2022/12/29

ここにいる

 水曜日、夕方五時ごろ、高円寺駅の総武線のホームから夕焼けと富士山を見る。西荻窪、荻窪の古本屋をまわりながら散歩する。荻窪駅の近くの善福寺川の遊歩道もすこし歩いた。

 渡辺京二、津田塾大学三砂ちづるゼミ著『女子学生、渡辺京二に会いに行く』(文春文庫)を再読——。最後の「無名に埋没せよ」の言葉がいい。

《ですから、人間というのは、簡単に言ったらもう学問なんかしなくたっていいわけなんです。芸術なんてわからなくたっていいんです。自分が生まれてきて楽しいことを十分に感じられる人間になること。(中略)毎年流れゆく四季、それから自分を取りまいている町の佇まい、あるいは空の色、あるいは四季折々に咲く花、そういう中で生きているという喜びを感じるということですね》

 行きつけの店、町を流れる川——自分が住んでいる町に喜びをおぼえる。そういうことが人にとって一番大事なのだと渡辺さんは語っている。

《慎ましく、具体的に自分の家族を大切にしたり、あるいは自分の隣人を大切にしたり、その時々には喧嘩もするでしょうけど、そういう自分の狭い周りの中で正直に生きてきた人間が、世界史上の災いを引き起こしたためしは一度もありません。
 ですから、社会のために役立とうなんて、そんなことはまず考えないことです》

 何十年も本に埋もれるような生活をしてきて、自分の住んでいる町やその隣町のことを知らずに生きてきたのだなと……最近そういうことをよくおもう。これまで自分の関心をもうすこし外に向けてみたくなった。

 福原麟太郎の「この世に生きること」(『野方閑居の記』沖積舎)や尾崎一雄の「生きる」(『新編 閑な老人』中公文庫)も同じようなことをいっているようにもおもえる。

 定年まであと三年という時期の福原麟太郎はこんなことを書いている。

《私は自然に関して昔から無関心で、良い景色を見るということに興味がなく、雪月花の趣にも、深い感興は湧かなかった。鳥の名や花の名も、知っている数がすくなく、知ろうともしなかった。然るに、五十歳前後から、何となく、季節に感じるというところがあって、われながら、不思議だと思った》

《人間は死ぬものだ。死の足音はもう聞えて来ているのだと思うと、あとは、しみじみと暮らしたい、わが生命を心ゆくまで楽しむ日に恵まれたいと願う》

 尾崎一雄の「生きる」にこんな一節がある。

《巨大な空間と時間の面に、一瞬浮んだアワの一粒に過ぎない私だが、私にとってはこの世こそがかけ換えのない時空である。いつの世でも、いろんなさまたげがあってそうはいかないけれど、すべての生きものは、生まれたからには精いっぱい充実した時をかさね、やがて定命がきて自然と朽ちるようにこの世を去りたいものだ》

《巨大な時間の中の、たった何十年というわずかなくぎりのうちに、偶然在ることを共にした生きもの、植物、石——何でもいいが、すべてそれらのものとの交わりは、それがいつ断たれるかわからぬだけに、切なるものがある》 

 尾崎一雄がこの随筆を書いたのは六十三歳。でも三十代前半から似たようなことをくりかえし書いている。

 わたしは今五十三歳で……と書きかけた途端、いろいろな言葉があふれてきて収拾がつかなくなったのでちょっと散歩してくる。

2022/12/26

年の瀬

 今年もあとちょっと。時が経つのが早すぎる。
 土曜日、西部古書会館。今年最後の古書展を見て、高円寺を散歩する。この日の収穫は日本近代文学館『日本近代文学図録』(毎日新聞社、一九六四年)など。『日本近代文学図録』は刊行時三千円。五十八年前の三千円は……今の感覚だといくらくらいなのか。一九六四年、岩波文庫が五十円、公務員の初任給が二万円くらいの時代だ。大判で索引含め、三百九十頁以上ある。尾崎一雄の「暢気眼鏡出版記念会芳名帳」の写真も載っている。記念会は昭和十二年四月二十四日「新宿高野フルーツパーラア」で開催。この会に古木鐵太郎も出席していたことを知る。

