2021/09/27

そんな日々

 土曜と日曜、西部古書会館。初日午前中は人が増えた。図録、雑誌、街道関連、文庫を少々。街道や宿場関連の本を探しているせいか「古道具」の本を見て「古道」の本かと反応してしまう。あと「武士道」や「茶道」など、「道」という字が入った本を見ると「そんな街道があるのか」と……。

 この数年、図録関連は同じものを二冊買ってしまうことが多い。記憶力の衰えと蔵書の整理が行き届かず、把握し切れなくなっているせいか。

 日曜日、ロマンコミック自選全集、あすなひろし『行ってしまった日々』(主婦の友社、一九七八年)を格安で買えたのは収穫だった。巻末「そんな私・そんな日々」は読者からの便りを紹介し、あすなひろしが返事のようなものを書いている。

 水戸の大学生からの手紙に「先生は『シティーボーイ』でもあり、また音楽はジェームス・テイラー、ディブ・ロギンス等のシンガーソングライターがお好きなのではないでしょうか。そして今の一番のお気に入りはマイケル・フランクス?」とあった。

 あすなひろしは読者の勝手なイメージに困惑。ちなみに水戸の学生の音楽の好みはわたしと似ている。たぶんこの時代のアメリカの音楽でいえば、スリー・ドッグ・ナイトも好きだったにちがいない。
 お便りコーナーは読者の住所が印刷されている(水戸の学生は住所なし)。昔の本、雑誌にはよくあることだった。このコーナーに『わが青春の鎌倉アカデミア』(岩波同時代ライブラリー、一九九六年)などの著作もある脚本家の廣澤榮(広沢栄)の「ヤツが描く人たちはみんなステキなンだなあ」という手紙も。廣澤榮はあすなひろしの漫画の原作・脚色もしていた。

 すこし前に『東京古書組合百年史』(東京都古書籍商業協同組合)を入手した。「中央線支部史」に西部古書会館の土足化の改修工事のことが書いてあった。以前は(お世辞にもきれいとはいえない)スリッパに履き替えていたのだが、いつ切り替わったか記憶があやふやになっていた(東日本大震災の前だったか後だったか……)。
 お客さんが多いときは入口の前の靴が積み重なり、自分の靴を探すのに苦労したのも今となってはいい思い出だ。

《この改修工事を境に、「B&A」「小さな古本博覧会」「均一祭」などの独自のコンセプトの即売会が新たに登場した》

 改修工事は二〇一〇年八月。十一年前か。月日が経つのは早い。

2021/09/25

井伏備忘録 その七

 金曜日、午後二時半ごろ、高円寺駅に行くと電車が止まっているとアナウンスが流れた。この日、荻窪か西荻窪の古本屋を回るつもりだった。新高円寺まで歩いて丸ノ内線に乗る。
 古書ワルツで井伏鱒二著『たらちね』(筑摩書房、一九九二年)を買う(持っていたはずなのだが、探しても見つからなかった)。

《私が福山(誠之館)中学に入学して、寄宿舎に入ると、上級生たちが先輩の噂をして、「この学校には、卒業生のなかに、福原の麟さんといふ秀才がゐた。とてもおだやかな秀才だつた」と云つてゐた》

「福原の麟さん」は英文学者でエッセイストの福原麟太郎。一八九四年十月生まれ。井伏鱒二は一八九八年二月、早生まれだから学年でいえば三年ちがいか。同郷ということは知っていたが、これまで二人の年の差を意識したことがなかった。

 午後三時すぎ、まだ電車は動いてなかったので途中阿佐ケ谷の古本屋に寄り、高円寺まで歩いた。
 家に帰り、井伏鱒二著『鶏肋集・半生記』(講談社文芸文庫)所収の「牛込鶴巻町」を読み返す。初出は一九三七年。学生時代の六年間、井伏鱒二は(ほぼ)早稲田界隈に下宿していた。

