2021/06/10

一生の方向

 水曜日、夕方、神保町。『大正の詩人画家 富永太郎』(渋谷区松濤美術館、一九八八年)を購入し、神田伯剌西爾でアイスコーヒー。同図録の大岡昇平の「富永太郎における創造」というエッセイを読む。

《私は太郎が死んだ年の十二月、成城学園中等部へ入って、太郎より八歳下で私と同じ年の、弟の次郎と同級になったのです。太郎の画が壁にかけてある家を訪れ、小林秀雄たちとやっていた同人雑誌『山繭』に載った「秋の悲歌」「鳥獣剥製所」など、散文詩を読んだのでした。

 十七歳の少年にはよくわからぬながら、その硬質な文体に惹かれたのが、私の一生の方向を決定したといえます》

 大岡昇平著『昭和末』(岩波書店)に「富永太郎の詩と絵画」という松濤美術館の講演が収録されている(初出『群像』八九年一月号)。

《この松濤美術館の位置は私が十二歳から二十二歳まで住んでいた家から三十メートルぐらいしか離れていないので、昭和二年に家蔵版『富永太郎詩集』が最初に出たときには、三十七篇ですぐ読めますから、十八歳の私は一日に一度全部読んでいたわけです》

 富永太郎展は一九八八年十月十八日から十一月二十七日まで開催された。大岡昇平が亡くなったのは同年十二月二十五日——。

 一九八八年といえば、わたしは一浪中だった。高校時代から京都の私大の文学部を志望していたのだが、一浪して東京の私大を受験しようと気が変わった。何度か書いていることだが、予備校の講師の人に「物書きになりたい」と話したら「だったら東京に行ったほうがいい」と……。

 若いころはちょっとしたことで人生が変わってしまう。一冊の本、一本の映画、一枚のレコード、誰かの何の気なしの一言によって「一生の方向」が決まってしまうこともある。

 十九、二十のころに考えていた方向からはどんどんズレてしまっているが、その話はまとまりそうにないし、眠くなってきたので終わり。