土曜、午前中、西部古書会館。小雨。涼しい。夏が終わったみたい。朝寝昼起が昼寝夜起になる。
先週、三省堂書店の神保町本店が来年の三月に建物を建替える件について知らされる。
「困るんじゃないですか」
「神保町界隈の出版社で働いている人はみんな困るとおもいますよ」
月曜、東高円寺。住宅街を歩いていたら高円寺天祖神社があった。三十二年くらい住んでいる町でもまだ知らない神社があるとは……。
この数年、東高円寺は月一くらいのペースで散歩しているのだが、いつもはスーパーのオオゼキのある商店街を通る。東高円寺駅の近くの北海道料理の居酒屋でザンギの親子丼をテイクアウト。ワンコインでずっしり。
『犀星 室生犀星記念館』のパンフレットに「小景異情」の原稿用紙の写真が載っている。犀星の字、丸っこくて読みやすい。いろいろな文士の字を見てきたけど、犀星の字がいちばん好きかもしれない。
同パンフレットに「金沢の三文豪」という言葉が出てきた。その一人は室生犀星。あと二人の名前は記されていない。泉鏡花はすぐにわかったが、あと一人がおもいだせない。なぜか秋田雨雀が浮んだが、絶対にちがうよなと……。
ちなみに、雨雀の本名は秋田徳三。金沢の三文豪の残りの一人の名前と似ている(それですぐごっちゃになる)。
金沢は北陸新幹線が通ったけど、名古屋や大阪から特急で行くルートもいい。現実逃避で旅の計画ばかり立てている。北陸方面は二泊三日だと足りない。というか、移動だけで疲れる。中年の旅は一県一県ゆっくり回るほうがいいのか。
2021/09/07
秋の声
2021/09/03
小景異情
『週刊大衆』(九月六日号)の連載『ニューシニアパラダイス』(監修・漫画 弘兼憲史/企画・文責 木村和久)を読んでいたら「ふるさとは遠きにありて思ふもの」という小題が付いていた。
室生犀星の「小景異情」の一節だが、同コラムには「タイトルは室生犀星の有名な詩の冒頭です。還暦を過ぎると妙に故郷が恋しくなります」とある。
たしかに犀星の「小景異情」のこの部分はものすごく「有名」だが、「ふるさとは〜」は「小景異情(その二)」の出だしなんですね。
「小景異情(その一)」の冒頭は、
「白魚やさびしや
そのくろき瞳はなんといふ」
——である。昔、わたしも「小景異情」は「ふるさとは〜」ではじまる詩だとおもっていた。まさか六篇の連作詩だったとは……。
偶然というか何というか『週刊大衆』の同コラムを読む数日前、神保町の古本屋で『犀星〜室生犀星記念館』(二〇〇二年)を買い、「小景異情」のことを考えていたところ、かつての自分と同じ勘違いをしている文章に出くわしたわけだ。
「小景異情」が収められた『叙情小曲集』(感情詩社)は大正七(一九一八)年九月刊。パンフレットの年譜を見ると、一九一三年に『朱欒(ザンボア)』の五月号に「小景異情」掲載とある。『朱欒』は北原白秋が作った文芸誌である。朱欒は「ザボン」とも読む。
室生犀星は一八八九年八月一日生まれだから、二十三歳のときに「小景異情」を発表した。『叙情小曲集』覚書には「二十歳頃より二十四歳位までの作にして、就中『小景異情』最も古く、『合掌』最も新しきものなり」とある。犀星の言葉をそのまま信じるなら「小景異情」は「二十歳頃」の作ということか。鮎川信夫の『現代詩観賞』(飯塚書店、一九六一年)には「小景異情」は「作者が十九歳のときの作品」と記されている。犀星、早熟、否、老成しすぎ。
犀星は二十二歳ごろまで東京と金沢を行ったり来たりしている。年譜によると、上京した年は大正二(一九一三)年十一月。「ふるさとは遠きにありて〜」は上京前——金沢時代の詩なのだ。これも意外といえば意外である。
ちなみに「小景異情」の「その二」には「うらぶれて異土の乞食(かたゐ)となるとても 帰るところにあるまじや」という言葉もある。この部分もいろいろな解釈ができそうだが、今日のところはこのへんで……。
2021/09/02
きりがない世界
先日、おそらく四半世紀ぶりくらいに村松友視の『夢の始末書』(角川文庫)を読み返し、いろいろ忘れていたことをおもいだした。
《私は、好きな作家しか担当しなかった。そして、その作家たちは、それぞれにきわめて個性的な存在だった》
村松の好きな作家の一人に後藤明生もいた。後藤明生が亡くなったのは一九九九年八月。わたしは没後しばらくして古書価が上がりはじめてからちょこちょこ読むようになったが、生前は守備範囲外の作家だった。
『夢の始末書』の中では後藤明生は重要な登場人物の一人である。
《「挟み撃ち」を読んで、私は後藤明生に長文の手紙を書いた》
《手紙は、原稿用紙をかなり費やし長ったらしいもので、封筒に入れて宛名を書くときに、その厚さに私自身がおどろいた》
それが『海』の「夢かたり」の連載(一九七五年)につながる。同作はつかだま書房の『引き揚げ小説三部作』にも所収——。
村松友視は後藤明生の担当編集者だったが、後藤は作家志望の村松に小説を書くことをすすめ、文章の指導をした(当時、後藤は平凡社の『文体』の責任編集者でもあった)。
《「ぼくはね、歌うたいと同じだと思うんですよ」
「歌うたい……」
「つまり、風呂やトイレの中でいくらうまく歌っているつもりでも、客の前で歌ってみなければ、駄目だということですね」
「駄目、ねえ……」
「つまり、一回恥をおかきなさいってことですかねえ」》
このあたりのやりとりも読んでいたはずなのにおぼえていなかった。今回の再読で「風呂やトイレの中で……」のセリフが強く印象に残った。
《「載ったあとは、作品のひとり歩きですよ」
「はあ……」
「誰か編集者が喰いつけば成功」
「喰いつかなければ……」
「また、新たに挑戦する」
「はあ……」
「きりがない世界ですよ、これは」》
物書の世界は下手な鉄砲ではないが、どれだけ弾を撃ち続けられるか。何だったら小説——文学にこだわる必要もない。武田泰淳は開高健に小説が書けなくなったらルポを書きなさいと助言した。いろいろ書いているうちに、自分に合ったジャンルが見つかることもある。