荻原魚雷+パノラマ地図研究会『東海道パノラマ遊歩』(ビジュアルだいわ文庫)が刊行——。
清水吉康の『東海道パノラマ地図』(金尾文淵堂、一九二九年)を文庫の形で復刻し、わたしは日本橋〜神戸までの解説、コラム、キャプション(半分くらい)を担当した。
清水吉康の鳥瞰図は山あり谷あり川あり、東海道の地形が精密に描かれている。
琵琶湖東岸から関ヶ原、大垣のあたりがお気に入り。伊吹山、不破の関——この地が古代から重要な交通の要所だったことがわかる。道の成り立ちは偶然ではない。
巻末付近には菱川師宣の『東海道分間絵図』、吉田初三郎の『近畿東海大図絵』も収録している。
企画・編集は造事務所。
本文デザインを担当したYさん(飲み友だち)に古地図コレクターのHさん(造事務所)を紹介してもらい、今回の企画に参加することになった。
すこし前に『更級日記』や『十六夜日記』を読んでいたときも、清水吉康の鳥瞰図を参照していた。鉄道の路線だけでなく、東海道や中山道、脇往還も描かれている。古戦場の跡地なども記されているので歴史地図としても重宝するでしょう。ぜひ手にとって清水吉康の地図の魅力を堪能してほしい。
2023/10/12
東海道パノラマ遊歩
2023/10/07
萱津宿
十月、涼しくなった。着々と衣替えが進む。晴れの日一万歩、雨の日五千歩の散歩は継続中。とにかく外に出る。気のりしなくても外に出るとそれなりに歩ける。
『江古田文学』の特集「小栗判官」(二〇二二年十二月発行)——たまたま美濃路の墨俣、青墓あたりのことが気になって調べていて、この特集を知った。「小栗判官」が浄瑠璃、歌舞伎の人気演目という知識はあったが、自分の興味と重なるかどうかは別だ。
今のわたしは美濃廻り東海道、伊勢廻り東海道の変遷を追っている。
尾藤卓男著『平安鎌倉古道 鎌倉〜京都』(中日出版社、一九九七年)は勉強になった。
萱津宿は平安時代から室町時代の間、「不破越え」の道と「鈴鹿越え」の道が落ち合う道で「萱津の傀儡(遊女)は京の殿上人にも知られるほど有名な宿場町だった」。
《津島線の県道を渡って北上し八王子社の前に出る。
このあたりは宿の口の字名を残し、南宿の長者屋敷(真奈屋敷)があった地で、頼朝公が宿泊したのは南宿であったかも知れぬと古老の話であった。
鈴鹿越えの伊勢路と不破越えの美濃路の合流地点であったと考えられている》
八王子社(八王子神社)は愛知県あま市下萱津池端あたり。宿ノ口界隈は旧鎌倉街道といわれる道が通る。名鉄津島線の新川橋駅か須ヶ口駅がもより駅か。名古屋駅から六、七キロ、歩いていける距離である。
萱津宿がにぎわっていたということは、鎌倉古道(旧東海道)のころは伊勢廻り美濃廻りいずれも、多くの人の行き来があったと考えていいのかもしれない。
『平安鎌倉古道』の一宮市のところでは「照手姫袖掛け松」の石碑の写真が載っている。石碑は牛野神明社(一宮市牛野通二丁目)内にある。
各地の旧鎌倉街道に「小栗街道」と呼ばれている道がある。熊野古道にも「小栗道」という道がある。いずれも小栗判官が通ったという逸話からその名がついた。
「小栗判官」は京〜常陸の東海道+熊野古道が舞台である。街道沿いに暮らす人々にとって特別な物語だったにちがいない。
傀儡と浄瑠璃も関係が深い。傀儡は旅芸人でもあった。
2023/10/01
説教集
最近、仕事をしていると記憶が虫食い状態になることに気づいた。忙しい時期は日々のことをほとんど覚えていない。働いて疲れをとってまた働いてのくりかえし。一週間二週間あっという間に過ぎてしまう。
九月二十七日水曜。JR中央線で御茶ノ水駅、坂を下って神保町。均一で『説教集 新潮日本古典集成』(新潮社、一九七七年)を買い、新刊書店を回り、神田伯剌西爾でアイスコーヒー。
『説教集』は「をぐり(小栗判官)」が目当だったが、「しんとく丸」も面白い。
すこし前に『江古田文学』第百十一号(二〇二二年十二月)の特集「小栗判官」を入手していた。『江古田文学』は特集に独自色がある。バックナンバーが気になる。
美濃路の青墓のあたりのことを調べていて、「小栗判官」の舞台が美濃廻りの東海道、さらに熊野道(小栗街道)も舞台と知り、気になった。
『説教集』の「をぐり」は美濃の国・墨俣からはじまる。
東海道の藤沢宿を調べていたとき、「小栗判官」や「説経節」の話がいろいろ出てきたのだが、そこから掘り下げようとはおもわなかった。橋本治も『もうすこし浄瑠璃を読もう』(新潮社、二〇一九年)で「小栗判官」を取り上げている。
『江古田文学』の特集を読んでいておもったのは、中世の人々の命の軽さである。戦、災害、病、飢饉――毎日が命がけといっても過言ではない。
旅もそうだ。まともな地図もなければ、安全な道はどこにもない。行ったことのない土地であれば、目的地そのものが漠然としている。
はるか昔の話とはいえ、現代においても世界を見渡せば、中世くらいの感覚で暮らしている人々はいくらでもいる。今の日本でも状況(境遇)によっては、古代や中世の人と変わらぬ感覚が表出することがあってもおかしくない。
善悪の価値、命の重さ軽さ、わたしはそうしたものに普遍性があるとおもって暮らしているが、そうではない。
小栗判官は京都でいろいろやらかして常陸(茨城県)に流され、相模の国の照手姫の噂を聞く。中世は常陸も東海道に属していた。
毒をもられ、冥界へ行き、餓鬼阿弥として生き返った小栗は、上野が原(神奈川県藤沢市)から東海道を西に向かう。
酒匂の宿、足柄箱根、伊豆の三島、浮島が原、富士川、清見が関、三保の松原、田子の入り海、駿河の府内、丸子の宿、宇津の谷、藤枝、島田、大井川、佐夜の中山、日坂峠、掛川、袋井、池田の宿、今切、吉田、赤坂、矢作、鳴海、熱田の宮……。
ここから杭瀬川、青墓と美濃廻りの東海道という道行になる。
東海道中、各地の宿場、名所、歌枕の地を通り抜ける。精密な地図、写真もなかった時代、説教節の道中語りは見せ場、聞かせ場だったのではないか。