2022/01/31

追分道中記

 土曜と日曜、西部古書会館の大均一祭に行く。初日は昼すぎ、二日目は夕方——頭が回らないまま棚を眺める。どうして冬になると、こんなに頭がぼーっとするのか。体がおもうように動かないのか。みんなどうしているのか。

 高円寺の歴史関係の出版社、有志舎の季刊フリーペーパー『CROSS ROADS』で「追分道中記」というエッセイを連載することになった(計四回の予定)。第一回掲載のVOL.11は一月三十一日刊。五年前に父が亡くなり、それから街道歩きをはじめるようになった——そのあたりの経緯もすこし書いた。
 コクテイル書房で飲んでいたとき、隣の席にいた有志舎の永滝さんに何度か酔っぱらって街道の話をした。しばらくして永滝さんが『街道の日本史』シリーズ(吉川弘文館)の担当編集者だったと知る。このシリーズの刊行開始は二十年ちょっと前。めちゃくちゃ調子にのって喋ってしまったよ。

 本多隆成、酒井一著『街道の日本史30 東海道と伊勢湾』(吉川弘文館、二〇〇四年)は鈴鹿市の神戸(かんべ)と白子(しろこ)のことも詳しく記されている。いずれも伊勢街道の宿場町である。

2022/01/29

別の進路

 昨年あたりから田畑書店が次々と良質な文芸書を刊行している。昨年九月に出た増田みず子著『理系的』(田畑書店)も素晴らしかった。ほとんど初読の随筆だった。

「井伏さん讃歌」はこんな一節からはじまる。

《井伏さんの小説をたくさん読んだ。こんないい方は大変失礼だと思うが、気が滅入ったときなどに井伏さんの文章をゆっくり時間をかけて読むと、元気になれた》

 わたしも元気がないときに井伏鱒二を読むことが多い。尾崎一雄もそうかもしれない。読むと、なんとなくささくれた神経が和らぐ。そして、だらだら、のんびりしていてもいいのではないかと……。

《井伏さんの小説を読むと、生きているのが悪くないことのように思えてくる。それはなぜなのか前々から考えている。
 テレビで井伏さん自身がいっていた。「悪口は書かない。性分が合わないんだ」》

——初出は「ちくま」(一九九三年九月号)

「夢と進路」の中学生のときの校長先生の話もよかった。

《進路を決めたらそれに向かって懸命に努力するのはもちろんだが、それがうまくいかなくても挫折と考えて落ち込んでしまわずに、別の進路にチャレンジしてみる柔軟さも必要だという話だった》

——初出は「旺文社ゼミ『HIGH PERFECT』 高2クラス」(一九九四年十二月号)

 昔から何かに挫折した後に再チャレンジする話を読んだり聞いたりするのが好きだ。なぜそういう話に魅かれるのかというと、年がら年中、食えなくなったら、どうするかということで悩んでいるからである。今もそのことばかり考えている。

2022/01/26

糖衣錠

 ジョージ・ミケシュ(マイクス)の『不機嫌な人のための人生読本』(ダイヤモンド社)の巻頭をかざるエッセイの題は「糖衣錠——良薬は口にも甘し——」。
 ミケシュはユダヤ系のハンガリー人でイギリスに亡命した作家である。
 ナチス時代のドイツとスターリン時代のソ連の迫害を知る彼は書き方も用心深い。そう簡単に尻尾をつかませない。
「糖衣錠」ではそんな自分の文章技法の種明かしをしている。

《こういった表現方法は、臆病に由来しているのである。(中略)ユーモア作家は——道化師たりとも例外ではないが——、まじめなことをいおうと欲し、必死になるときもあるが、あえてそうしようとはしないのである》

《薬とは、ときににがくあるべきである。しかし、錠剤は甘くすることができるのである》

 ミケシュは自身のコラムやエッセイを「糖衣錠」として世に発表することを心がけていた。当然、そんなオブラートに包んだ物言いでは世の中を変えることができないという反論もあるだろう。
 かといって、勇ましい直言であれば、世の中を大きく動かすことができるのかといえば、そうとも限らない。
「何を書くか」と同じかそれ以上に「どう書くか」というのはむずかしい問題だ。