2023/08/07

美濃路NOW

 季候、体調によってちょくちょく目標の歩数は変わるが、もうしばらく晴れの日一万歩、雨の日五千歩の日課を続けたい。健康のためというより、気分転換の効果が大きい。

 金曜の夜、荻窪散歩。古書ワルツで新川みのじ会『美濃路NOW』(ブックショップ「マイタウン」、一九九七年)など。荻窪からの帰り道、阿佐ケ谷を通ると七夕祭りでにぎわっていた。前に街道を研究するにあたり古典はなるべく避けたい……みたいなことを書いたのは、興味がないからではなく(興味はめちゃくちゃある)、先行研究が膨大すぎて目を通している時間がないという理由もある。五十代のおっさんが気づくようなことは、たいてい誰かがすでに指摘している。

 平安時代と江戸時代——さらに現在では“東海道”のルートがちがう。『更級日記』の名古屋以西の道のりは桑名や四日市などを通る東海道ではなく、墨俣や大垣など美濃路+中山道を歩いたり、川を渡ったりしている。

『美濃路NOW』は宮(熱田)、名古屋、清須、稲葉、萩原、起、墨俣、大垣、垂井と東海道と中山道をつなぐ美濃路の宿場町を徒歩&自転車で綿密に調査している。国土地理院の地図を元にした小冊子も付いている。ブックショップ「マイタウン」は「一人出版社」で「ネット古書店」である。

「墨俣宿」の項に『十六夜日記』の話が出てくる。

《『十六夜日記』を書いた阿仏尼は建治三年(一二七七)十月十九日、墨俣を通っている》

 『更級日記』は上総(現在の千葉、茨城)から京に向かうが、『十六夜日記』は京から鎌倉に向かう。このルートも江戸期の“東海道”ではなく、名古屋以西は大垣や墨俣を通っている。中世の東海道は後の中山道(近江路)+美濃路のルートだったのか。

 榎原雅治著『中世の東海道をゆく 京から鎌倉へ、旅路の風景』(中公新書、二〇〇八年)に「東海道は『東海道』か」という項がある。同書は『源平盛衰記』などを引き、(鎌倉末期に)「湖東から美濃へ抜ける道は『海道』と呼ばれていたことになるだろう」と記す。

《まさしく中世の東海道は美濃廻りのコースだったのである》

『更級日記』や『十六夜日記』の作者が“東海道”を歩いたという場合、美濃廻りの“東海道”を指す。鉄道の東海道本線は中世の東海道のルートに近い。墨俣は木曽三川の長良川と揖斐川の間にあり、(京からだと)一宮、清須、名古屋に向かう。

『中世の東海道をゆく』によると、中世の木曽三川(木曽川、揖斐川、長良川)は、今とちがい、揖斐川の分流の杭瀬川が本流だったようだ。同書は揖斐川(杭瀬川)の流れが変わったのは、一五三〇(享禄三)年の大洪水の影響という説(ただし根拠は不明)を紹介している。中世の長良川も今と流れがちがう。東海道は洪水、台風などの水害で時代によってルートが変わる。当然、川の付近の町に与えた影響は甚大だった。川の流路の変化は街道にも大きく関係している。

2023/08/04

田子の浦

 木曜神保町。『星新一展 資料編』(世田谷文学館、二〇一〇年)を七百円(ただし文学館のハンコ付)。先週の『永田耕衣展』に続き、二週連続でほしかった文学展パンフを入手することができ、大満足である。そのあとM出版のMさんに会い、『星新一展』のパンフを自慢すると「このときの世田谷文学館行きました」といわれる。

 今週は晴れの日一万歩をクリアしている。

 話は変わって前回の『日本古典文学紀行』の「火の山富士と田児の浦」(高橋良雄)の続き。高橋良雄は歌枕の研究で有名な人である。しかし古典の研究書、読みたい本がことごとく一万円くらいする。我が道は雑本にありと腹を括る。

 《上古代の田児の浦あたりの東海道は、後に難所の一つとされるようになった薩埵峠を越える山道ではなく、興津・由比・蒲原あたりは、駿河湾沿いの道であり、それは海岸にせり出していた山裾を通る「親不知子不知(おやしらずこしらず)」のような険しい海沿いの難所の道であった》

 田子の浦はJR東海道本線でいえば吉原駅のあたり。富士山の山頂から海に向かってほぼ南に位置する。薩埵峠は由比、興津の間の峠である。

「火の山富士と田児の浦」では「田児の浦ゆ打出て見れば」の歌について薩埵峠のある海岸沿いの難所は船で通過したのではないかと……。

 さらに「『更級日記』にも『田子の浦は、浪高くて、船に漕ぎめぐる』とあるのは、舟遊びなどではなく、難所の海沿いの道を船で通過したことを記すのであろう」と論じている。

『日本古典文学紀行』の「火の山富士と田児の浦」を読むまで『更級日記』の作者は上総から京までひたすら陸路を移動したとおもっていた。街道のことばかり考えていたせいで海のことをすっかり忘れていた。

 山(峠)を行くか海を行くか。田子の浦のすこし先には富士川もある。
 富士川は船で渡るしかない。とすれば、田子の浦から薩埵峠の先まで一気に駿河湾を船で移動していたとしてもおかしくない。

 海の移動か。今後の課題としておこう。

2023/08/01

旅の途中

 話が尻切れトンボになったり、その日買った(読んだ)古本によって話題が変わったり、このブログは散歩の途中のメモくらいの気分で書いている。
 いろいろ道草をしてそこから取捨選択をして……という地道な作業を経て一本の原稿になる……ときもあればならないときもある。

 昨晩、「『更級日記』の話はもう書かないのか」と旧知の編集者にいわれた。すこし前に『更級日記』の名古屋以西のルートを調べていた。六月、京都に行った帰り、大垣駅から岐阜羽島駅までのバスに乗った。岐阜羽島駅からはじめて新幹線に乗った。『更級日記』は途中、大垣市の墨俣を通っている。墨俣といえば木下藤吉郎の一夜城で知られる土地だが、昔から交通の要所だった。

『更級日記』の作者は三重を通る江戸の東海道ではなく、名古屋から西は美濃路+中山道に近いルートを経て京都に向かったとおもわれる。東海道は時代によってコースが変わっている。それを調べるだけでも時間がいくらあっても足りない。

 久保田淳編『日本古典文学紀行』(岩波書店、一九九八年)所収「火の富士と田児の浦」(高橋良雄)に『更級日記』の富士山の火山活動に関する記述の引用あり。『十六夜日記』にも「ふじの山を見れば煙もたゝず」という箇所がある。

 大町桂月に「近藤重蔵の富士山」という随筆がある。

《『田子の浦ゆ打出でて見れば眞白にぞ富士の高根に雪は降りける』。古来富士山を咏じたる詩歌多けれども、これより以上の名吟あるべしとも思われず》

 桂月が紹介しているのは万葉集の元歌。新古今の田子の浦と富士の歌は「田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」となっている。わたしは新古今の歌のほうがなじみがある。

 大町桂月もあちこちの街道を歩いている。