十月八日(木)、秋晴れ。東高円寺の蚕糸の森公園、天祖神社に行く。
散歩帰り、ブックファースト中野店に寄る。目当ての本はなかったが、上野誠著『NHKテキスト 100分de名著 万葉集』(NHK出版、二〇二六年)があったので買う。今月五日(月)が第一回の放送だった。上野誠のNHKテキストだと『こころをよむ 万葉びと、その生と死と』(NHK出版、二〇二四年)もよかった。古典と縁なく過ごしてきた人たちにその面白さを伝えたいという熱を感じる。
『万葉びと、その生と死と』の第八回「人生をふりかえる〜沈痾自哀文の世界(巻五の八九六のあと)」に「人間、長生きしたとしても、その後半生は老いのなかにあり、病のなかにある。そういうなかでどうやって生きていったらいいのか、ということが山上憶良の晩年の文学です」とある。
わたしは歌枕に興味をおぼえ、『万葉集』を読みはじめた。最初に好きなったのは山上憶良だった。憶良の「晩年の文学」は、私小説や随筆にも通じる。
散歩中、この先「何ができて何ができないか」とよく考える。老い衰えていく頭と体でもなるべく日々楽しく過ごしたい。
学者や物書きは年をとってもそのまま同じことを続ける人が多い。しかし五十歳を過ぎれば、頭も体もガタがくる。だから「ポンコツ化」を自覚する必要がある。ものおぼえがわるくなり、おぼえていたことを忘れる。自分の土台となっていた能力そのものが衰える。
若い世代の文芸や音楽に触れても「必要ない」とおもうことが増えた。それも老いの兆候だろう。
ここ数年、自分の感覚を体に合わせることを心がけている。若いころのイメージで動くとケガをする。信号が変わりそうになったら早足になったり……。焦らない、急がない、と自戒していても慌ててしまう。
あと早とちりも増える。過去のデータから類推して、すぐわかった気になってしまう。
ミスもそうだが、それ以上に「こんなことをやっていて何になるのか」とおもいがちになる。
何の役にも立たないこと、ひまつぶしをどう肯定するか。それもまた余生の文学のテーマである。