2025/04/07

散歩道

 晴れの日一万歩、雨の日五千歩の日課は今年に入って達成率七、八割といったところ。雨の日はほぼ五千歩以上歩いている。

 金曜日、高円寺ルック商店街から阿佐ケ谷方面に向かって桃園川緑道を散歩中、そぞろ書房の山川直人漫画原画展「本の街を散歩」(四月二十日まで)を思い出し、立ち寄る。
 八重洲ブックセンター阿佐ヶ谷店で石川浩司著『地味町ひとり散歩 「たま」のランニング大将放浪記』(双葉社)のサイン本を買う。鈴鹿市の長太ノ浦(なごのうら)も歩いている。石川浩司、文章の軽みがすごい。

 土曜昼すぎ、西部古書会館。大均一祭初日(二百円)。『蘆花の生涯 徳冨蘆花記念文学館図録』(徳冨蘆花記念文学館、一九九七年)、NHKテレビロータリー編『わたしの散歩道』(竹井出版、一九八〇年)、豊田武、児玉幸多編『体系日本史叢書 交通史』(山川出版社、一九七〇年)、『S・Fマガジン 眉村卓追悼特集』(二〇二〇年四月号)、あと漢詩(白居易、陶淵明)の本など。蘆花の図録はちょっと珍しい。徳冨蘆花記念文学館は群馬県の伊香保にある。伊香保はまだ行ったことがない。

『わたしの散歩道』は春・夏・秋・冬の四章構成。出演者は四十六名。冒頭は谷内六郎(砧緑地)。梶原一騎(西大泉)、園山俊二(上高井戸)、滝田ゆう(国立)の名も。田中澄江は中野の哲学堂周辺(公園内に妙正寺川が流れている)を散歩。野方あたりに暮らしていたとも。
 井出孫六は国分寺の「旧鎌倉街道・万葉植物園」を散策している。当時、四十代後半くらいだが、見た目が若々しい。歩き煙草の写真も載っている。

 滝田ゆうはどこを切り取っても滝田ゆう。

《散歩に出るのは、仕事が手につかない時ですね。散歩といっても、ほとんど何か虚な感じで(笑い)あてもなく歩くっていうような感じになっちゃうと思うんですけれども》

 昔のテレビ番組の多数のゲストが登場する本は面白い(写真も貴重)。竹井出版は一九九二年に致知出版社に改称。地産グループの故・竹井博友が作った出版社である。

 西部古書会館のあと早稲田通りを歩く。中野区大和町から東に向かって早稲田通りを歩いて環七を渡ると住所が野方になる。普通の家みたいな喫茶店がある。路地に小さなパン屋がある。大新商栄会という小さな商店街がある。銭湯の上越泉、理髪店、和菓子屋、酒屋、クリーニング店……。

 早稲田通り沿いに大新横丁というバス停(関東バス)がある。時刻表をメモする。野方駅〜新宿駅西口のバスも走っている。一時間に一本から三本。行きと帰りで停車順がちがう。新宿駅西口からのバスは大新横丁で停まるが、新宿方面に向かうときは早稲田通りの一つ手前の東京警察病院北門前のバス停まで行く必要がある。それなら環七の大場(だいば)通りの都営バスのバス停から新宿駅行きのバスに乗るほうが近い。

 西武線の野方駅や練馬駅から高円寺駅行きのバスに乗るようになって、大場通り(早稲田通り)の名を知った。

 夜、「イマキュレートイニング」という言葉を知る。四月五日のヤクルト中日戦、ヤクルトの石山泰稚投手が一イニング三者連続三球三振で試合を締めた。スワローズとしては国鉄時代の金田正一投手以来、七十年ぶりの記録とのこと。イマキュレートは「完璧」という意味だそうだ。

2025/04/04

歩き花見

 寝る時間と起きる時間が五、六時間ズレる日が一週間以上続く。寒暖差のせいか。

 月曜夕方、小雨の中、小学校や中学校の桜を見ながら、野方、練馬を散歩する。野方北原通りの肉のハナマサのあと、環七の豊玉南歩道橋からスカイツリーを見る。東武ストアに寄り、練馬駅のすぐ北の平成つつじ公園で桜を見る。

『ウィッチンケア』十五号届く。「先行不透明」という心境小説を書いた。随筆とどこがちがうのかはよくわかっていない。自然や風景と向き合いながら自分のことを思索する私小説っぽい随筆、もしくは随筆っぽい私小説というのが、わたしの考える心境小説である。今のところ、そういうふうに理解している。

