2022/05/25

社会建設 その四

 橋本治著『父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない』(朝日新書、二〇一九年)は没後刊行された新書である。

《明治維新から太平洋戦争終結まで七十七年である。「まだ近代ではない」その期間を「もう近代だ」と思い込んでいた結果、一九四五年以後の日本の近代にはいろいろな歪みや思い違いが多い》(「誰も経験したことがない世界」/同書)

 今年は太平洋戦争終結から七十七年である。明治維新から敗戦までと「戦後」は同じ期間になった——「未来」について考える上ではそういう時間の感覚もあったほうがいい。

 この七十七年の社会のあり方を考えると軍事力から経済力に転換した流れがある。そして健康——長寿の国になった。高度経済成長は、公害問題をはじめ、国民の健康を犠牲に達成した一面がある。

 橋本治は『たとえ世界が終わっても』でバブル崩壊以降「『食』しか豊かにならなかった日本」とも指摘している。

 健康と食——あと何だろう。治安のよさもあるか。交通網の整備にしても世界有数の国である。

 地理環境の要因もあるが、水にも恵まれている。うまいものが食えて、ほどほどに健康で安全かつ便利に暮らせたら、それでいいんじゃないかというのが(漠然とした)国民の総意なのかもしれない。

 医療と食の充実した長寿国になった日本。この三十年の経済の低迷を考えると国力の配分がちょっとおかしい気がする。もっとも誰にとっても「正しい配分」なんてものはこの世に存在しない。

『知性の顛覆』(朝日新書)の第四章は「知の中央集権」にこんな一節がある。

《近代の日本人は、長い間「西洋的=進んでいてオシャレ」と考えて、西洋化の方向に突き進んで来た。西洋化する上で邪魔になるのは、長い時間をかけて積み上げられてしまった「日本的なもの」で、近代化する日本人は、それを古い土俗や因習と考えて切り捨て脱却することをもっぱらに考えた》

 軍事にしても経済にしても文化にしても、近代の日本は「西洋的なもの」を追いかけてきた。「その先の日本」 はどんな社会を目指すのか。すくなくとも「西洋的なもの」ではない。「東京的なもの」という言葉が浮んだが、話がややこしくなりそうなのでちょっと休む。

(……しばし中断)

2022/05/23

社会建設 その三

 橋本治の『たとえ世界が終わっても』は「その先の日本を生きる君たちへ」という副題が付いている。

『たとえ世界が終わっても』の刊行日は二〇一七年二月二十二日。この本が出た三ヶ月後に『知性の顛覆 日本人がバカになってしまう構造』(朝日新書)が刊行されている。

 ほぼ同時期に出た二冊の新書で「大きなものの終焉」(『たとえ世界が終わっても』)、「『大きいもの』はいつまでもつか」(『知性の顛覆』)と同じテーマが語られている。

 経済圏は大きければ大きいほどいいという時代は終わった。国土だって大きればいいというものではない。

《「でかけりゃいい、なんとしてでもでかくありたい」という、揉め事を惹き起こすだけの厄介な考え方は今でもまだ生きていて、ソ連邦を消滅させてしまったゴルバチョフは今のロシアではまったく人気がなく、「どういう手を使っても大国ロシアの威勢を復活させる」という独善的な大統領プーチンの人気は高いという》

 現在の価値観では「大国」の条件は「経済力」と切っても切り離せないが、「ロシアでは、このことがよく分からないらしい」。

《大昔の「大国」は、領土の広さで表された。やがてそれが、広い領土を獲得し維持するだけの強さ——軍事力の大きさが指標になり、その先で「経済力の大きさ」に取って代わられる》

 ソ連が崩壊した時期(一九九一年末)にEUが結成されるのも時代の指標が「経済力の大きさ」に変わったことと関係する。
 そして日本は後に「バブル」と呼ばれる時代が終焉を迎えた。

