2024/09/14

蜜月時代

 九月、暑い日が続く。散歩していて汗だくになる。それでもすこしずつ衣替えの準備をはじめている。

 水曜、神保町。小諸そば(鳥からせいろ)、神田伯剌西爾でアイスコーヒー。あいかわらずのルーティン。生活リズムが崩れやすい分、散歩、読書などの反復作業を課し、自分の感覚を調節する。それでもやや不調である。

 一誠堂書店で『筒井康隆展』(世田谷文学館、二〇一八年)、小松左京著『SFへの遺言』(光文社、一九九七年)など。『SFへの遺言』の第2章「誕生」の「5 日本SF始動」では、小松左京がはじめて原稿料をもらった話から、石川喬司との掛け合いが面白かった。

《森下(一仁) 新聞社の方は、石川さんが外で原稿書くのは何の問題もなかったんですか。
 石川 まあなかったですね。
 小松 あの頃、司馬遼太郎さんだって産経の記者だもんね。僕が産経で書評欄を書いている時に、斡旋してくれたのは三浦浩なんだけど、その上司が司馬さんなんだよ。「あの頃、君たちが飲んでいたコーヒーの伝票は俺が全部切ってやった」と威張られてさ(笑)。
 石川 「それで、髪がこんなに白くなった」と言って(笑)》

 ちなみに石川喬司は毎日新聞の記者や『サンデー毎日』の編集者をしていた。石川は一九三〇年九月生まれ。小松左京は一九三一年一月生まれだから同学年である。
 司馬遼太郎は一九二三年八月生まれ。小松左京のデビューは一九六二年秋、三十一歳。小松が産経新聞に書評(ミステリー評)を書いていたのはデビュー前の一九五〇年代後半あたりか。

『筒井康隆展』の年譜を見ると、小松左京の名前が出てくるのは一九五七年十二月——。

《「SFマガジン」の第2回ハヤカワ・SFコンテストで『無機世界へ』(後の『幻想の未来へ』の原型)が選外佳作となる。なお、三席に小松左京、半村良、選外佳作に豊田有恒がいた》

 筒井康隆は一九三四年九月生まれ。一九六〇年二月十二日午後十時三十二分「阪急電車梅田−千里山間の車内で作家になろうと決意」した。二十五歳。

《1960年『お助け』が雑誌「宝石」に掲載され、創作活動を続ける中、のちに「SF御三家」と称される星新一と小松左京、また眉村卓、平井和正、豊田有恒など、その後のSF全盛期をともに担う作家たちとの出会いがあり、交友が始まる》(「SF蜜月時代」/『筒井康隆展』)

 第三の新人、トキワ荘の漫画家もそうだが、デビュー前にモラトリアムというか自己模索期を経験している。もともと際立った能力があったのかもしれないが、同時代の異質の才と出会うことで自分の強み弱み、向き不向きを知る。「ライバルと出会い、刺激を受ける」「化学反応が起こる」みたいなこともそうだが、自分の力量はどのくらいなのか、一人で地道にコツコツやっていてもなかなか見えてこない。ということに、もっと早く気づいていたらとおもう。

(……この話はまた時間ができたら続きを書く)

2024/09/10

まつりのあと

 土曜夕方、馬橋稲荷神社の例大祭。馬橋稲荷は高円寺と阿佐ケ谷の間くらいにあり、桃園川緑道を通って阿佐ケ谷に向かう途中ときどき寄る。

 高円寺の西側は旧馬橋村で、馬橋稲荷神社、馬橋小学校、馬橋公園など名前が残っている。馬橋公園は気象研究所の跡地にできた公園である。今年の夏、早朝散歩をしていたころ、馬橋公園をうろうろしていた(ラジオ体操の会場でけっこう人がいる)。
 屋台でチヨハチのはみだし焼きそばと生ビール。例大祭はカレー、パエリア、ケバブなどの屋台もある(昨年はパエリアを食べた)。
 神社の参道(射的などの出店あり)を抜け、馬橋通りから斜めの道(すこし先に弁天湯という銭湯あり)に曲がったところでライトアップ(紫色?)されたドコモタワー(NTTドコモ代々木ビル)が見えた。夜、高円寺を散歩していて、光る都庁やドコモタワーがちらっと見えると嬉しくなる。でも近くで見たいとはおもわない。どういう心理なのか、自分でもよくわからない。

 帰り道、駅前の東急ストアで柿の葉寿司(五種)を買う。たまに押寿司がむしょうに食いたくなる。

 土日、西部古書会館は均一まつりだった。今回は日曜(全品百円)だけ。『is』(一九九七年三月)特集「テーマパーク東海道」(ポーラ研究所)があった。よくぞ残っていた。表紙は薩埵峠の写真(土田ヒロミ)。特集の「東海道風景 広重の絵と写真」(三十五頁!)でも土田ヒロミの東海道の写真がたくさん載っている。ほかに石森章太郎『アガルタ』(サンコミックス、一九七六年)、『未発掘の玉手箱 手塚治虫』(二階堂黎人・責任編集、立風書房、一九九八年)など十九冊。

