2025/12/19

第三の新人(二)

 十二月十七日(水)、十八日(木)、二日連続、東高円寺散歩。青梅街道はまだイチョウの葉が残っている。葉が散りやすいイチョウ、散りにくいイチョウがあるのだろうか。

 高円寺図書館——週によっては木曜日が休館日のこともある。すぎはち公園を歩いて蚕糸の森公園、梅里公園、セシオン杉並などを回る。セシオン杉並は三階の窓から西のほうの山がよく見える。

『群像』(一九六四年三月号)の座談会「第三の新人」(山本健吉、梅崎春生、小島信夫)の続き。

 小島信夫の「卑下していい社会的地位じやない」という言葉が引っかかった。

 小島信夫は一九一五年二月生まれ。この『群像』の座談会のときの年齢は四十九歳。小島も「第三の新人」の作家だが、第一次戦後派の梅崎春生と同年同月生まれである。

 安岡章太郎は一九二〇年四月(戸籍上は五月)、遠藤周作は一九二三年三月、吉行淳之介は一九二四年四月生まれ。
 芥川賞受賞は安岡が一九五三年、吉行が一九五四年、遠藤が一九五五年——座談会のころ、だいたい十年選手である。

 年齢もそうだが、作家としての地位を確立していくうちに「自分を道化にする」ような「卑下自慢」がきつくなる。
 いっぽう自分のだめさ、弱さに滑稽味を加えて表現するのは、文芸の伝統ともいえる。弱音、愚痴を軽妙に読ませる。そこに文章技術の粋がある。

 吉行淳之介著『ぼくふう人生ノート』(集英社文庫、一九七九年。単行本はいんなあとりっぷ社、一九七五年)に「恥」というエッセイがある。

《十代後半、私は劣等感の塊になっていた。当時、時代は軍国主義一色に塗り籠められていたので、いわゆる「芸術」の分野は蓋をされていた、といってよい》

《とにかく、何をやっても駄目だった。当時自分ではまだ気付いていなかったいくつかの特質は、どの社会分野にも不適合だった》

 吉行淳之介が五十歳のときのエッセイだ。

 すでに文壇において「大家」となりつつあった吉行淳之介は、それでも「若い頃の劣等感とほとんど同じ性質の劣等感を持つことがしばしばある」と書いている。

《この感情は、私が物を書き続ける限り、私の背後で影になってつき纏うだろう。その劣等感が私の中で消失するときは、私が物書きでなくなったときであろう》

 小島信夫の座談会で安岡章太郎が「芥川賞をもらうまでのことでないとどうもうまく書けない」とこぼしていたことにたいし、山本健吉は「そういう点でマンネリズムが出ていますね」と評している。
 同じ題材をくりかえし書いているとどうしても鮮度が落ちる。わたしは同じ話ばかり書く作家が好きだし、自分もその傾向がある。

 この日の深夜、近所をちょこっと歩いて家に帰ったら万歩計の数字が一万歩ぴったりだった。万歩計歴十七年で初である。

 (了) 

(追記)小島信夫は梅崎春生より年上と書いてしまった。二人とも一九一五年二月生まれ。梅崎春生のほうが二週間くらい早い。訂正した。

2025/12/16

第三の新人(一)

 五十代になると、低迷した状態が年相応というか、当たり前すぎて、わざわざ書いてもしょうがない……という気分になる。最近、散歩の話ばかり書いているのは、そんな心境の変化もある。

 すこし前に『群像』(一九六四年三月号)を荻窪の古書ワルツの店頭の均一のカゴの中にあった。百十円。同号、座談会「第三の新人」(山本健吉、梅崎春生、小島信夫)が収録されている。編集人は大久保房男。
 それにしても冬は外の均一で古雑誌の目次を見るのがつらい。手がかじかんでページをめくるのも一苦労だ。

《梅崎 「第三の新人」という名前をつけたのは山本さんですね。
 山本 それについては何べんも書いたことがあるが、いろいろあるので、あらためて申しますが、安岡君の「ガラスの靴」は昭和二十六年ごろでしたね、あのころ「文學界」の編集部から「第三の新人」という題で原稿の依頼があったので書いた。だから命名したのは私じやなく、「文學界」の編集部なわけだ。それは、その前の年の新年号に臼井吉見さんが「第二の新人」という題で書いたので、その翌年に私のところに「第三の新人」という題で書いてくれといつてきたわけだ》(※原文は旧漢字。以下の引用も)

「第一の新人」は武田泰淳ら第一次戦後派。臼井吉見の「第二の新人」は三浦朱門、安岡章太郎、あと安部公房、堀田善衞も入っていたそうだ。
 二十代のころのわたしは「第三の新人」の遠藤周作、安岡章太郎、吉行淳之介の軽エッセイが好きで古本屋で見つけるとその日のうちに読んでいた。また吉行淳之介の対談集に出てきた作家の本を探しているうちに読書の幅が広がった。文章、文体の好みもこのころに定まったようにおもう。

