2026/02/18

ノーサイド

 急に暖かくなって睡眠時間がズレる。ちょっと過睡眠気味だ。そういうときもある。

 日曜、夕方四時すぎ。西部古書会館。初日に行きそびれ、図書館で借りた寺田寅彦関係の本を読み終わってなかったので、今週はパスしようかなとおもったが、行った。
 家を出たら体が勝手に古書会館のほうに向かっていた。しょうがない。

 ガレージのところで文庫を見ていたら、『ノーサイド』(文藝春秋)のバックナンバーが積まれている一角があった。「ひょっとしたら」とおもい、足早に近づく。『ノーサイド』の「特集 山本夏彦の『ズバリひとことで言う』」(一九九二年一月号)があった。他にも同誌の老人関係の特集を何冊か買う。ぜんぶ百円。一九九〇年代前半の『ノーサイド』、今読んでも面白い。

『ノーサイド』の山本夏彦特集。著名人の囲み記事に内海好江(漫才師)の「十二年の片思い」というインタビューがあった。好江師匠は新潮の写真コラムのファンだった。

《私達芸人が大切にするのは、間です。その意味でも、先生の文章は勉強になります》

 内海好江は一九三六年二月二十三日生まれ(一九九七年十月六日没)。

 わたしが山本夏彦に会ったのは一九九五年五月。三十年以上前か。山本夏彦はまもなく八十歳、わたしは二十五歳だった。『室内』編集部に手紙を出して、辻潤の話などを聞いた。わたしが斎藤緑雨と同郷(三重県鈴鹿市)という話をしたら、喜んでいた。
 郷里にいたころ、緑雨のことは知らなかった。山本夏彦の本で知った。
 帰りぎわ、自分の本を若い人が読んでくれるのはありがたいといったのも印象に残っている。

 西部古書会館の後、馬橋公園を散歩した。喫煙所の近くで蠟梅の木を見つける。馬橋公園の蠟梅、元気がない感じだった。

2026/02/14

思いのまま

 一日おきくらいのペースで環七沿いの梅里公園に行き、梅を見ている。梅の種類がたくさんあることを知った。まだ区別がつかない。昨晩、近所の飲み屋でそんな話をしていたら「おじいさんみたい」といわれる。
 土曜日、高円寺図書館、すぎはち公園に行く。図書館の南側の銅像の近くに蠟梅が一本あった。黄色の花。そのあと梅里公園と蚕糸の森公園。梅里公園は思いのままという梅が咲き始めていた。白、淡紅など、いろいろな色の花が咲く梅らしい。蚕糸の森公園は池の水が復活していた。帰り道、天祖神社に寄る。

 福原麟太郎著『人間天國』(文藝春秋新社、一九六一年)の「學問のすすめ」を読む。

《知識は生活によって磨かれ、生活は知識によって守られなければならない》

 知識を得る。生活の中で知識をどう使うか。知識があっても使いこなせないことはよくある。
 生活の知恵は自分を守るためにある。

 福原麟太郎の「學問のすすめ」を読んでいて不安をおぼえたのは次の箇所だ。

《たとえば私は物理学者に質問するのだが、あの人たちは大量殺人兵器を作る目的で物理学の研究を専ら進めてきたわけではなかったのだろうと思う。真理の探究ということを追っかけ追っかけしている間に、そこへ来てしまったのであろうと思う。学問は自律的に進む。自然の勢というものがあるのだ》

 AIが進化すれば、人知を超える速度で兵器が開発される可能性もある。
 アメリカがベネズエラのマドゥロ大統領を拘束時に使用した新兵器(電磁波で混乱させる兵器)もそうだろう。

