲田堤の知人宅にころがりこむ」、一九四六年二月「目黒区柿ノ木坂一五七の八匠衆一宅に転居」とある。
《それ以前、梅崎の噂をよくきいていたし、梅崎と一緒に住んでいた八匠衆一とは、もう知り合っていたから、万更知らぬ仲でもなかった》
一九四七年一月、梅崎春生は結婚、十月に世田谷区松原に引っ越す。松原には椎名麟三も住んでいた。
梅崎春生が「高円寺よりの阿佐ケ谷」に住んでいた時期を推測すると結婚して世田谷に引っ越すまでの間か。藤原審爾が梅崎春生にはじめて会ったのは「秋津温泉」を発表後とある。「秋津温泉」の発表は一九四七年——梅崎春生はその作品を「曲射砲で撃たれたようだ」と評した。
他のエッセイでも梅崎春生に誘われて新宿のハモニカ横丁で飲んだ話などを綴っている。
藤原審爾は一九二一年三月生まれ。幼いころ、両親を亡くし、岡山の父方の祖母に育てられた。
《わたしが育った家は、瀬戸内海の入り海ぞいの町で、岡山市から七里(約二十八キロ)ほど離れたところである。今は、隣町と一緒になり、備前市となっている》
すこし前に笠岡市の古城山公園の木山捷平の詩碑のことを書いたが、詩を選んだのは藤原審爾だったことを『一人はうまからず』の「木山捷平さんの詩のこと」で知る。
《わたしは、大いに迷ったが、「杉山の松」をえらんだ。二十の頃のわたしはこの「杉山の松」に出あい、大きな感銘をうけた》
2020/07/27
住まいの話
QJWebの「半隠居遅報」は隔週から月一の連載に——報告が遅れてすみません。
今月は「『プリンセスメゾン』をコロナ禍に読む。持ち家か賃貸か。何かをしようと考えることによって初めて道が見えてくる」というコラムを書いた。
https://qjweb.jp/column/30553/
わたしは一度も持ち家に住んだことがない。
コロナ禍のすこし前までは地方移住も考えていたが、今はずっと高円寺界隈で暮らしたいとおもっている(そのうち気が変わるかもしれないが)。
二十代のころ、風呂なしアパートを転々と引っ越していた。当時、住まいに関するいちばんの悩みは防音だった。あと冬に銭湯やコインシャワーの帰り道、すぐ湯冷めしてしまうのもつらかった。
音の問題を気にせずに暮らせる風呂付の部屋に引っ越せば、人生の悩みの大半は解決するのではないかとさえおもっていた。そんなわけはない。
防音のしっかりした部屋はそうではない部屋より家賃が高い。家賃が高くなった分、仕事量を増やす必要がある。仕事が増えた分、ストレスも増え、仕事が減ったときの不安も増す。
三十歳ちかくで風呂付きの部屋に引っ越してしばらくすると今度は追い炊き機能付の風呂がある部屋に住みたくなった。おそらく追い炊き機能の次はジャグジーやサウナ付に憧れるのかもしれない。
人の欲はキリがない。簡単には満足できない。どこまで行っても不充足の日々である。
ただ、人の欲なんてそういうものと割り切ってしまえば、住まいに関しては、小さな不満を抱えているくらいでちょうどいいのかもしれない。
高円寺散歩の途中、入ったことのない喫茶店で富士正晴著『薮の中の旅』(PHP研究所、一九七六年)を読む。「所詮 人間」と題した連作随筆が面白い。
《人間は考える限り平屋に住んでた方がええ。せいぜい二階までや。火事の時飛び降りれるいうたら二階ぐらいまでやろ》
これは完全に同意である。古い考えかもしれないが、わたしは賃貸の物件を借りるとき「窓から逃げることができる」部屋を選んでいる。
もちろん理想の家は平屋である。
今月は「『プリンセスメゾン』をコロナ禍に読む。持ち家か賃貸か。何かをしようと考えることによって初めて道が見えてくる」というコラムを書いた。
https://qjweb.jp/column/30553/
わたしは一度も持ち家に住んだことがない。
コロナ禍のすこし前までは地方移住も考えていたが、今はずっと高円寺界隈で暮らしたいとおもっている(そのうち気が変わるかもしれないが)。
二十代のころ、風呂なしアパートを転々と引っ越していた。当時、住まいに関するいちばんの悩みは防音だった。あと冬に銭湯やコインシャワーの帰り道、すぐ湯冷めしてしまうのもつらかった。
音の問題を気にせずに暮らせる風呂付の部屋に引っ越せば、人生の悩みの大半は解決するのではないかとさえおもっていた。そんなわけはない。
防音のしっかりした部屋はそうではない部屋より家賃が高い。家賃が高くなった分、仕事量を増やす必要がある。仕事が増えた分、ストレスも増え、仕事が減ったときの不安も増す。
三十歳ちかくで風呂付きの部屋に引っ越してしばらくすると今度は追い炊き機能付の風呂がある部屋に住みたくなった。おそらく追い炊き機能の次はジャグジーやサウナ付に憧れるのかもしれない。
人の欲はキリがない。簡単には満足できない。どこまで行っても不充足の日々である。
ただ、人の欲なんてそういうものと割り切ってしまえば、住まいに関しては、小さな不満を抱えているくらいでちょうどいいのかもしれない。
高円寺散歩の途中、入ったことのない喫茶店で富士正晴著『薮の中の旅』(PHP研究所、一九七六年)を読む。「所詮 人間」と題した連作随筆が面白い。
《人間は考える限り平屋に住んでた方がええ。せいぜい二階までや。火事の時飛び降りれるいうたら二階ぐらいまでやろ》
これは完全に同意である。古い考えかもしれないが、わたしは賃貸の物件を借りるとき「窓から逃げることができる」部屋を選んでいる。
もちろん理想の家は平屋である。
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