2021/03/09

政治は妥協

  渡辺京二著『さらば、政治よ 旅の仲間へ』(晶文社)の「Ⅱ インタビュー」の章は何度読んでもいい。わたしは所収のインタビュー「二つに割かれる日本人」を『文藝春秋SPECIAL』(二〇一五年冬号)で読み、このブログ(「残りの一分」二〇一六年九月十八日)で紹介した。すでに『さらば、政治よ』は刊行されていたが、ブログ公開時には未入手だったため、「二つに割かれる日本人」が本書に収録されていることを記せなかった。

——今回も前回と同じ部分を引用する。

《また長い間、人間は天下国家に理想を求めてきましたが、これもうまくいかなかった。人間が理想社会を作ろうとすると、どうしても邪魔になる奴は殺せ、収容所に入れろ、ということになるからです。古くはキリスト教的な千年王国運動から、毛沢東の文化大革命に至るまで、地獄をもたらしただけでした》

 一見、理想を求めることはよいことのようにおもえるが、弊害もある。水清ければ魚棲まず——少数の清く正しく賢い人しか住めない理想社会は、そこに適応できない人にとって苦界となる。

《政治とはせいぜい人々の利害を調整して、一番害が少ないように妥協するものです。それ以上のものを求めるのは間違っているんですよ》

 わたしの政治観も渡辺さんの意見と近い、というか、ほぼ同じなのだが、もしかしたら「妥協」という言葉をよくない意味にとらえる人もいるかもしれない。

 ラ・ロシュフコーに「(ほとんどの場合)美徳は悪徳の偽装に過ぎない」という箴言があるが、わたしはそこまでいうつもりはない。

 何事にもどっちつかずであやふやな立場の人、いいかげんなものやくだらないものが好きな人が許される世の中がわたしの理想である。今は妥協している。

(追記)理想社会について、あれこれ考えているうちに戦後の日本は他力というか敗戦の結果とはいえ、短期間のうちに社会が改良された例ではないかという気がした。このテーマに関しては、結論は保留ということで。

2021/03/07

理屈と感情

 久々にWEB本の雑誌の「街道文学館」を更新。昨年十一月の京都と三重の旅。

 この一週間、廣岡大志選手と田口麗斗選手のトレードの件で脳と心を酷使した。チーム事情からすれば、投手の補強のため、野手を出すのはやむをえないと理屈では納得しつつ、感情ではヤクルトのユニフォーム姿の廣岡選手が見れなくなって残念におもう(とはいえ、ヤクルトのユニフォームを着た田口選手を見た途端、応援したくなっている)。

 五日午後、荻窪まで散歩。古本と晩メシの食材を買う。阿佐ケ谷と高円寺のガード下を歩いているとき小雨が降ってきた。

 六日午後、西部古書会館、街道本充実。『特別展 開設四百年 中山道武州往来』(埼玉県立博物館、二〇〇二年)など。埼玉県は中山道だけで九つの宿場町があった。埼玉の市の数が多いのは、中山道、日光街道、川越街道など、宿場町が多かったからという説がある。

  渡辺京二著『さらば、政治よ 旅の仲間よ』(晶文社、二〇一六年)を再読。

《そこで私はひとつ提案をしたい。東京に住んでいる職業的な文筆家は、みなてんでに気に入った地方都市に移住したらどうか。一歩進んで農山村に住んでみたらどうか》(「物書きは地方に住め」/同書)

  郷里の三重にいたころ、「東京」という言葉は単なる都会の記号だった。今でも「東京が好きか?」と訊かれてもピンとこない。しかし「高円寺が好きか?」と訊かれたら「もちろん」と即答する。渡辺さんの提案にたいし「東京」を自分の暮らす町の名前に変えた途端、わたしの答えはかなり強めの「ノー」となる。

 何度となくこのブログで地方移住のことを書いている。収入が減るたび、このまま今のところに暮らし、家賃を払い続けることができるのかという不安が頭をよぎる。しょっちゅう地方移住のメリットとデメリットを考える。地方ではなく、もうすこし家賃の安い郊外に住み、古書展のときだけ電車で通えばいいではないか。本はネットで買えばいいではないか。

 理屈ではそう考えられても、感情が出す答えは別ということはよくある。

2021/03/04

早稲田古本村通信の話

 もう三月。昨年の今ごろはマスクが買えなかったり、トイレットペーパーが売り切れの店が続出したりした。あれから一年。

 復刊した「早稲田古本村通信」(メールマガジン)毎号面白い。古書現世の向井透史さんの古本の話、昔、BIGBOXの古本市でセドリしたある署名本を千五百円で古書目録に載せたところ、とんでもない数の注文が……。

 失敗をくりかえし、悔しいおもいをしながら仕事を覚える。

 インターネットの古本屋が普及する前、古本の値段は店ごとにかなり幅があった。なぜこの本はこんなに高いのだろう。稀少価値か、それとも何か他に理由があるのか。それを知ることも古本屋通いの楽しみのひとつだった。

 わたしが「早稲田古本村通信」で「男のまんが道」を書きはじめたのは二〇〇五年秋、かれこれ十五、六年前だ。出来不出来はさておき、月一回、テーマに沿った原稿を書くことは勉強になったし、連載中に最初の単行本も出た。その後「高円寺だより」というエッセイも「早稲田古本村通信」に書いた。連載前に向井さんから「若い人向けの文章を書いてみませんか」といわれた。当時、読者として想定していた若者も四十歳くらいか。いまだに君づけで呼んでしまう。前田君とか。