 この問題、ちょっと自分の手に負えない感じがしているのだが、ざっくりと書き残しておくと、いちおう日本は軍事と経済で世界有数の国になり、いずれも挫折した。
 高度経済成長は、国土を削り、海、川、大気を汚染し、劣悪な労働環境によって成し遂げた一面もある。
 逆に「失われた三十年」は環境や健康が改善された時代でもある。

 戦後は軍事から経済へ。バブル崩壊後は経済から健康に目標が変わったと考えると今の状況は(不本意な面はあるにせよ)理想通りといえなくもない。軍事も経済もアメリカに敵わないが、健康なら負けていない。

 日本のわるい癖はやりすぎてしまうことでほどほどにおさまらない。

「その先の日本」について考えるのであれば、「健康大国」の次——気楽に生きられる社会の建設ではないか。豊かさの質も時代とともに変わる。もちろん健康を損なわなくてすむためには経済力が必要であることはいうまでもない。

(……続く)

2022/05/19

社会建設 その二

 橋本治の『たとえ世界が終わっても』(集英社新書)の刊行は五年前。
 今回読み返して「まえがき」の「人は、若いと『未来』を考えます」という言葉が印象に残った。

 自分のため、社会のため、あるいは家族のため——その比率は人によってちがうだろう。
 わたしは「自分のため」ばかり考えて生きてきた。子どものころから社会に適応しづらい気質で、いつも周囲とズレていた。そのズレから生じる摩擦をどう避けるかということが、大きな関心事だった。大人になって以降も「社会のため」という発想が欠落していた。

 わたしの親は「社会のため」「家族のため」の比率が高い。基本、自分のことは後まわしだったのではないか。

《二十世紀が終わる二〇〇〇年に、私は五二歳でしたが、「二十一世紀になると同時に出そう」と思って、一九〇〇年から二〇〇〇年までの百年を一年刻みで語っていく『二十世紀』(ちくま文庫)という本をまとめました。説明抜きで言ってしまえば、この『たとえ世界が終わっても』という本は、その『二十世紀』の完結篇みたいなものですが、なんであれ、四十一歳や五十二歳の私はまだ若くて、「これから自分の進むべき方向」を考えていたのです》

 橋本治が四十一歳のときに書いたのは『'89』(マドラ出版)である。

『たとえ世界が終わっても』が刊行されたころ、イギリスのEU離脱、アメリカではドナルド・トランプが大統領になった。
 その二つの衝撃にたいし、橋本治は「今までの世界のあり方はもうおかしくなっていたのかもしれない」と語る。

 未来は若い人にまかせよう、世界のことはそれぞれの専門家にまかせよう——とわたしは考えがちである。中途半端な知識で余計なことをいうのはやめようと書いては消してをくりかえしている(わたしは書かないと考えられないのだ)。

 かつてのソ連は「社会建設」に失敗した国である。人民は「社会のため」に生きることを強制されたが、ソ連は“赤い貴族”と呼ばれる人たち以外は貧しい国のままだった。
 物資その他を運搬すると、途中でどこかへ消えてしまう。ソ連が崩壊し、ロシアになっても変わらない。

 今回のウクライナ侵攻でロシア兵による“略奪”のニュースを見て「ひどい」とおもう(いうまでもないが“武力侵攻”もひどい)。いっぽう自分はロシアを「ひどい」とおもえるような恵まれた国に生まれ育ったことについても考えてしまう。
 命がけの戦場から家電や農機具を持ち去ろうとする。バカげている。

 世界には“略奪”を「バカげている」とおもう国とおもわない国がある。独裁体制の国がある。民主主義が根づいていない国はいくらでもある。

 民主主義は、現状に不満をおぼえる国民が多数を占めると為政者が変わるシステムである。
 貧しい国では教育や医療やインフラの不備があるのが当たり前で、どんなに優秀な為政者であっても、その不満を解消することはむずかしい。

「社会建設」の前に国民の不満を抑え込まないと為政者は自分たちの安全を確保できない。クーデターその他で独裁者を引きずり下ろしたとしても、一足飛びに民主主義の社会にはならない。

(……続く)