今年は四月三十日にこたつ布団とこたつカバーを洗濯し、押入の天袋にしまい、扇風機を出した。
上京して三十五年になるが、これまで四月にこたつ布団を片付けた記憶がない。自己新かもしれない。二月以降、貼るカイロもほとんどつかわなかった。
三十年前と今と比べると、気候の変化もあるだろうが、自分の体質も変わったのかもしれない(体重が十キロ増えた)。
本と資料をどうするか迷っている。すでに生活空間を圧迫していて、これ以上増やすのはむずかしい。どうするもこうするも減らすしかない。その選り分けのための時間がない。押入に雑誌のコピーなどの紙類を詰め込んでいる。中身を確認せずに処分する方法もあるのだが、それは最終手段にしたい。
そんな断捨離(計画)の合間、三木卓著『When I'm 64 64歳になったら』(小学館、二〇〇一年)を読む。
冒頭「自炊のすすめ」の書き出し。
《作家、上林暁(一九〇二~一九八〇)の晩年の闘病を献身的に助けたのは、妹の睦子さんだった》
もともと上林は自炊していた。ご飯、みそ汁、焼き魚、おひたし……。それが定番、ほぼ同じメニューだった。上林暁っぽい。
三木卓も料理する。
《仕事場では本を読み、原稿を書き、電話でゲラゲラ笑い、腹が減ると冷蔵庫を開けて、今ある材料で何が作れるか、そのうちもっとも旨い料理は何だろうと考え、いざプランが成立するとそれに向かって一路進撃を開始する、という、それだけの生活である。いってみれば書生さんの暮らしがいまだに続いている、というわけだ》
《食事や洗濯や掃除に時間を使うのは、文筆業者としてもったいない、という人もあるかもしれない。が、実際にはよほど締切が切迫しているときでもないかぎり、そういうものではない》
三木卓は一九三五年五月生まれ。昨年十一月に亡くなった。享年八十八。このエッセイの初出は一九九七年十二月。六十二歳のときに「書生さんの暮らし」を楽しそうに綴っていた。前半、数篇のエッセイは中高年の自炊のすすめである。
三木卓は古本好きの作家だった。「境内の白秋」にこんな一節がある。
《少年のころから、古書店をあさるのが好きである。どこか初めての町を、気ままに旅するときなど、古書店を見つけるとどうしても入りたくなる》
「どんな老人になりたいか」では〈今まで当たり前だと思って見逃していたことが、実はちっとも当たり前じゃないということの発見〉を心掛けたい――と書いている。
わたしは今五十四歳。六十代はそう遠くない未来である。先のことがどうなるかわからないが、確実に気力体力は落ちるだろう。そうなる前に押入の中のものくらいは減らしておきたい。蔵書も半分くらいにしたい。