2020/12/28

都丸書店のこと

 土曜日、改装したばかりのコクテイル書房へ。カウンターがすこし移動し、奥のほうが秘密基地(缶詰工場の予定?)みたいになっていた。日曜日、西部古書会館。一九九六年五月〜九七年三・四月の『旅行人』バックナンバー——宮田珠己さんの連載「社員の星(シャイン・オブ・スター★)」の掲載号を買う(『わたしの旅に何をする。』幻冬舎文庫にも収録) 

 数日前、高円寺の都丸書店閉店の件を知った。
 平日の夕方、店の前を通っても閉まっていることが多い。都丸書店の本店は中通り側、ガード下側と入口がふたつある。わたしは薄暗いガード側のほうから入ることが多かった。

 一九八九年秋に高円寺に引っ越した。下見をかねて町を散策したとき、都丸書店で古本を買った。ガード下の中古レコード屋のRARE(レア)にも寄った。RARE高円寺店は昨年四月末に閉店した。そのあと中通りの二階の喫茶ルバイヤートに入り、買ったばかりの本を読んでいたら、会計のさい、マスターに「古本好きなの?」と話しかけられ、古書即売展一覧のチラシをもらい、西部古書会館通いがはじまった。

 はじめて本の買取をしてもらったのも都丸書店だ。査定中、緊張したが、予想よりもいい値段で買い取ってもらい、本を買ったり売ったりする面白さを知った。

 都丸書店に関しては、社会科学系の本店ではなく、人文系の分店に通っていた。ガード下の分店は、大きな壁をぐるっと均一本が囲み、歩いているだけで大量の背表紙が目に入ってくる。かならずほしい本がある。知らない作家、知らない出版社の本が目に入る。それがどれほど恵まれた環境だったか。
 だから今回の本店より支店(その後、藍書店)がなくなったときのほうが喪失感は大きい。

 上京したころの高円寺のガード下には小雅房、それから球陽書房の分店もあり、散歩の巡回ルートだった。昼すぎに球陽書房の分店に行くと、店の人が焼酎を飲んでいたり、出前のラーメンを食べていたりしていた。そのゆるいかんじも好きだった。

 厳しい時期だからこそ、古本に救われる人はいる。自分もそのひとりだ。

2020/12/22

街道と路

 先週の火曜日から貼るカイロ生活がはじまった。防寒と腰痛予防である。今年の春先に買ったカイロがまだ残っている。
 一年経つのが早い。しかし昨年の十二月はけっこう昔のことにおもえる。今年は時間の流れ方が変だった。

 火曜日、座・高円寺「本の楽市」(十二月十九日~二十五日)に行く。
 植田正治=写真、石塚尊俊=文『出雲路旅情』(朝日新聞社、一九七一年)などを買う。朝日新聞社のカラーシリーズは『飛騨路の四季』や『花の大和路』といった街道本もある。

 街道の本を探すさい、信濃路や木曽路の「路」の字は重要なキーワードだ。どれだけあるのかわからない。さらに宿場町の本も膨大にある。知れば知るほど、未知の本が増えてゆく。

 出雲は一度だけ行ったことがある。青春18きっぷで東京から博多まで行って、帰りも18きっぷで日本海側の町をあちこち途中下車しながら新潟へ——四泊五日の旅だった。たしか福岡ドームがオープンした年だから一九九三年だ。球場でホークスの試合を観たが、記憶がない。

 そのころ二十五歳までに四十七都道府県を踏破するという目標を立てていた。予備校のPR誌の仕事でいろいろな講演会やシンポジウムを原稿にまとめる仕事をしていて、北海道から九州まであちこち出かけた。ついでに古本屋と中古レコード屋をまわった。もっと早く街道に興味を持っていれば——とおもうが、悔やんでも仕方がない。古本やレコードを背負って街道歩くのはきつかったにちがいない。

2020/12/13

行ける時に

『フライの雑誌』の最新号「特集 北海道」。もちろん釣りの特集なのだが、北海道の魚の生態、釣り場の特徴など、その道のプロというか筋金入りの趣味人(遊び人)のおもいのこもった文章がつまっていて、いつも以上に情報が濃い。
 わたしはこの号では根津甚八の話を書いた。一九九〇年代半ばごろ、根津甚八はフライフィッシングのエッセイを週刊誌に連載していた。編集後記にもすごく楽しみな一行があった。

 すこし前の『フライの雑誌』のブログ「あさ川日記」に「行ける時に釣りに行っておくんだ。なにかの理由で行けなくなっちゃうかもしれないでしょ。」という言葉があった。

 わたしは古本屋がそうだなと……。金曜日、荻窪の古書ワルツに行く。八〇年代と九〇年代に出たフライ・フィッシングの本を二冊。古書ワルツ、釣りの本がけっこうあった。『信濃路とわたし』(社団法人、信濃路、一九七〇年)は、はじめて見た。タウンセブンの地下でぶりの寿司を買う。

 古書ワルツで買った大岡昇平著『戦争』(岩波現代文庫、二〇〇七年)を読む。単行本は一九七〇年刊。

《その頃は古谷綱武なんていう仲間としょっちゅう学校をさぼって、丸善の二階へいったり、神田の古本屋をウロウロしたりというようなことをやってたんですけどね。ある時古本屋のまん中でフッとこう考えたんだよね。ここには、人間の文化が始まって以来何千年に書かれた日本と外国の本がある。これを一生かかっても読んでこなすってことは、これはとてもできねえと思ったんだよね。そんなことより、まず自分がなにをするかをきめなきゃだめだ、その上で、自分に気に入ったものだけ選るんじゃないと間に合わない。自分で書けるように持っていかなきゃ意味ねえな、てなことを考えた覚えがあります》

「その頃」は一九二七年——大岡昇平十八歳である。

 上京後、十九、二十歳のころのわたしも似たようなことを考えた。本を読んでいるだけで一生終わるともおもった(それはそれで幸せかもしれないが)。
「自分がなにをするか」を決める。決めても変わるし、変わってもいい。まさか四十代後半から街道本を蒐集する人間になるとはおもわなかったですよ。

 二十代から三十代にかけて、わたしは小林秀雄と中村光夫を愛読していたのだが(今も読む)、ふたりと仲がよかった大岡昇平は敬遠していた。「ケンカ大岡」の印象が強くて、とっつきにくかったのだ。

 吉行淳之介著『懐かしい人たち』(ちくま文庫)の「三島事件当日の午後」という大岡昇平を回想したエッセイがある。

《大岡さんは東京育ちで、私もそうだからある程度分るのだが、こまかく気を使うタチで、それが相手に通じなかったり誤解されたりすると苛立ってくる。私の場合は我慢してしまうが、大岡さんはそのとき怒るのだろう。(中略)そのほかにも、筋の通らないことにたいしては、猛然と怒る、という話も聞いた。しかし、筋の立て方が、大岡さんと私と違う形になることも有り得るわけで、なにかスイッチの在り場所の分らない危険な爆発物を見るような気がして、あまり近づきたくない》

 いつキレるかわからない大御所を「危険な爆発物」と『大岡昇平全集』(中央公論社、一九七五年)の月報で評してしまう吉行淳之介もなかなか……。