2021/12/31

終末のはじまり

 ちょっと前に稲井カオル『そのへんのアクタ』(白泉社)の二巻を読んで……何か感想を書き残しておきたいとおもいつつ、なんとなく、バタバタした日々を過ごしているうちに忘れていた。
 重厚な作品ではないので「名作」っぽさはないのだが、二〇二〇年代最重要作品になるかもしれない漫画だとわたしは予想している。

 ある日突然、「イズリアン」と呼ばれる地球外生命体が来襲し、人類の存亡をかけた死闘がはじまる。主人公のアクタは「終末の英雄」と呼ばれた戦士である。ところが、地球外生命体と人類の戦いは膠着状態に陥り、アクタは千葉基地から鳥取支部に「左遷」されてしまう。
 アクタは戦うこと以外は人付き合いをはじめ、とにかく不器用で出来ないことばかり。

 鳥取支部は元々ドライブインだった店舗がそのまま基地になっていて、隣のレストランはふつうに営業している。鳥取支部に来たアクタの最初の仕事は犬の散歩だ。そして廊下の拭き掃除を頼まれる。

 もちろん鳥取にも地球外生命体は襲来する。赴任後、初のイズリアンの襲来にアクタはようやく出番がきたと勇ましく出動しようとする。しかし副隊長の百福さんは彼を制止し、夜食の準備を手伝うことを命じる。
 百福さんはアクタにこう語りかける。

《私達が暮らすのは言わば「終わりそうで終わらない でもちょっとだけ終わりそうな世界」です》

《しかし私達はどんな時でも 毎日を過ごしていかなくてはなりません》

“戦闘マシーン”のような日々を送り、人間らしい思考と感情を削ぎ落としたアクタは鳥取に来て、食事の手伝いをしたり掃除をしたり散歩をしたり子どもと遊んだり「戦い」以外のことを学んでいく。

 わたしが子どものころに読んでいた漫画の「終末」は核戦争や隕石の衝突などで廃墟になった世界が舞台になっているものが多かった。弱肉強食の食うか食われるか、生きるか死ぬかのサバイバルの物語だ。しかしある時期——二〇一〇年代以降、じわじわと破局に向かうゆるやかな「終末」を淡々と暮らす作品が増えてきた。

『そのへんのアクタ』もその流れにある作品といっていい。地球外生命体との戦いは一進一退——いっぽう少子高齢化や過疎化による人口減の社会もさりげなく描かれている。でも悲愴感はない。緻密に練られたコントのような味わいもある。

『そのへんのアクタ』は、なかなか決着のつかない世界における長期戦、持久戦の心構えが描かれている漫画なのだ。
 人類の存亡をかけた戦いの中でも鳥取支部の隊員たちは、家事を怠らず、息抜きをし、冗談をいい合う。いろいろな仕事を掛け持ちしている。

《しかし私達はどんな時でも 毎日を過ごしていかなくてはなりません》

「終末の英雄」と呼ばれるような無敵の存在だったアクタが、左遷された理由もそこにある。自己を戦闘能力に特化し、まったく感情のブレがなく、ひたすら任務を遂行しようとする彼は知らず知らずのうちにまわりに無言のプレッシャーをかける。
——どうしておれと同じように自分の全てを捧げ、敵と戦わないのか。
 アクタはそんなことはいわないが、そういう雰囲気を発散し続けている。周囲の隊員たちはみんな息苦しくなる。

 いかに人類存亡の危機——に直面していようが、自分を犠牲にして、ずっと緊張し、集中し、戦いのことだけを考えるような毎日を過ごすのは「そのへん」の人には不可能である。イズリアンとの戦いはずっと続く。自分が生きている間には終わらない可能性もあるのだ。

 鳥取支部の隊員たちは緊張感がなく、みんなノリが軽く、いい加減だ。他愛もないことで笑ったり冗談をいったりふざけたりしている。戦うのが怖くて逃げ出してしまう隊員もいる。
 勝っても負けても、たとえゆるやかに衰退していく世界だったとしても、日々楽しく生きる。それがゆるやかな終末を生きるための知恵だろう。

『そのへんのアクタ』は今の時代に必要な思想——人生哲学をギャグをまじえて描いた作品ともいえる。もちろん、息抜きに読むにも最適な漫画だ。

2021/12/29

戦力外の話

 二十八日夜、年末恒例——「プロ野球戦力外通告」を観る。今年は番組には三十歳の投手が二人取り上げられていた(その二人以外では楽天を戦力外になった牧田和久投手も)。

 三十歳の選手は二人とも結婚していて子どもがいる。
 彼らは他球団から声がかからなければ、独立リーグに行くか海外でプレーするか現役引退か——そうした岐路に立っている。福岡ソフトバンクホークスの投手は引退し、球団職員の道を選び、今年台湾にいた元阪神タイガースの投手はトライアウトを受けたが期日までにオファーがなく、もう一年頑張ることに決めた。
 引退しても球団の職員、スタッフとして野球に関わる仕事ができるのはかなり恵まれた選手といっていい。

 真面目で練習熱心で試合に出ていないときでも味方の選手を大きな声で応援する。陽気でチームメイトに愛されている。そういう選手は引退後も球団のスタッフとして残ることが多い気がする。あと球団と出身校の関係なども左右することがある(ホークスの球団職員になった選手は福岡県の野球の名門校の出身だ)。逆に自分のことしか考えてなくて、ベンチの雰囲気をギスギスさせてしまうような選手はそこそこの成績を残していても戦力外候補になりやすいし、裏方としても声がかかりにくい。