 新兵器を防ぐシステムが開発されたとしても、それを上回る兵器が作られ、さらにそれを防ぐための……。

 想像するだけで怖い。

(追記)すぎはち公園の蠟梅は二本だった。後日気づいた。

2026/02/10

蠟梅

 日曜日、衆議院選挙は雪。前日、梅里中央公園で蠟梅(ろうばい)を見る。黄色の花(薄い黄、濃い黄)でロウというかプラスチックみたいな花だった。香りがすごくよかった。中国原産の落葉低木で江戸前期に日本に入ってきた。ロウバイ科ロウバイ属に分類される。ちなみに梅はバラ科サクラ属である。

 選挙の開票速報を見ながら、いろいろおもうところはあった。選挙期間中、心ここにあらずといった表情の中道改革連合の野田佳彦共同代表の姿が忘れられない。

 選挙の日にはグッドルーザーとは何かと考える。そのたび、ジョン・マケイン(共和党)のことを思い出す。二〇〇八年のアメリカ大統領選敗退後の演説は素晴らしかった。
 わたしはジョン・マケインの敗北宣言が好きすぎてアニメ『負けヒロインが多すぎる!』を全話視聴した。

 今回の選挙は中国問題および安全保障は隠れた(隠れていなかったが)争点だった。日中の良好な関係を望むが、中国の度重なる恫喝に屈するのは拒絶したい。
 中国の圧力が激しくなればなるほど、国防や日米同盟の意義が高まる。

 沖縄の選挙結果はその象徴だろう。

 本来、日中関係は日米関係よりずっとつながりが深い。中国文化の恩恵はとてつもなく大きい。これ以上、嫌中感情が強まってほしくない。
 一個人の中にも様々な矛盾した感情がある。

2026/02/07

絵巻マニア

 渡辺京二著『さらば、政治よ 旅の仲間へ』(晶文社、二〇一六年)所収の「二つに割かれる日本人」を再読する。

《長い間、人間は天下国家に理想を求めてきましたが、これもうまくいかなかった。人間が理想社会を作ろうとすると、どうしてもその邪魔になる奴は殺せ、収容所に入れろ、ということになるからです》

《政治とはせいぜい人々の利害を調整して、一番害が少ないように妥協するものです。それ以上求めるのは間違っているんですよ》

 このインタビューを読んだのは四十代半ばだが、二十代のころから、わたしもなんとなく政治は、妥協と考えていた。
 みんながすこしずつ損を引き受ける。不具合をすこしずつ整備する。一気にすべての問題を解決できない。

 国政に関しては安全保障とセーフティーネットを重視している。小選挙区は保守系、比例はリベラル系、またはその逆——といった感じで一つの政党に肩入れしないよう心がけている。
 春夏の高校野球、自分の出身県の高校が敗退した後、気になる選手がいる高校を応援する。勝っても負けてもとくになんともおもわない。そういう感覚に近い。

 土曜日、西部古書会館。『絵巻マニア列伝 六本木開館10周年記念展』(サントリー美術館、二〇一七年)、伊藤榮洪著『ぶらり雑司が谷文学散歩』(豊島区、二〇一〇年)など。物語絵巻、古地図関係の図録は活字が頭に入ってこないときでも読める。最近は、絵巻に描かれる海や川の絵が好きになった。淡い藍色のような水の色がいい。『絵巻マニア列伝』では「誉田宗廟縁起(こんだそうびょうえんぎ)」の絵巻がよかった。室町時代の絵巻物。誉田八幡宮がどこにあるのかも知らなかった。大阪府羽曳野市。もより駅は近鉄南大阪線の古市駅。近くに東高野街道も通っている。わたしの郷里の三重県鈴鹿市のもより駅から三時間くらい。日帰りで行けなくもない。

 明日の選挙の投票先、比例をどうするかまだ迷っている。

2026/02/03

雑記

 日曜、セシオン杉並から梅里公園。セシオン杉並、期日前投票がはじまっていた(わたしはまだ投票先を決めていない)。

 自分が住んでいる町の選挙区の候補者の経歴を見る。比例の投票先を絞り込む。事前に考えるのはそのくらい。杉並区は選挙区が二つ(東京八区、二十七区)に分かれていて、高円寺界隈はその境なのでけっこうまぎらわしい。

