2024/04/30

てくてくてくてく

 毎日睡眠時間が五、六時間ズレる。起きて二時間くらい散歩して本を読んで家事をして酒を飲んで酔っ払って寝て終わりみたいな日々を繰り返している。自分が為すべきことは何か。その自問すらマンネリ化し、有耶無耶な答えが浮かんでは消えてゆく。

 渡辺京二著『無名の人生』(文春新書、二〇一四年)再読。刊行からもうすぐ十年か。いろいろ忘れているところがある。

《明治初年、横浜で『ザ・ファー・イースト』という写真入りの隔週刊紙を発行していたジョン・レディ・ブラックは、別の角度から日本人を描写しています。いわく日本人には時間の観念がない。旅行するにも東海道をてくてくてくてく歩いて、急ぐ気配もない。歩いていればいつかは着くとでもいうのだろうか。途中には何軒もの茶屋があって一休みするが、そこで知り合った人間とすぐ打ち解ける。警戒心がないというか、この世に生きている人間はみな友だちだと考えているように見える……》

 たぶん初読のときは、この話を読み飛ばしていた。わたしが街道の研究をはじめたのは二〇一六年からで、以来、読書の感覚がすこしずつ変わった。以前より、小説や漫画を読んでいても、地名や地理に反応するようになった。

 明治の日本人の多くは鉄道と郵便制度の整備によって、時間の感覚を身につけた。西洋でも鉄道と時計が普及した時期は重なっている。

 五十代、人生の終わりが薄っすらと見えてきて、急いでもしょうがないなとよくおもうようになった。いっぽう自分はどこに向かっているのか。どこにたどり着きたいのか——それがわかっていないと道に迷う。

 スマホや携帯電話を持たぬまま五十代半ばまで来てしまった。日頃からコンパスは持ち歩いている。正確な道がわからなくても、方向さえ間違えなければいい。