2020/06/19

態度と反射

『鶴見俊輔著作集』(筑摩書房)の第五巻では「リンチの思想」をはじめ、運動における暴力、内ゲバの問題に言及している。

 鶴見俊輔は非暴力運動(市民的不服従)の提唱者のひとりでもあるヘンリー・デイヴィッド・ソローが「黒人を奴隷にしている制度を擁護する人たちに対して暴力をもって立上がる、その運動——ジョン・ブラウンの運動——に対する加担」をしていた件について述べている。

《この運動へ加担するがゆえに、ソローの非暴力主義というのは、ある種のなまなましさで訴える力をもつ》

 ソローのなまなましさは危うさでもある。非暴力主義者が暴力を肯定したら、誰がその力の暴走を止めるのか。求心力のある運動というのはこうした危うさを孕んでいる。

 鶴見さんは神学者のラインホルド・ニーバーの「平和主義者は、そのことによって圧政に加担する」という言葉を重く受け止めている。圧政や暴力に目を閉じず、平和と非暴力の道をどう探るか。ニーバーの思想は「正しい戦争」という形で保守/革新を問わず、アメリカの外交政策とつながっている。ニーバーは原爆を支持していた。これも危うさの典型例だ。

 自由や正義を守るための暴力を肯定するか否か。これは今日にまで至る問題だろう。初期の『思想の科学』のメンバーには日本にニーバーを紹介した武田清子がいた。

 つるの剛士さんがツイッターで呟いた「普通の声で。」というメッセージは非暴力運動の現場では語られ続けてきた意見である。現在では「トーンポリシング」の典型として批判する人たちもいる。トーンポリシングかどうかはさておき、「普通の声」もしくは「低声」派のわたしだが「平和主義者は、そのことによって圧政に加担する」というニーバーの論理は無視できない。温厚さや平穏さが「圧政に加担する」ことはある。平和運動にかかわる人間はそうした現実と理想のあいだでたえず揺れている。その揺れをなくし、敵味方に分けたレッテル貼り思考に陥ってしまったときがもっとも危ない。

「すわりこみまで 反戦の非暴力直接行動」というエッセイで鶴見さんは戦時中の自分を次のようにふりかえっている。

《戦争中、私は、戦争に反対する何の行動もすることができなかった。反対の意志を日記に書きつける。信用できると思う人にしゃべる。それ以上のことは何もできなかった。しようと思うのだが、指一本あがらなかった》

 また同じような状況になったら、動けなくなるのではないか。鶴見さんはいざというときに指一本動かなくなるかもしれない自分を危惧していた。そこから「態度と反射」という思想が生まれた。

「普通の声で。」喋ることが困難な状況であってもわたしは「普通の声で。」喋りたいというおもいがある。リンチの歯止めは「普通の声で。」喋ることのできる場を保持できるかに懸っている。論理が飛躍しすぎたか。

 時間の余裕ができたら、この続きを書きたい。