2024/09/10

まつりのあと

 土曜夕方、馬橋稲荷神社の例大祭。馬橋稲荷は高円寺と阿佐ケ谷の間くらいにあり、桃園川緑道を通って阿佐ケ谷に向かう途中ときどき寄る。

 高円寺の西側は旧馬橋村で、馬橋稲荷神社、馬橋小学校、馬橋公園など名前が残っている。馬橋公園は気象研究所の跡地にできた公園である。今年の夏、早朝散歩をしていたころ、馬橋公園をうろうろしていた(ラジオ体操の会場でけっこう人がいる)。
 屋台でチヨハチのはみだし焼きそばと生ビール。例大祭はカレー、パエリア、ケバブなどの屋台もある(昨年はパエリアを食べた)。
 神社の参道(射的などの出店あり)を抜け、馬橋通りから斜めの道(すこし先に弁天湯という銭湯あり)に曲がったところでライトアップ(紫色?)されたドコモタワー(NTTドコモ代々木ビル)が見えた。夜、高円寺を散歩していて、光る都庁やドコモタワーがちらっと見えると嬉しくなる。でも近くで見たいとはおもわない。どういう心理なのか、自分でもよくわからない。

 帰り道、駅前の東急ストアで柿の葉寿司(五種)を買う。たまに押寿司がむしょうに食いたくなる。

 土日、西部古書会館は均一まつりだった。今回は日曜(全品百円)だけ。『is』(一九九七年三月)特集「テーマパーク東海道」(ポーラ研究所)があった。よくぞ残っていた。表紙は薩埵峠の写真(土田ヒロミ)。特集の「東海道風景 広重の絵と写真」(三十五頁!)でも土田ヒロミの東海道の写真がたくさん載っている。ほかに石森章太郎『アガルタ』(サンコミックス、一九七六年)、『未発掘の玉手箱 手塚治虫』(二階堂黎人・責任編集、立風書房、一九九八年)など十九冊。

『江戸時代図誌』(筑摩書房、全二十七巻、一九七六年、七七年)がバラ売りしていたのだが、一度帰る。東海道(三巻)、中山道(二巻)、奥州道(二巻)、日光道、北陸道(二巻)、別巻(二冊)は家にある。残りをどうするか。置き場所がない。悩んだ末、山陰道、山陽道、南海道(二巻)、西海道を買うことにした。

 石森『アガルタ』。刊行時期からするとマイルス・ディヴィスの同じ題のライブ・アルバム(一九七五年リリース)からとったのだろう。
 石森章太郎はジャズミュージシャンの伝記漫画『ブリッジ[橋] ディスコグラフィー付(レコパル・ライブコミック集2)』(ビックコミックス、一九八〇年)も描いている。古書価高い(わたしは持っていない)。

『アガルタ』は冒頭付近のコマに写真(西武池袋線桜台駅・南口)。アシスタント志望の若者(黒木シュン)がラタン(喫茶店)で「石森先生」と面談する場面があり、店の外観の写真が掲載されている。ラタンは石森(石ノ森)章太郎の“第二の仕事場”としても有名である(今はない)。
 石森は一九六六年から桜台(練馬区)に住んでいた(自宅兼仕事場)。桜台駅には『サイボーグ009』の案内板あり。
 練馬駅あたりに散歩すると帰りのバスが桜台駅の駅前を通る。江古田に散歩した帰りは桜台駅のバス停から高円寺駅行のバスに乗る。

『未発掘の玉手箱 手塚治虫』は、やなせたかしのインタビューが面白かった。
 一九七四年に「漫画家絵本の会」を作り、展覧会を企画した。仲間が手塚治虫に声をかけたが「僕は、入んないんじゃないの、って言ってたんです。当時、手塚さんはアニメもやっててものすごく忙しかったからね」。
 第一回展は、やなせたかし、前川かずお、おおば比呂司、佐川美代太郎、長新太、馬場のぼる、牧野圭一(後に退会)の八名。翌年の第二回展から手塚治虫が参加し、その後、永島慎二、東君平、柳原良平も同会に入会した。
 会場は日本橋の丸善。当初は丸善の上層部から反対の声もあったそうだ。五十年前の話である。

《展覧会が正月だからね、暮れの忙しい時に描かなきゃいけない。手塚さんはいつもギリギリまで絵ができないんですよ。(中略)他の本の締め切りは遅れたり、逃げたりしてたのに、絵本の会は亡くなるまで1回も欠席しなかった》

《彼にとって絵本は商売じゃなく、ひとつのレクリエーション、ってとこがあったんでしょう。長新太とか馬場のぼるとか僕とか、とっても気を許してたというか、競争相手じゃないですからね。だからとても和やかで、絵本の会に来る時はうれしそうでしたね》

 手塚治虫も馬場のぼるも練馬区に住んでいた。手塚は練馬区富士見台、馬場は練馬区小竹町。練馬区は漫画家が多い。

 馬場のぼる、紙芝居もいい。最近、昔の紙芝居が気になっている(収集するつもりはないが)。