 梅崎春生は第三の新人について「もう一つ、ここには二つの派があつて、吉行、安岡、遠藤などというのはみな病気になつている」と……。
 戦争が終わっても病気は続く。生死に関わるような深刻な病気を書くさい、「わざとおかしみとして出している」。そこに特色がある。
 また山本健吉は梅崎春生を「第三の新人」の先駆者といい、そして井伏鱒二の影響も相当あるだろうと分析する。小島信夫は山本の言葉を受け、「ありますね。それからみなの好きな作家は牧野信一、嘉村礒多……」と「第三の新人」と私小説の関係を語っている。

 ちなみに梅崎春生は梶井基次郎、内田百閒を愛読していた。「第三の新人」の読書傾向(とくに吉行淳之介)と重なる。井伏鱒二もそうだろう。
 二十代の十年、わたしは「第三の新人」から私小説という流れで本を読んでいた。今おもうと、健康ではない、頑強ではない人の言葉、世の中になじめない人のための知恵を求めていた——といえるかもしれない。

 この座談会で興味深く読んだのは次のやりとり。

《山本 自分を道化にする気持が最初から「第三の新人」にはあつて、私はあの連中はみな卑下自慢だといつたんだけど、いまではそれはもう通り越しているような気がしますよ。
 梅崎 それから個人差が大きくなつているし、団結はなくなつているでしよう。
 小島 たしかにそういう卑下自慢の状態じやなくなつて、みな変わりつつありますね。それは卑下していい社会的地位じやないですからね。それもあると思います。安岡君がいつか言つてたということを聞いたんだけれども、要するに芥川賞をもらうまでのことでないとどうもうまく書けないという》

(……続く)

2025/12/09

うめ草すて石

 十二月八日(月)、起きたら午後四時。大和町の仕事場に行き、早稲田通りを散歩。中野区立野方一丁目公園に寄る。中野区制五十周年記念樹を見る。最近までこの公園の名前を知らなかった。
 大和町、野方は高円寺の隣町なのだが、まだまだ歩いていない場所が残っている。
 ブックファースト中野店で新刊本を一冊。中野駅方面に向かい、中野レンガ坂のイルミネーションを見る。

 ブックファースト中野店の前のあおい書店中野店は二〇一七年九月閉店。つい最近のことのようにおもえる。

 先週、西部古書会館で買った荒畑寒村、向坂逸郎著『うめ草すて石』(至誠堂、一九六二年)を読む。同書は新装版(一九八二年)も出ている。埋草捨石——新聞雑誌の穴埋め記事のこと。同書は対談なのだが、文頭に発言者の名前がなく、途中からページを開くとどちらが喋っているのかわからず戸惑う。

 たとえば「安成貞雄、二郎」のところ(質問者・向坂)はこんな感じ——。

《安成二郎さんってあるでしょう?
 ええ、あれは貞雄の弟です。
 安成さんは子供さんはあったんですか?
 貞雄にはありません。
 では細君は?
 細君もなかったです。
 じゃ二郎さんは?
 二郎君は子供が幾人もあります。
 これも歌人ですか。
 小説なども書いてますが、本領はやはり歌ですね。例の「豊葦原、瑞穂の国に生まれきて、米が食えぬとはうそのよな話」という歌と、「言霊のさきはふ国に生まれきて、物がいえぬとはうそのような話」という歌は、ともに有名なものです。それからこういうのもある。「父となりし、まぬがれ難きあやまちと、夫となりし、おろかなあやまち」(爆笑)》

 安成二郎のことを「自分のむすこの家で孫の守りをして、まあ楽隠居の身の上です」(寒村の言)とも。

 さらに寒村はこんな安成二郎の逸話も語っている。

《終戦後にどっかの雑誌から、あなたはどういう世の中になったらよいと思いますかというアンケートが来たら、安成二郎いわく「いまのままが一番よい」(笑声)》

 安成二郎は阿佐ケ谷に暮らし、「阿佐ヶ谷将棋会」のメンバーでもあった。一八八六年九月秋田生まれ。一九七四年四月没。享年八十七。

『うめ草すて石』の「石川三四郎と守田有秋」では、石川がフランスに行ってエリゼ・ルクリュの孫のところで世話になったことがきっかけでアナキストになった——という話が出てくる。

《石川君のアナーキズムは、非常に精神主義の色彩が強い。どっちかというと、ターナーなんかの個人的な人格を作り上げるというような、ごく温和なアナーキズムなんですね》

 ルクリュは地理学者。ロシアのアナキストのクロポトキンも地理学者だった。

 石川三四郎の温和なアナーキズムは新居格、秋山清に受け継がれている。