2018/09/16

井伏鱒二と街道

 JR東日本の「おトクなきっぷ」を見ていたら「秋の乗り放題パス」(十月六日〜十月二十一日)というのがあることを知る。連続する三日間、普通列車の普通席乗り降り自由のチケットらしい(大人 七千七百十円)。青春18きっぷと変わらないくらい「おトク」だ。昨日から発売開始。

 河盛好蔵著『井伏鱒二随聞』(新潮社)が電子化されていた。この本の中に「荻窪五十年」というエッセイがある。
 井伏鱒二が豊多摩郡井荻村(現、杉並区清水)に家を建てたのは一九二七年九月——「荻窪駅は、電車が今ほど頻繁に来なかつた。乗降客も一人か二人である」といったかんじだった。
 河盛好蔵が荻窪に移り住んだのは一九三四年五月。荻窪はすでににぎやかな町になりつつあった。

 井伏鱒二の年譜には、一九一八年、早稲田大学予科にいたころ「木曾福島を旅行し『徹頭徹尾、旅行が好き』になる」と記されている。
 この記述は「鶏肋集」(※「鶏肋」の「鶏」は旧字)の一節からとったものだろう。

《私は木曾に旅行して以来、旅行好きになった。徹頭徹尾、旅行が好きになった。その翌年の夏休みには、山陰道から隠岐の島に旅行した。その翌年の夏休みには近江、伊賀、志摩に旅行した。木曾に旅行した惰勢によるようなものであった》

 わたしもこの夏、木曽福島を歩いたが、井伏鱒二の年譜のことを忘れていた、というか、おぼえてなかった。短い滞在だったけど、木曽福島はいい町だった。
 それから一九二三年、「九月、関東大震災にあい、中央線、塩尻経由で帰郷する」という記述もある。

《地震の後四日目か五日目かに、汽車も中央線の立川から先が通ずるようになった。東海道はまだ不通であった》(「半生記」/『鶏肋集/半生記』講談社文芸文庫)

 当時、井伏鱒二は荻窪ではなく、早稲田界隈の下宿屋を転々としていた。そこから立川まで歩いたのか。途中まで電車があったのか。
 震災後の帰郷で井伏鱒二は中央線に乗った。後に荻窪に家を建てたのは中央線沿線に住めば、東海道線が不通になっても帰郷できる……というおもいがあったのかもしれない。
 戦時中は山梨に疎開している。疎開先は甲運村(現在は甲府市)。甲運村は中央線の石和温泉駅と酒折駅のあいだくらい。
 井伏鱒二と河盛好蔵の対談でも甲州の話がけっこう出てくる。

《河盛 日本国中ほとんど歩かれましたか。
 井伏 僕はおんなじところへ行くから、——いつもおなじとこですよ。
 河盛 甲府ですね。山梨県があんなにお詳しいのは、どういうわけですか。
 井伏 山梨県ばかり行ったからですよ。なんかあそこは飽きないですね。(中略)

 河盛 一つの土地を深く、詳しく知っているほうが面白いでしょうね。あちこちとび歩くより……。
 井伏 人がね。風景がよくても、どうも。
 河盛 甲州人というのはそんなにいいですか。
 井伏 僕のつきあう人はみんないい人のような気がします》

 この対談は一九六五年九月。井伏鱒二の対談は初読ではなく、三読目くらいでおもしろさに気づくことが多い。わたしは関心がないと固有名詞を流して読んでしまう癖がある。別の対談では井伏鱒二が甲州について次のような話をしている。

《井伏 それで随筆を五つばかり書きましたよ。久しぶりに。これからまた怠ける……。
 河盛 呼び水ですね。それは甲州の歴史ですか。
 井伏 そうです。甲州の昔の道、ヤマトタケルのころからの道を書こうと思う。古い道、最初は矢の根を運ぶ道ですね。
 河盛 どこへ運ぶんですか。
 井伏 ほうぼうへ。信州の和田峠というところから黒曜石が、いまでもあるそうですから、そこから矢の根を運んでいく道があるわけなんです。それから塩を運ぶ道。
 河盛 塩をね》

 井伏鱒二は五十代半ばくらいから「街道」や「古道」のことを調べはじめている。
 来月、井伏鱒二著『七つの街道』(中公文庫)が復刊される。わたしの「街道病」はまだまだおさまりそうにない。