 新聞各紙は自民党の圧勝と予想している。たぶんそうなる。自民党は大勝したあと次の選挙で負ける傾向がある。議席を増やしそうなのはチームみらいか。すでに中道改革連合は選挙後の分裂を心配する声がある。おそらく分裂する。

 前にセシオン杉並の三階の窓から富士山が見えるかどうか——という話を書いたが、見えないかもしれない。富士山っぽい山の影が見えたのは勘違いだったか。わからない。田代博著『「富士見」の謎』(祥伝社新書、二〇一一年)の「第二章 都内路上富士」に東京メトロの新高円寺駅もよりの五日市街道(梅里二丁目、松ノ木三丁目あたり)から富士山が見えるとあったが、何度か歩いたが、確認できていない。

 梅里公園の梅、烈公梅、酔心梅、未開紅、鹿児島梅、月影枝垂、織姫、白加賀、紅千鳥、藤牡丹枝垂、千代鶴枝垂、見驚、南高、米良、まだ咲いてなかったが、思いのままなどがある。意外と白い花が咲く梅があることを五十代半ばすぎて知る。高円寺に住んで三十数年になるが、梅の季節に梅里公園を歩いたことがなかった。

(追記) ほかにも緑萼枝垂、紅筆という梅の木があった。

2026/01/27

とんでもない

 高円寺駅の南方面を散歩するとき、高円寺中央公園から高円寺図書館(すぎはち公園)、青梅街道を渡ってセシオン杉並、梅里公園、そこから環七を渡って蚕糸の森公園——というコースをよく通る。
 梅里公園は梅の花が咲きはじめている。先日、紅冬至を見たが、酔心梅という品種もあることを知った。まだ咲いてなかったが「思いのまま」という名前の梅の木も何本かあった。梅の花の見分けがつかない。

 蚕糸の森公園から東京メトロの中野富士見町駅は意外と近い。今年に入って中野富士見町も二回散歩している。駅の近くにスーパーのオオゼキがある。ここでコーミソースが買えることを知った。おにぎりせんべいの銀しゃり(塩)が売っていた。おにぎりせんべいは塩派である。おにぎりせんべいのマスヤは三重県の会社。子どものころ、ピケ8という洋風せんべいが好きだった。今も郷里の三重に帰省すると買って帰る。

 スーパーのオオゼキは東高円寺駅のニコニコロードにもあったが、二年前に閉店した。一時期、東高円寺のオオゼキと天祖神社を回るのが定番の散歩コースだった。

 一月二十八日、尾崎一雄の幻の新聞小説『とんでもない』が春陽堂書店から刊行(企画・編集 田中敦子さん)。わたしは解説を書きました。
 一九六一年六月、尾崎士郎が入院で産経新聞の「新・人生劇場」の連載が中断——急遽、その代打として尾崎一雄がこの小説を書くことになった。単行本・全集未収録の作品である。

『父のおじさん 作家・尾崎一雄と父の不思議な関係』(里文出版、二〇二一年)の田中敦子さんから『とんでもない』の話を教えてもらい、わたしはカフェ「昔日の客」の関口直人さんを紹介した。田中さん、関口さんはそれぞれ父が尾崎一雄の小説のモデルになっている。『とんでもない』にも戦災孤児だった田中さんの父も登場する。

『とんでもない』の冒頭、九州出身の阿久津啓作という文学青年が東京から歩いて小田原にやってくる。

 尾崎一雄作品によく出てくる仕事が長続きしない文学青年が主人公の長篇である。尾崎一雄の場合、長篇小説そのものが珍しい。『とんでもない』は過去に発表した短篇の逸話があちこちに出てくる。「冬眠居」という章もある。
「冬眠居」の章から作者の分身の多木太一が登場する。

