2021/10/29

六年ぶり八度目

 火曜日、東京ヤクルトスワローズがセ・リーグ優勝。シーズン前、今年のヤクルトは「育成の年」とおもっていた。例年と比べ、主力選手の故障者が少なく、毎年恒例の大型連敗がなかった。それでもマジック点灯以降、あと一歩のところで優勝を逃した二〇一一年のシーズンの記憶が何度も頭をよぎった。優勝が決まるその日まで浮かれてはいけない。「ゆだんたいてき おでんたいやき」である。

 六年前、二〇一五年の優勝決定の瞬間は神宮球場のライトスタンドにいた。あの日延長戦でサヨナラ安打を打った雄平選手は今年で引退する。雄平選手が投手から野手に転向した年にわたしはヤクルトの二軍の成績をチェックするようになり、ファームの面白さを知った。

 高津臣吾著『二軍監督の仕事』(光文社新書、二〇一八年)に五十歳近くなって野球にたいする考え方の変化を述べている箇所がある(高津監督は一九六八年生まれ)。

《野球の場合、相手もあることなので、こちらが最高の準備をしたとしても、相手が上回ってこちらが負けることは往々にしてある。
 一生懸命やって負けたら仕方ない。
 指導者になると、そう思える境地に達するようになるのだ。
 だから、選手が失敗しても責める気にすらならない。
 ひたすら、努力を怠らず、失敗した経験をプラスに変えてほしいと願うばかりだ》

 二軍の試合は目先の勝ち負けより選手の成長のほうが大事である。応燕しているわたしもそういう気持で試合を観る習慣ができた。

 すこし前——というか、つい先週、エラーをきっかけに逆転負けをした試合があった。二位とのゲーム差は〇・五。大事な試合での痛恨のミスだった(ずいぶん昔のことのようにおもえる)。試合後、高津監督の次の言葉が印象に残った。

《負けること、ミスを恐れてグラウンドに立つなんて絶対してほしくないし、全力でプレーしてくれたらそれでいい》

 プロとして長く活躍するためにはどれだけ失敗を乗り越えていけるかにかかっている。ミスを引きずらず、いかに気持を切り替えられるか。抑えのピッチャーだった高津監督は現役時代からメンタルの管理に長けていたのではないか。

 一時期は試合後にインターネットの掲示板の野球談義を楽しんでいたが、ここ数年、熱心なファンによる監督や選手への批判、他球団の選手への罵詈雑言を見るのがつらくなり、スポーツ新聞派に戻った。

 (追記)
……切り抜き帖を見ていたら、一九七八年十月二十七日の朝日新聞(夕刊)の尾崎一雄が文化勲章を受章したときの記事に「ヤクルトのファン。とくに母校の早大出身の広岡監督が大好きだそうで、ヤクルトの『日本一の座獲得』を追いかけるような受章の朗報に、うれしさを隠しきれない様子だ」とあった。記事の見出しは「一割打者が本塁打」。これも尾崎一雄の言葉だ。

2021/10/26

自分およびこの世

 今年は十月二十三日にコタツ布団を解禁した。コタツ、あたたかい。すでに長袖のヒートテックを着込み、貼るカイロも付けている(カイロは昨年買った分がけっこう残っている)。
 土曜日、西部古書会館の初日午前十一時すぎに行くと大盛況——もうすこし空いてからゆっくり本を見ようとおもい、しばらく近所を散歩する。いい本は売れてしまうかもしれないが、それはしょうがない。インターネットの古本屋が普及したおかげで古今東西の様々な書物を入手しやすくなったが、活字を身になじませる時間は減った気がする。

 富士正晴著『不参加ぐらし』(六興出版、一九八〇年)は、わたしの枕頭の書で、気分が晴れぬ日にしょっちゅう読み返す。表題「不参加ぐらし」は自身の暮らしぶりについて「どうにかしようと努める気にもならない」と述べ——。