『江戸時代図誌』(筑摩書房、全二十七巻、一九七六年、七七年)がバラ売りしていたのだが、一度帰る。東海道(三巻)、中山道(二巻)、奥州道(二巻)、日光道、北陸道(二巻)、別巻(二冊)は家にある。残りをどうするか。置き場所がない。悩んだ末、山陰道、山陽道、南海道(二巻)、西海道を買うことにした。

 石森『アガルタ』。刊行時期からするとマイルス・ディヴィスの同じ題のライブ・アルバム(一九七五年リリース)からとったのだろう。
 石森章太郎はジャズミュージシャンの伝記漫画『ブリッジ[橋] ディスコグラフィー付(レコパル・ライブコミック集2)』(ビックコミックス、一九八〇年)も描いている。古書価高い(わたしは持っていない)。

『アガルタ』は冒頭付近のコマに写真(西武池袋線桜台駅・南口)。アシスタント志望の若者(黒木シュン)がラタン(喫茶店)で「石森先生」と面談する場面があり、店の外観の写真が掲載されている。ラタンは石森(石ノ森)章太郎の“第二の仕事場”としても有名である(今はない)。
 石森は一九六六年から桜台(練馬区)に住んでいた(自宅兼仕事場)。桜台駅には『サイボーグ009』の案内板あり。
 練馬駅あたりに散歩すると帰りのバスが桜台駅の駅前を通る。江古田に散歩した帰りは桜台駅のバス停から高円寺駅行のバスに乗る。

『未発掘の玉手箱 手塚治虫』は、やなせたかしのインタビューが面白かった。
 一九七四年に「漫画家絵本の会」を作り、展覧会を企画した。仲間が手塚治虫に声をかけたが「僕は、入んないんじゃないの、って言ってたんです。当時、手塚さんはアニメもやっててものすごく忙しかったからね」。
 第一回展は、やなせたかし、前川かずお、おおば比呂司、佐川美代太郎、長新太、馬場のぼる、牧野圭一(後に退会)の八名。翌年の第二回展から手塚治虫が参加し、その後、永島慎二、東君平、柳原良平も同会に入会した。
 会場は日本橋の丸善。当初は丸善の上層部から反対の声もあったそうだ。五十年前の話である。

《展覧会が正月だからね、暮れの忙しい時に描かなきゃいけない。手塚さんはいつもギリギリまで絵ができないんですよ。(中略)他の本の締め切りは遅れたり、逃げたりしてたのに、絵本の会は亡くなるまで1回も欠席しなかった》

《彼にとって絵本は商売じゃなく、ひとつのレクリエーション、ってとこがあったんでしょう。長新太とか馬場のぼるとか僕とか、とっても気を許してたというか、競争相手じゃないですからね。だからとても和やかで、絵本の会に来る時はうれしそうでしたね》

 手塚治虫も馬場のぼるも練馬区に住んでいた。手塚は練馬区富士見台、馬場は練馬区小竹町。練馬区は漫画家が多い。

 馬場のぼる、紙芝居もいい。最近、昔の紙芝居が気になっている(収集するつもりはないが)。

2024/09/06

歩くこと寝ること

 ビル・ブライソン著『ドーナッツをくれる郵便局と消えゆくダイナー』(高橋佳奈子訳、朝日文庫、二〇〇二年一月)はくりかえし読んでいる。紀行文、アウトドア、語学、科学と守備範囲の広い作家だ。同書に「なぜ誰も歩かない?」というコラムがある。ビル・ブライソンはアメリカのアイオワ州の生まれだが、十八年くらいイギリスの新聞社などで働いていた。

《アメリカに戻ろうと決めた際、妻と私が望んだことの一つに、手ごろな大きさの町で、商店街へ歩いて行ける距離のところに住みたいということがあった》

 希望通り、たいていの用事は歩いてすませることができる町に住むことになった。しばらくすると町を歩いている人を見かけないことに気づく。町の人からすると、彼の徒歩生活は「奇妙で風変わりな習慣」だった。

《みな、何をするにも車を使うのに慣れてしまっているため、縮こまっている足を伸ばし、体を支えるその二本の足に何ができるか試してみようとはけっして思わない》

 先月末、ビル・ブライソン著『人体大全 なぜ生まれ、死ぬその日まで無意識に動き続けられるのか』(桐谷知未訳、新潮文庫、単行本は二〇二一年)が刊行された。同書、第9章 「解剖室で骨と向き合う」、第10章「二足歩行と運動」でも、歩くことに紙数を割いている。

《足には、三つの異なる役割がある。緩衝装置、基盤、そして圧力を加える器官。一歩踏み出すごとに——一生のあいだに、おそらくおよそ二億歩ほど踏み出すことになるだろう——あなたはこの三つの機能を順番に実行する》

《アーチと弾力性の組み合わせが足に反動機構を与え、そのおかげでヒトの歩行は、他の類人猿のやや重々しい動きに比べて、リズミカルで軽快な、効率のよい動きになっている》 

