2024/07/19

怪談

 水曜夕方、御茶ノ水。夜七時すぎ、一橋徳川屋敷跡から代官町通りを歩く。途中、東京スカイツリー、東京タワーを見る。千鳥ヶ淵をこえ、麹町。何度か歩いているコースだけど、麹町駅付近でいつも方向感覚がおかしくなる。一時間くらいで四ツ谷駅。汗をかいた。中央線快速、けっこう空いていた。

 十九、二十歳のとき、麹町の編集プロダクションに出入りしていた。電話番が主な仕事だった。
 同じころ、月に二回くらい水道橋にあった会員制の情報紙の会社でも発送業務の手伝いをした。封筒にニュースレターを入れて郵便局の夜間窓口に持っていく。一回五千円。手書きの原稿をワープロで打ち直すアルバイトもした。記憶があやふやになっているが、水道橋の会社で田原総一朗さんの姿を見かけたことがある。一九三四年生まれだから当時五十五歳。急に思い出した。あれから三十五年。秋にわたしも五十五歳になる。

 鮎川信夫著『私のなかのアメリカ』(大和書房、一九八四年)を再読。「コラムニストの椅子」の章に「怪談」というエッセイがある。
「昨年の暮に、田村隆一と会った」という一文からはじまる。「昨年の暮れ」は一九八二年の暮れと文中にあるから、鮎川六十二歳、田村五十九歳。四十年をこえる付き合いだが、会うのは四年ぶり。

《あれこれ考えてみたが、うまい答えが浮ばない。何か知らないけれど、友人関係を保つエネルギーがひどく稀薄になってきているというのが一番の正直な答えなのだろうが、それも表面的な話で、本当はどうか分らないのである》

 そしてテーマが老後に移る。

《世界史に類のない高齢化社会の到来で、この国は、年を追うごとに頭を痛めるようになっている。これからは、誰にとっても老後が大問題になるだろう》

 鮎川信夫は「老後対策皆無」と書いている。六十六歳で亡くなっているから、老後の心配は必要なかったといえる。

《私にしてみれば、人生という切れ目のない続きを続けているだけで、どこから老後という仕切りがないのである。ただひた走るだけ——そう思っていれば、歩行困難に陥っていた足も、自然と治ってしまうのである》

 ひさしぶりに「怪談」を読み返し、「おっ」とおもったのは次の一節。

《私たちの青年期には、癩と結核が恐ろしい病気だった。どんな人でも、この二つの病気を怖れていた。若くしてこれらの病気で死なねばならなかった人たちからみれば、そんな恐ろしい厄病から解放された今の世は極楽で、老害によって二度わらしが増えていることなど、ぜいたくな悩みということになってしまうだろう》

 二度わらし(二度童子)は年をとってまた子どものようになること。認知症のこと。四十年前のエッセイに「老害」という言葉が出てくる。そこで「おっ」とおもった。今の「老害」とはニュアンスがちがう。手元にある一九八六年の国語辞典には「老害」は載っていない。
 最近、「老い」について考えているせいか、本を読んでいても、つい「老」という字に反応してしまう。中国語だと「老」はいい意味でつかわれることも多い。
「老大」は「ボス」という意味もある。李暁傑「老大」という中国のヒット曲があって、それで知った。DJ版「老大」をたまに聴く。