2020/11/14

備忘録

 金曜日午後、西部古書会館。上坂高生著『有馬賴義と丹羽文雄の周辺 「石の会」と「文学者」』(武蔵野書房、一九九五年)、中川竫梵著『増補 伊勢の文学と歴史の散歩』(古川書店、一九八三年)など。

『有馬賴義と丹羽文雄の周辺 「石の会」と文学者』を読んでいたら、「石の会会報」四号の色川武大「石の会阿呆列車」、十三号の後藤明生の「十一月例会記」などが、(おそらく)全文掲載されている。色川武大の「石の会阿呆列車」は石の会の金沢旅行の報告である。単行本で約二頁分くらい。

《二月八日午後一時半、かかることには神経質な小生はじめ、福井・佃・山田・桂・高井・黒須・高橋・早乙女氏等参加者一同、東京駅頭に粛然と揃いしが、肝心の有馬氏の姿が見えぬ》

 さらに色川武大は「街中で眠り、酒食に向かいて眼が開くことあらば金沢に失礼と案ぜしも、よいあんばいに眠りさめやらず。何がどうしたか我関せずなり。帰途道端の松の木に衝突してようやく目覚むるも、この時おそく一行は駅前解散にて、永平寺、能登、東京直行と三方に散り行き、“松風ばかり残るらん——”という次第」と書いている。著者の上坂さんは「色川さんは、市中見物で睡魔至ると書いているが、じつはこれは色川さんの持病のようなもので、のちのちそれに苦しめられていた」と補足する。会報は一九六九年二月二十八日付。

 年譜を見ると、前の年の一九六八年くらいから幻視幻覚に悩まされていたようだ。

 先日、河田拓也さんから色川武大の単行本未収録とおもわれる随筆のコピーをもらった。「石の会阿呆列車」の件はご存知だろうか。

 後藤明生の「十一月例会記」には「金沢ゆきの報告は確かマージャン名人の朝田(?)哲也氏こと色川武大氏だったと思うが、その中でわたしが、ゆきもしないのに、なんだったら報告だけ書いてもよいですよ、といったというデマを書かれたのをおぼえている」といった一文も。後藤明生、途中で阿佐田と朝田の誤記に気づくのだが、直さない。「色川武大=阿佐田哲也」を明かしている初期の文章かもしれない。

 同号で後藤明生は「課題随筆『わたしの癖』を書いている」。 

《「癖は運命のようなものだ」と題して、酒を飲むことに触れ、「そのことによって破滅もできるし、またそれを利用することもできる」と葉書ていどの文をしめくくっている。これは後藤文学を明かす一つの鍵になりそうだ、といえば、当たっているか、違っているか》

 上坂高生は「石の会」と「文学者」の両方に参加していた。「石の会」に誘われたときは横浜市立帷子小学校につとめていた。

『増補 伊勢の文学と歴史の散歩』を読んでいたら、尾崎一雄の「父祖の地」にもふれていた。霊祭講社(伊勢市岡本)の隣に参宮館という旅館があり、その離れに尾崎一雄は住んでいたことがあり、その旅館は「今、某代議士の邸になっている」。

 某代議士は一九三七年に「腹切問答」で軍部の政治干渉を批判した浜田国松だった。
 軍が政治に関わるのは危険だ——という浜田の発言に寺内寿一陸軍大臣は軍を侮辱したと憤る。それにたいし、浜田は「速記録に自分が軍を侮辱した言葉があれば割腹して謝する。なければ、君が割腹せよ」と反論した。
 尾崎一雄の「父祖の地」は一九三五年の作。「腹切問答」の二年前だ。
『暢気眼鏡』(新潮文庫)所収の「父祖の地」を読んでいたら、七十八歳で亡くなった祖母の死について、次のように綴っている。

《病みついて暫くすると「これは治らぬ病気だ、放っておけ」そう自分から云った。初めは冗談にして笑っていた家の者も、やがて慌て出した。医者を断われ、薬は要らぬ、そう云う祖母に、母がすがりついて泣いたことを覚えている。
「死ぬときは死ぬ」と、祖母は笑っているのだ。一と月程して死んだ。非常におだやかな死にぎわだった》

『増補 伊勢の文学と歴史の散歩』の中川竫梵は、県立伊勢高校の先生である。同書の写真とイラストは高校時代の同級生が担当している。この本、前の持ち主の付箋がびっしり貼ってあった。

 時間をかけ、歩いて調べた郷土文学の本は勉強になる。