《齢は五十五で、勤め人なら丁度定年というところだが、小説家には定年がないから、退職金も年金もない。やむを得ず無い知恵をしぼって、ぽつりぽつりと仕事をして、どうやら妻子四人を養っているわけだが、この人物は、知恵がないと同時に運もないと見えて、終戦の前年重病にかかり、長年の東京住まいを切り上げ、郷里なるこの下曽我村に引込んだ》

 そのあと多木は「暑さ寒さに大変弱い」「冬になるとまるで元気がなくなるのは、蛇や蛙と同様である」といった記述もある。

 わたしは『新編 閑な老人』(中公文庫、二〇二二年)を編集するさい、「歩きたい」という短篇を軸にした。
 病床の尾崎一雄の願いは自由に歩き回れるようになることだった。『とんでもない』は歩く話がよく出てくる。

 下曽我は梅の名所で尾崎一雄は梅干し作りが趣味だった。
 わたしは長年漬物が苦手だったのだが、四十歳すぎてから梅干を食べられるようになった。

2026/01/19

冬の底

 一月十一日、十二日、十三日が今年の「冬の底」かもしれない——と書いたばかりで恐縮だが、十四日(水)と十五日(木)がもっと底。ここ数年で記憶にないくらいの底。
 季節の変わり目というか、たぶん寒暖差に弱いのだろう。

 十六日(金)、夕方四時すぎに起き、夕焼けを見ながら馬橋公園から阿佐ヶ谷神明宮に向かう斜めの道を歩き、そのまま阿佐ケ谷のアーケードの商店街を散策しているうちに、調子の回復を実感した。好きな道を歩くのは精神衛生によい。

 十七日(土)、昼すぎ、西部古書会館。大均一祭(初日一冊二百円、二日目一冊百円)、奥野健男著『文学における原風景 原っぱ・洞窟の幻』(集英社、一九七二年)、『屋根の花 大佛次郎随筆集』(六興出版、一九八〇年)、佐々木節=文、平島格=写真『日本の街道を旅する』(学研、二〇一一年)など。『文学における原風景 原っぱ・洞窟の幻』は、増補版も刊行されているが、どちらも古書価が高い(「日本の古本屋」で五千円くらい)。

 二〇二三年十二月二十二日のブログ(「暮らしの型」)で「奥野健男著『文学における原風景 原っぱ・洞窟の幻想』(集英社、一九七二年)、家にあるはずなのだが、見当たらない」と書いている。

 この日、西部古書会館に行く途中の道でなんとなく『文学における原風景』がありそうな予感がした。会場を一回りして会計をしようと後ろを振り返った棚に『文学における原風景』が見えた。心の中で「よし」と叫ぶ。

 同書の「原っぱ・隅っこ・洞窟の幻想 都市の中の原風景」では、東京山の手に育った著者が「“故郷”とか“ふるさと”とかいう言葉を聞くたびに、奇妙な異和感といらだちをおぼえたものだ」と述べている。

《それはさておき、家のことを別にすれば、幼少年期の思い出として、吸い込まれるようなかなしさ、なつかしさで、ぼくの心を揺するのは“原っぱ”である。“原っぱ”こそ、ぼくの“原風景”であり、ぼくの故郷の断片である》

 わたしの郷里は三重県鈴鹿市の工場の町だったが、幼少年期の一九七〇年代——近所にドカンのある空き地が残っていた。
 ただし、なつかしさをおぼえるのは生まれ育った町より、母方の祖母が暮らしていた浜島(現・志摩市)の海である。近鉄の鵜方駅からバスで二、三十分。子どものころ、英虞湾の矢取島(歩いていける)のあたりで釣りをした。

2026/01/13

低迷中

 寒さに弱いが、冬の晴れた日の澄んだ空気が心地よい。
 一月二日に横浜から高円寺に戻って以来、十日以上、電車に乗っていない。すこし前に永福町まで散歩し、「ふくにわ」で富士山を見て、バスで高円寺に帰った。