 引用は第9章「解剖室で骨と向き合う」から。

 いっぽうヒトは直立姿勢で様々な行動するようになって「脊椎を支えクッションの役割をする軟骨円板に余分な圧力がかかり、結果としてときどき位置がずれたり、椎間板ヘルニアを起こしたりする」。二足歩行は常に腰や膝、股関節などに大きな負荷がかかる。いろいろ思い当たる。

 第10章「二足歩行と運動」によると、散歩や適度な運動は、骨を強くする、免疫系の機能を高める、病気の予防になる、気分が明るくなるといった効果があるようだ。

《では、どのくらい運動するべきなのか? はっきり答えるのはむずかしい。ほとんど誰もが信じている一日一万歩歩くべきだという考えも悪くないが、特別な科学的根拠があるわけではない》

《一万歩説は、一九六〇年代に日本で行われたたったひとつの研究から生まれたとよく言われる——が、もしかするとそれもつくり話かもしれない》

 このブログでわたしは「晴れの日一万歩、雨の日五千歩」と何度となく書いているが、たしかに根拠はない。その日の体調によって「もっと歩きたい」とおもうときもあれば、目標未満でも「もういいや」とおもうことがある。

 近年の健康関係の本を読んでいると、一日八千歩説もよく目にする。体格をふくめて歩くことの負荷にも個人差がある。自分に合った運動(量)はいろいろ試して体得するほかない。

 第16章「人生の三分の一を占める睡眠のこと」も興味深く読んだ。

《体のどこだろうと、睡眠の恩恵を受けない部分、不眠の悪影響を受けない部分はひとつもない》

 寝不足はあらゆる病気につながる。精神状態も不安定になる。最近の研究では認知症の原因のひとつにも数えられているそうだ。体の概日リズムの乱れは体重増加の一因になっているという説もある。寝なきゃいけないとおもいすぎて眠れなくなることもよくある。そういうときは「横になって目を閉じているだけでもいい」と自分に言い聞かせている。

(付記)『人体大全』は参考文献の頁をふくめて七百十五頁もある。ものすごく分厚い文庫というわけでもない。紙がいいのか。

2024/09/02

坂の途中

 雨が降ったりやんだり。野菜を刻み、小分けにして冷凍する。ニンジンやダイコンなどの根菜を手で持つのがむずかしい大きさになるまでピーラーで削るのも楽しい。無心になれる。
 ふだんは朝寝昼起なのだけど、数日前から昼寝夜起になり、夜寝朝起になる。この睡眠時間がズレるパターンのようなものを知りたいのだが、いまだにわからない。
 そういうわけで、土曜、午前十時ちょうどに西部古書会館。『東海道五拾三次 広重の旅 保永堂版 行書版 隷書版』(富士美術館、一九七九年)、古文書解読指導研究会編『古文書参考図録』(柏書房、一九七九年)を二百円。他にもいろいろ買ったが、今回は草古堂の本が多い。草古堂の幕張店は行ってみたい。地図を見たら、近くに房総往還が通っている。歩きたい。

『東海道五拾三次 広重の旅』の庄野宿は「石薬師をたって鈴鹿川にそう山道をのぼること四キロ、庄野宿にいたる。日本武尊の白鳥に化して崩(かむあが)りたもうた折の思国歌(くにしぬびうた)は清らかで美しい」とある。庄野宿のもより駅の加佐登駅を北(宿場は南)に行くと、近くにヤマトタケルの形見の「笠」と「杖」をまつった加佐登神社があり、古くからヤマトタケルの御陵と伝えられてきた白鳥塚古墳がある(現在は亀山の能褒野古墳がそういわれている)。

 子どものころ、庄野宿付近の鈴鹿川でときどき釣りをしていた。このあたりは平地である。加佐登神社はカブトムシやクワガタがよく捕れた。広重の庄野宿の絵——隷書版は平地の風景が描かれている。すくなくとも山道ではない。有名な保永堂版「庄野の白雨」(峠道の絵)より、隷書版はわたしが知っている庄野宿に近い。ちなみに加佐登神社や白鳥塚古墳に向かう途中に「庄野の白雨」の風景と似た感じ坂がある。行書版の亀山宿の絵も「庄野の白雨」と構図が似ている。まあ、この問題は保留ということで。

『古文書参考図録』はビニカバ付の美本。「“調べる歴史”への入門シリーズ」の一冊。図版がたくさん載っている。第四章「交通・運輸」に「五街道の宿駅」「五街道と主要脇往還図」あり。また道中風俗、宿場、舟渡し、橋などの絵を多数収録。「運輸」の項には頭上運搬、前額運搬の絵もあった。前額運搬はおでこに紐をかけ、籠みたいなものを背負う運搬。大八車や倍荷車(べかぐるま)の絵、ねこ車の写真も。なんとなく資料になりそうとおもって買ったら、大当たり。

 不案内な分野をすこしずつでも理解していくには、なるべく全体の大枠みたいなものを掴んでから、細かいところを掘り下げるほうがいい。もちろん読みたい本を読みたい時に読み、ひとつのことが別の何かにつながっていく感じもわるくないというか、昔からわたしはそういう読書のほうが好きである。ただ、行き当たりばったりの乱読だと関心が拡散してキリがない。キリはないが、退屈はしない。