 古木鐵太郎(一八九九〜一九五四)は改造社の編集者で葛西善蔵、宇野浩二といった私小説作家を担当した。豊多摩郡和田堀町(後・杉並区)、杉並区高円寺、中野区野方、鷺宮あたりを転々と暮らす。散歩好きで高円寺・野方界隈をよく歩いた。
 わたしが大和町、野方のあたりを散策するようになったのは福原麟太郎と古木鐵太郎の影響でもある。もうすこし暖くなったら妙正寺川沿いを歩きたい。妙正寺川は橋がたくさんある。
 高円寺から野方に行くときは「でんでん橋」という小さな歩行者用の橋を通る。橋は野方駅南口(野方駅入口)のバス停の近く。「でんでん橋」の名前を知ったのはつい最近だ。都立家政方面に行くときは歩道と車道のある川北橋をよく通る。

「でんでんばしの由来」と題したサイト(他の記事は見当たらない)によると、二〇二〇年末あたりまで「でんでん橋」には欄干などに橋の名を記したプレートがなかったそうだ。このサイトに二〇二一年一月のプレートのついた橋の写真が掲載されている。昔のでんでん橋は木製で下駄で渡ると「でんでん」と音が鳴り響いたことから、その名がついた(らしい)——という地元の高齢者の方から聞いた話を紹介している。

 昨日、都立家政方面を散歩した。駅南口に「かせいチャン」というモニュメントを見かけた。ちばてつやがデザインしたマスコットで、都立家政商店街には「かせいチャン七福神」がある。散歩中いくつか見かけた。

2022/12/19

冬晴れ

 先週の水曜日、午後二時すぎJR総武線の高円寺駅のホーム(阿佐ケ谷駅寄りの端)から南西の方角に富士山がよく見えた。晴れた日でも雲が少しでもあると見えないことも多い。電車に乗る日、時間、天候その他を考えると高円寺駅のホームから富士山を見るのは年に数日あるかどうか。

 福原麟太郎著『野方閑居の記』(新潮社、沖積舎)に「四十歳の歌」という随筆がある。『福原麟太郎集』(彌生書房、一九八一年)、『福原麟太郎随筆選』(研究社出版、一九八一年)にも入っている。初出は「中外商業新報」(一九三四年九月)。福原麟太郎は一八九四年十月生まれだから、四十歳のすこし手前に書いた文章である。

《四十歳の歌は秋の歌である。蕭条として心が澄んでくる、あきらめのすがすがしさを身にしみて覚える。自分にどれだけの事ができるかという見通しがすっかりつく。どんなことは出来ないということも解る》

 さらに「おのれの職分」の見極めがつくという。わたしは四十歳のころ、まだまだ若いつもりでいた。四十代半ばあたりから「どんなことは出来ないか」について、よく考えるようになった。しかし「あきらめのすがすがしさ」という心境はまだわからない。そのうちわかるのだろうか。

《自分の力などというものは四十歳くらいまでで行きどまりで、あとは、その時までに踏み込んでいた陥し穴の中で、それなりに朽ちていくだけのものである》

 明治生まれの四十歳と今の人の感覚はちがうかもしれない。福原麟太郎は墓のことまで考えている。人生五十年といわれた時代はそういうものだったのか。

《今日のおのれにとって、今日は一つしかない。この日を朗らかに愉快にあたたかに過そう》

《みたまえ、この人生という野原で、あの男は文士になっている。あの男の少年時代は日本の文豪を想像させる俊才であったが、結局雑文の方を沢山書く口すぎの為の文筆業の闘士にしかならなかった。それもよしよし、それが彼のひいた籤だったのだ》

「四十歳の歌」の「行きどまり」「陥し穴」「ひいた籤」という言葉についてはもうすこし掘り下げて考えてみたいが、頭がまわらない。昭和九年——八十八年前に書かれた随筆だが、今の中年のわたしが読んでも身にしみる。

 福原麟太郎も昔の偉人と自分を比べて、若いころからやり直したいといったことを書いている。あと朝も弱かったようだ。