 毎年一月中旬から二月の間の数日——「冬の底」と呼んでいる気力体力の低迷期がある(一月二十日の大寒のあたりが多い)。昨年は「一月二十六日、二十七日、二十八日」がそうだった。一月十日前後の年もある。
 今年は——今日一月十一日、十二日、十三日がそうかもしれない。まだわからない。急に生活リズムが崩れ、一日の大半、頭が回らなくなる。今のところ、体の怠さはない。

 夜になり、調子が上向いた気がしたので佐藤春夫の『白雲去来』『續 白雲去来』(筑摩書房、一九五六年)を再読する。新書よりやや大きめのサイズの本。新聞連載をまとめた時評風の随筆である。

『續 白雲去来』に「散歩の場所を求める」という一篇がある。
 西洋哲学、ドイツ文学、古典語学、そして音楽家のケーベル博士(ラファエル・フォン・ケーベル)の話。
 ケーベル博士は、東京にはいい散歩の場所がないと嘆いていた。赤坂離宮付近は例外だった。
 佐藤春夫はケーベル博士の言葉を受け、今日の東京の町は「人間の散歩はおろか必要な歩行さえむつかしい場所」となったという。
「今日の東京」は七十年前。佐藤春夫、六十三歳ごろ。

《僕のやうなそそつかしい、うつかりしたのはとても東京で散歩などは思ひも及ばない。機械類の横行せぬ裏道を行けば、犬の糞や小便の悪臭のために僕のやうな野人も閉口するありさまで、つひに東京の散歩はあきらめるほかはないと思ひ知る》

 佐藤春夫の随筆——昔の話と今の話の按配がいい。
 一九五〇年代半ばの東京、当然のことながら生活は不便だったし、道路事情もわるい。今のほうが歩道も整備されていて、歩きやすい。

『續 白雲去来』の「何のために書くか」は久々に再読して新たな感銘を受けた。

《一般の世人と多少すべての感じ方考へ方に相違ある自分は、いつも通俗的な考へ方の世人よりは自分の思考方法もしくは思想そのものを世人よりも正しいと信じ、それを世人に承認させるために書いて、自分流の考へ方感じ方をする種族を一人でも多く世にはびこらせて置く仕事をしてゐるのだと考へて自分だけはそれで納得した》

《同じ考へ方、同じ感じ方、すなはち同じ生き方の人間を世界に繁栄させて新しい希望を世界につなぐわたくしである》

 わたしは佐藤春夫のように「自分の思考方法もしくは思想そのものを世人よりも正しい」とはおもっていない。
 いっぽう古本好きや不規則な生活をする人や意味もなくふらふら歩く人が増えたら嬉しい。自分と似た種族を増やしたいのかもしれない。繁栄しそうな気配はあまりしない。

2026/01/11

冬の散歩

 風が冷たい。散歩で愛用している通気性のよいウォーキングシューズ——寒い日は厳しい。足の裏が冷える。手足の冷えはなかなか改善されない。年明けから左膝に軽い痛みあり。

 一月六日(火)、夕方、昨年借りていた本を返却するため、高円寺図書館。二階のテラスで十五分ほど日向ぼっこ。そのあと青梅街道近くのセシオン杉並に行く。梅里公園で紅冬至の花を見る。真冬に咲くこの梅の名前も最近知った。

 先月、何度かセシオン杉並の三階の西側の窓から富士山が見えるかどうか確かめに行ったのだが、薄い雲がかかっていて見えなかった。この日の夕方、すこし雲がかかっていたがぼんやり山の形が見えた。冬の富士山は雪で白くなっているので昼間はすこしでも雲がかかっていると見えないことが多い。

