2018/09/27

馬橋村と高円寺村

 青梅街道は「甲州裏街道」とも呼ばれていた。新宿から青梅、そして大菩薩峠を通って甲府に通じていた。江戸に石灰を運ぶための道だった。
 高円寺の隣の中野は青梅街道の宿場町である。青梅街道の高円寺付近に福寿院という寺がある。場所は杉並第八小学校のすぐ隣のようだ。中西慶爾著『青梅街道』(木耳社)を読み、この寺に浮世絵師、池田英泉(渓斎英泉)の墓があることを知った。英泉は広重との合作『木曾街道六十九次』の作者である。

 街道本を読んでいると、旧町(村)名がわからなくて混乱するときがある。高円寺は、かつて高円寺村と馬橋村だった。大雑把に分けると、高円寺村が東(中野寄り)、馬橋村が西(阿佐ヶ谷寄り)である。村から町になったのは杉並区が成立した一九三二年、馬橋の町名が廃止になったのは一九六五年。今でも馬橋稲荷神社、馬橋公園、馬橋小学校、馬橋盆踊りなど「馬橋」の名が残っている。

 馬橋村、高円寺村界隈には多くの作家が住んでいた。吉川英治も関東大震災後の一九二四年に馬橋に移り住んだ。三十二歳。まだ複数の筆名で小説を書いていたころだ。
 吉川英治記念館は青梅市にある。戦中、青梅に疎開し、そのまま九年半すごした。

 わたしは十九歳の秋、二十歳になるすこし前に高円寺に引っ越した。その後、十年ちょっとのあいだずっと旧馬橋村界隈を転々とした。三十二歳のときに旧高円寺村界隈に移った。旧高円寺村のほうが長くなった。ただし酒を飲みに行くのは旧馬橋村方面である。

 井伏鱒二の『荻窪風土記』の副題は「豊多摩郡井荻村」。年譜には一九二七年九月に「豊多摩郡井荻村字下井草一八一〇(現、杉並区清水)に家を建てる」とある。ところが、井荻村が井荻町になったのは一九二六年七月——。
 東京府豊多摩郡は広くて、今の杉並区だけでなく中野区新宿区の一部も含まれていた。高円寺と西早稲田や歌舞伎町は同じ郡だった。不思議なかんじがする。