 選手としては同じくらいの成績だったとしても、日頃の小さな積み重ねによって引退後の明暗は分かれる。

 戦力外になる選手は年齢もそうだが、プロとしての技術面で何らかの課題があるということだ。どんなに球が速くてもノーコンだとか、打撃は光るものがあっても守備がまずいとか、走攻守のセンスはあるけどケガが多いとか……。若いころは「伸びしろ」を期待され、多少の欠点があったとしても試合に出してもらえる。しかし三十歳の選手はそういうわけにはいかない。監督やコーチは同じような課題を抱えている選手であれば、若手に経験を積ませたいと考える。
 育成の期間が過ぎた三十歳前後の中堅の選手は確実性——計算できる選手かどうかが問われてくる。野手の場合でいえば、ゲーム終盤一点差で負けている局面でランナーを確実に送るバッティングもしくはバントができるかどうか。一アウトで三塁ランナーをホームに返すバッティングができるかどうか。レギュラーではない中堅選手であれば、複数のポジションを守れるユーティリティとしての能力も必要になってくる。投手なら四球が少なく三振がとれる——のが理想だが、とにかく簡単には崩れない、粘り強いピッチングができるようにならないと大事な場面を任せてもらえない。

 ベテラン選手になれば、自分の成績だけでなく、チーム全体のことまで考えないといけなくなる。そのときどきのチーム事情に応じ、様々な役割が求められるようになる。苦しいときにチームの士気を高める行動がとれるかどうかも大事な仕事だ。

 三十歳前後で戦力外になる選手は、自分のことで一杯一杯でまわりが見えていない。それからプロで生き残るための貪欲さみたいなものが足りない。

 一年前に戦力外通告を受け、今年台湾の球団にいた選手が妻にトライアウトの結果がダメだったらどうするのか——といったことを問い詰められる。選手は「今は考えられない」と答える。
 プロになるような選手はみんなアマチュア時代は野球の超エリートである。アルバイトなんてしたことがない選手が大半だろう。そういう選手が戦力外になった後、どういう人生を歩むのか……。

 一軍のレギュラーになれる選手は一握りである。そして本人の納得にいく形で引退できる選手はもっと少ない。野球好きとしては、みんな幸せになってくれることを願うばかりだ。

2021/12/24

大勢順応 その七

  午前中、銀行に行ったら店舗の外まで人が並んでいる。スーパーも混んでいた。諦める。自由業でよかったとおもうことの一つは混雑時を避けようとおもえばいくらでも避けれるところだろう。しかし長年、密を避ける生活を送っていると人混や行列にたいする耐性が落ちてくる。コンビニでも二人くらい並んでいると諦め、別の店舗まで足を延ばす。

 多くの人が集まる時間や場所をすぐズラそうとする。極力、他人といっしょに行動しない。わたしはそういう生活習慣がしみついてしまっている。

 三十代——というか三十歳前後、「大勢順応」しているフリして場数を踏んで経験値を上げよう作戦を考えた。わたしはおとなしそうにおもわれがちなのだが、協調性がまったくない。何でもかんでも自分のペースでやろうとする。要するに、しめきりさえ間に合わせれば、途中経過はどんなやり方をしてもいい——という感覚がどうやっても抜けない。
 経験値を上げよう作戦のさい、そこを直そうと考えた。そして無理なことがわかった。

 五十二歳の今のわたしが三十代前後の自分に助言するとすれば、「ちゃんと寝ろ」といいたい。昔のわたしはしょっちゅう徹夜し、体調を崩していた。睡眠と休息をとる。それから仕事する。そのほうが仕事も捗る。それがわかったことは大きな収穫だった。

 橋本治のいう「能力の獲得」とはちがうかもしれないが、自分の向き不向きや体調管理の大切さなど、失敗から学んだことはいろいろある。だから経験値上げ作戦は無駄ではなかった……とおもっている。

 その時代の「一つの価値観」に合うか合わないかの話でいえば、わたしの好きな戦中派の作家たちは十代二十代のときに「支配的な一つの価値体系」が崩壊する瞬間を目の当たりにした。昨日まで正しいとされていたものが一夜にして“悪”になる。とすれば、今日の“善”が明日“悪”に変わったとしても不思議ではない。

「みんな『いい人』の社会」は、自分に非がなく、“悪”は自分の外にある——それが集団になり、個人を排除、追放する。後になって、その個人に何の罪がなかったと判明しても、責任をとる人は誰もいない。それが「独裁者抜きのファシズム」の怖さである。法律も証拠の有無も関係なく、気分で人を裁く。一度動き出してしまうと歯止めが効かなくなる。

「独裁者抜きのファシズム」を止めるにはどうすればいいのか。個人で対処しようとすれば、一対百、一対千、一対万の争いになりかねない。こちらが「一」批判すれば、瞬時に「百」や「千」の反論が返ってくる。

 だから個別の戦いはできる限り避け(おそらく気力と体力が持たない)、その構造を解き明かすための地道な作業が必要になる。

 二十年以上前に橋本治は青年漫画誌の活字の頁でそういう作業をしていた。
「みんな『いい人』の社会」が「楽園」だとすると「失楽園」は「楽園」を失った世界——「支配的な一つの価値体系」が崩れ、消え去った世界とも解釈できる。

 では「失楽園」の「向こう側」に何があるのか。どうすればその「向こう側」に辿り着けるのか。
 おそらく「能力の獲得」というテーマも絡んでくるとおもうが、今のわたしはこの話を続ける余裕がない。もうすこし勉強し、体調を整えてから、この続きを書きたい。

(……未完)