《鶴巻町の裏通りは本郷や神田や三田の学生町とちがい、ずぼらな風をしても目立たないような気持がする。街が引立たないせいもあるだろう。(中略)三十男が悄気込んで歩いていても、不自然な姿とは思われない。ふところ手で腕組して歩いても町の人は怪しまない。本郷や神田などに行くと、私はとてもそういうずぼらな恰好をして散歩する心の余裕がない。勝手にずぼらな恰好ができるところは牛込鶴巻町である。鶴巻町は私の散歩みちの故郷である》

 この話も井伏鱒二の好みがよくあらわれている気がする。
 近年すこし町並は変わってしまったが、荻窪界隈もずぼらな恰好で歩ける気楽さがある。

 以前、井伏鱒二の随筆でその人の歩き方と文章は似ているという話を読んだ記憶があるのだが、今はどこに書いてあったか思い出せない(勘違いかもしれない)。
 勘違いを元にした想像だが、堂々と歩く人は堂々とした文章を書く。逆にとぼとぼ歩く人はとぼとぼとした文章を書いてしまうのではないか。井伏鱒二の文章は着の身着のままの恰好でなじみの町を歩いているような感じがする。

2021/09/24

井伏備忘録 その六

 秋分の日、高田馬場から早稲田——鶴巻町のあたりを散歩し、古書現世、丸三文庫に寄る。
 家に帰って河盛好蔵編『井伏さんの横顔』(彌生書房、一九九三年)所収の今日出海「かけ心地の悪い椅子」を読む。井伏鱒二の小説について「彼の作品は面白いが、面白がらせようとは一切しない」と批評し、そして——。

《井伏は年をとって気むずかしくなったのではなく、始めから気むずかしかったのだ。だから自分の好きな片隅に独りいて、外に眼を向けたがらなかった。気分が鬱屈すると旅に出た。それも余り人目につかぬ甲州あたりの山の湯へ行って、ひっそりと湯につかっていた》

「自分の好きな片隅に独りいて、外に眼を向けたがらなかった」という言葉は井伏鱒二を的確に言い表わした言葉のようにおもう。今日出海はそのことをよくもわるくもいっていない。
 自分の資質、特性を守り抜くこと。たぶんその先にしか詩や文学はない——たぶん少数意見かもしれないが、わたしが好きな文学はそういうものだ。

「かけ心地の悪い椅子」では今日出海が京都の旅先で井伏鱒二と会い、飲み歩いたときの話も書いている。
 真夜中、店を閉めようとしている老婆が営む赤提灯の小汚い飲み屋があった。井伏鱒二は「一杯だけ飲ませてくれないか」と頼んだ。飲みはじめると、いつの間にか老婆は井伏鱒二を「先生」と呼び、次々とつまみを出した。二人は午前三時すぎくらいまでその店で飲んだ。

《かけ心地の悪い椅子に、あんなにゆっくり落ち着いていられるのは、余程修業を積まねば出来るわざではない》

 むしろ井伏鱒二はそういう店のほうが落ち着く性格だったのではないか。

『井伏さんの横顔』所収の木山捷平「眼鏡と床屋」にこんな話が出てくる。

 戦時中、ある春の日、木山捷平は荻窪の井伏邸を訪ねた。井伏鱒二は留守で、井伏の妻は「いまそこの床屋に行つてゐますから」といった。待っていても、まっすぐ家に帰ってくるかわからない。

《教えてもらつて行つてみると、その床屋は間口一間奥行二間あるかないかの粗末なミセだつた》

 木山捷平は「荻窪にはもつとハイカラな店が沢山ある筈なのに、どうしてこんな店に井伏氏が来てゐるのか訳がわからなかつた」と訝しみつつ、次のように推理する。

《これは多分、井伏氏が荻窪に引越して来た時、はじめて行つた店なのであらう。そのころ、昭和初年には、この井荻村へんは草深い田園だつたので、床屋といへばこの店が、ただ一軒あつただけなのかも知れない》

 あくまでも木山捷平の想像だが、いかにも井伏鱒二らしい話だなと……。