《それでは発展もなく進歩もなく充実もなくということになるかも知れないが、今更発展しても進歩しても充実しても仕方がない》

 齢のせいか、もともとの性格のせいか、わたしもそういう気分によくなる。何かをする時間ではなく、何もしない時間がほしいとよくおもう。最新の流行、新しい価値観を否定する気はないが、できれば距離をとりたいという気持がある。この先の未来をつくるのは自分たちの世代ではない。すこしずつ次の世代のために場所を譲り、なるべく邪魔しないよう、ひっそりと好きなことをして暮らしたい。

《還暦もすぎれば少しは自分およびこの世が判って来るかと若い頃には思っていないでもなかったが、その年になってみると、自分およびこの世が一つ判れば二つ判らないことが出て来る有様で、これでは死ぬまで、自分およびこの世について茫漠とした認識を持ち続けるばかりだなという感じがする》(「憂き世」/『不参加ぐらし』)

 還暦はまだ先だが、五十歳をすぎたあたりからわたしもそういう感慨にとらわれるようになった。生きていく上での最低限の適応は心がけるつもりだが、世の移ろいについていこうという気持を失った。それよりもっと大事なことがあるような気がするのだが、それはあくまでも自分の問題で他人にあれこれいうべきことではない。そんな感じで口ごもることが増えた。

2021/10/21

八木義徳生誕百十年

 夕方神保町。午後五時すぎでもう薄暗い。冬が近づいている。そろそろコタツの準備を考える。

 行きと帰りの電車で『何年ぶりかの朝 八木義徳自選随筆集』(北海道新聞社、一九九四年)を読む。本書に「作家の姿勢」という随筆がある。
 八木義徳は原稿執筆中に悪寒に襲われる。熱を計ると三十九度六分。しばらく静養していると野口冨士男からこんな手紙が届く。

《高熱を発せられたご様子、いけませんねえ。自身の方法が最善だなどと主張する気は皆無(六回も七回も書き直すんですから、むしろ最悪ないし最低かも)ですが、馬券の一発勝負より日掛け貯金のほうがアンゼンなことだけは間違いありません。(中略)なにか今とは別の方法を考えないと大変なことになりますよ。病気は何度でもするけれど、人間は一回しか死なないという言葉、肝に銘じてください。(後略)》

 引用した手紙の「(中略)(後略)」は八木義徳自身によるものである。「作家の姿勢」の初出は一九八八年十月二十二日(北海道新聞夕刊)。八木義徳は一九一一年十月二十一日生まれだから、七十七歳のときの随筆だ。今日、生誕百十年。

『八木義徳 野口冨士男 往復書簡集』(田畑書店)には八木が高熱を出したことを伝える野口宛の手紙(九月十二日)は収録されているが、その返事(野口発、九月十五日過ぎ)は「逸失」とある。
「作家の姿勢」の引用部分は野口発の「逸失」した手紙の可能性が高い。
 八木義徳は野口からの手紙を次のように解説している。

《ここで野口のいう「馬券の一発勝負」というのは、仕事の締切りがギリギリに迫ったところで、半徹夜つづきで一気呵成にやっつけるという私のやり方のことで、「日掛け貯金」というのは、締切りの期限にまだ余裕のあるうちに、ともかくも机に向かって一日に二枚でも三枚でも着実に書き貯めて行くという野口自身のやり方のことである》

 八木はできれば野口のやり方で執筆したいが「どうしてもそれが出来ない」。そして「馬券の一発勝負」派、「日掛け貯金」派の二つの流儀は「作家それぞれの資質の問題」だと……。
 野口の手紙は「自身の方法が最善だなどと主張する気は皆無」と断っているとおり、八木の方法を否定しているのではなく、八木の体の心配をして書かれたものだ。

「作家の姿勢」はそう簡単に変えられるものではない。その姿勢は作風とも切り離せない。

……わたしは八木義徳の随筆を読み、「日掛け貯金」派を目指すことにした。