 前号の「妙正寺川」も心境小説のつもりで書いた。

《五十四歳、今年の秋で五十五歳になる。一九五〇年代ならもうすぐ定年である。
 十九歳で上京し、その年の秋に高円寺に引っ越した。老いたとおもう。気分は余生だ》(妙正寺川)

「先行不透明」にも「五十五歳」「定年」「余生」という語句が入っている(書いているときは気づかなかった)。常々、自分の年齢(心境)と文章をうまくなじませたいとおもっているのだがむずかしい。十年くらい試行錯誤して、ようやくなじんだころには合わなくなる。

 昨年末、高円寺から妙正寺川に向かう途中の大和町に仕事部屋を引っ越した。本や本棚は台車で運んだ。いわゆる立ち退きなのだが、おかげで妙正寺川に近づくことができた。

「先行不透明」は引っ越しのあと、夜、仕事帰りによく歩く道について書いた。五十歳を過ぎたころから、都心の夜景が好きになった。暗い道を歩いていて、光るタワーが見える場所を通りかかると嬉しくなる。なぜ嬉しくなるのかもよくわかっていない。

 高円寺の桃園川緑道の桜もけっこう咲いていた。

2025/04/01

寅彦の勉強法

 昨日の夜、ブログを更新したつもりが、されてなかった(たまにある)。

 金曜夕方(寝起き)、西部古書会館。『漱石と高浜虚子 「吾輩は猫である」が生まれるまで』(新宿区立漱石山房記念館、二〇一九年)、『夏目漱石 漱石山房の日々』(高知県立文学館、二〇〇七年)、『ふくやま文学館 開館20周年記念 夏目漱石 漱石山房の日々』(ふくやま文学館、二〇一九年)など、漱石関連の文学展パンフを三冊。「漱石+子規」の文学展パンフは何種類もあるが、「漱石+虚子」は珍しい。文学館の企画で「漱石+他の作家」の組み合わせはもっとあっていい気がする。


『夏目漱石 漱石山房の日々』はタイトルと目次の並びが途中までは同じで高知県立文学館版は「第3部 漱石と寅彦」、ふくやま文学館版は「漱石と広島」(寄稿「広島の旧友井原市次郎」瀬崎圭二)となっている。同タイトルの図録は各地の文学館から出ている。わたしが古本屋でよく見かける『漱石山房の日々』はB5変型(縦にちょっと細長い)の図録(鎌倉文学館、二〇〇五年、その他)である。

 寺田寅彦は東京生まれだが、父方が土佐藩の士族の家系で四歳から高知市小津町の家で暮らしていた。そのあと熊本の五高に入学し、漱石と出会う。
地元が高知で熊本の五高といえば上林暁もそう。



『月刊FRONT』特集「寺田寅彦 愉しきサイエンスの人」(一九九六年十二月号、財団法人リバーフロント整備センター)を購入後、ひょっとしたら一九九〇年代に寅彦の文学展があったのではないかと「日本の古本屋」を検索した。すると『開館記念特別展 第一回 寺田寅彦展 内なる世界の具現』(高知県立民俗資料館、一九九一年)があった。注文した。「第一回」ということは他にも寅彦展があるのだろうか。

 寝る前に電子書籍で寺田寅彦の随筆「わが中学時代の勉強法」(一九〇八年)を読む。

《故意になまけるというと、なんだかおかしく聞こえるが自分はいやになった時、無理につとめて勉強をつづけようとせず、好きなようにして遊ぶ。散歩にも出かければ、好きなものを見にゆく。はなはだ勝手気ままのやり方ではあるが、こうして好きなことをして一日遊ぶと今まで錯雑していた頭脳が新鮮になって、何を読んでもはっきりと心持ちよくのみ込める》



 たぶん寅彦流の勉強法は理にかなっている。勉強だけではなく、仕事もそうだろう。根を詰めてずっと机に向かい続けるより、遊んだり散歩したりしながらのほうが(わたしの場合)捗る。

 そのあと「科学を志す人へ」(一九三四年)を読んだ。

《誰であったか西洋の大家の言ったように、「問題をつかまえ、そうしたその鍵をつかむのは年の若いときの仕事である。年をとってからはただその問題を守り立て、仕上げをかけるばかりだ」というのは、どうも多くの場合に本当らしい》

 だから学生時代は「一つの問題」に執着せず、「問題の仕入れ」をたくさんしたほうがいい——といった助言をしている。寅彦流の怠けたり遊んだりする勉強法は「問題の仕入れ」につながっていたのではないか。

 寺田寅彦は多才な人だった。詩歌、絵、音楽、さらに学問に関しても専門の物理以外に地理学を志していた時期もある。「科学を志す人へ」は寅彦五十五、六歳のときの文章である。翌年十二月三十一日没。享年五十七。