 春の桜、秋の紅葉みたいな感覚で冬の富士山が見たい。季節に関係なく、高円寺界隈で東京スカイツリーと代々木のドコモタワー、新宿の歌舞伎町タワーが見える場所を探している。視界を広げる訓練も兼ねている。

 梅里公園を歩いて環七の歩道橋を渡り、蚕糸の森公園を散策する。

 一月十日(土)、起きたら夕方四時五十分(寝たのは同じ日の朝六時)。ひさしぶりに十時間以上の睡眠。よく寝たおかげで左膝の痛みが治った。
 午後五時すぎ、今年初の西部古書会館。『江戸時代の旅と街道』(上田市立博物館、一九九一年)、『企画展示 描かれた江戸』(国立歴史民俗博物館、一九九一年)、『神戸市立博物館館蔵名品図録』(神戸市スポーツ教育公社、一九九一年)、『神戸市立博物館総合案内』(神戸市立博物館、一九八八年)。『源平の美学 平家物語の時代』(サントリー美術館、二〇〇二年)、『特別展示 お伽草子絵』(和泉市久保惣記念美術館、一九八七年)など。
 神戸市立博物館の図録は古地図関係の資料として買った。物語絵巻の図録の収集は今年も続くとおもう。

 昨年暮れに西部古書会館で買った本や図録も積読状態のままだ。積読は自分が知りたいことの道標になる。
 散歩も読書も継続することが面白い。月日を経ることで見えてくるものがある。自分の興味もすこしずつ変わる。

2026/01/04

新年

 年末年始は横浜で過ごした。菊名から妙蓮寺あたりの旧綱島街道を歩いた。家を出る前に地図を見て、現地ではオイルコンパスのみで散策したのだが、坂道だらけで楽しかった。途中、富士塚という地名があったが富士山は見えなかった。道に迷いながら子安、新子安あたりまで歩いた。知らない町を歩いていると「生きているうちにまたここに来るのかな」という気分になる。

 大晦日は紅白、ぐるナイ年越しおもしろ荘!を見る。ゆっくりテレビを見るのは高校野球の季節か正月くらいになっている。たまにテレビを見ると、コマーシャルに出ている人がわからない。生きている人か死んでいる人か、わからなくなってきている。

 年明け、中村光夫著『知人多逝 秋の断想』(筑摩書房、一九八六年)を再読。「若い散歩者たち」は、何年か前から鎌倉に若い人が大挙して来るようになったという話から、こんな感想を述べている。

《彼らは、いわゆる「名所」に惹かれてきているのではなさそうです。(中略)では彼らは何に惹かれてくるのか、というとそれは低い丘の形で街の中心まで食いこんだ自然と、戦災を免れたために比較的古い建物の残った街との調和がもたらす、或る落着きと思われます》

 東京は一年も経たないうちに町の様子が変わってしまう。

《こういう場所に生れ、育った青年たちの心には、二十歳にならなくとも、故郷を失った老人に似た空虚感がある筈です》

『知人多逝』には「日記から(昭和四十九年)」も収録されている。この日記が気になって再読した。
 この夏から中村光夫はジョギングをはじめた。中村光夫は一九一一年二月生まれなので、六十三歳。ジョギングといっても「歩くのと駈けるのとの間ぐらいなスピード」だったらしい。

《六十をすぎてから、何故こんなことを始めたかというと、かなり身体の衰えを痛感したからです》

《思いがけない拾いものは、この単純な肉体運動の精神的効果でした》

 年をとり、予想外の寝起きの不快感をおぼえるようになった。それが十分くらい走ると解消されると……。

 わたしはジョギングはしていないが、一日二時間くらい散歩している。遊歩道や公園など、車や自転車が通らない道はすこし早足で歩く。体が温まってくると気分もよくなる。
 若いころはこんなことをしなくても仕事や趣味に没頭できたのだが、年をとると何をするにも体調管理が避けられない。

 平穏無事。むずかしい。