2026/04/05

下曽我へ

 三月三十一日(火)、尾崎一雄の命日。小田原市の下曽我へ。新宿から小田急で新松田駅、そこからJR御殿場線の松田駅に乗り換える。松田駅から国府津駅方面の電車は一時間に一本くらい。すこし時間があったので松田駅周辺を散歩した。ロマンス通りを歩いて酒匂川へ。十文字橋を渡る。渡ってすぐ戻る。松田駅〜下曽我駅は六・四キロ。今度下曽我に行くときは松田駅から歩きたい。

 尾崎一雄の幻の新聞小説『とんでもない』(春陽堂書店)の主人公は小田急小田原線に沿って道に迷いまくりながら徒歩で下曽我にやってくる。学生時代、尾崎一雄は徒歩で下曽我〜東京を往復している。片道八十キロ。
 下曽我駅午前十時十八分着。待ち合わせは午前十一時前だったのだが、雨が強くなってきたので駅のちかくの小田原市梅の里センターに寄り、在りし日の雄山荘の写真を見る。

 大森のカフェ「昔日の客」の関口夫妻、『父のおじさん 作家・尾崎一雄と父の不思議な関係』(里文出版)の田中敦子さんと宗我神社に向かい、そのあと墓参り。さらに雨が強くなる。寒くない日でよかった。

 神道の墓参りの作法をほとんど知らなかったので事前にインターネットで調べた。数珠はいらない。
 榊の葉は関口さんが用意してくれた。酒を供えるとき、尾崎一雄が酒をやめていた時期の話になる。
 晩年はウイスキー(オールドが好きだった)を飲んでいた。こんな話で盛り上がる機会はなかなかない。

「昔日の客」の関口直人さん、『父のおじさん』の田中さん——ふたりの父親は尾崎一雄の小説のモデルになっている。

 天気がよければ、関口夫妻と田中さんを弓張の滝や曽我丘陵の近くまで案内するつもりだった。雨が強くなってきたので雄山荘跡へ。太宰治『斜陽』の舞台、太田静子が『斜陽』の元になった日記を書いた雄山荘(大雄山荘)が火災で全焼したのは二〇〇九年十二月二十六日である。太田治子は雄山荘で生まれている(一九四七年十一月生まれ)。

 宗我神社の周辺、晴れていれば富士山がよく見える。

『新編 閑な老人』(中公文庫)に「苔」という短編を収録した。元の『閑な老人』にも入っている。

《神社の大きな四、五本は染井吉野なので、すでに葉桜なのは当然だが、上隣りや向いの八重桜もしぼんだのに、わが家の牡丹桜だけまだ見られるというのはどういうわけだろう》

 尾崎一雄の作品を読みはじめた三十歳前のころは「苔」のよさがピンとこなかった。ただ、この作品の最後の一行は印象に残っている。七十二歳の短篇。

 下曽我駅から小田原駅へ。国府津駅の乗り換えのさい、ホームから海が見える。「ここから、相模湾、近いですよ」といったら「見に行きましょう」となって、みんなで途中下車する。国府津の海、雨で波が荒れていた。

 小田原駅で食事をして小田原城へ。駅の案内板の地図、川崎長太郎の小屋跡が記されている。「キャッと叫んでろくろ首になる」の牧野信一も小田原生まれ。

 なぜか小田原は私小説作家と縁がある。

2026/04/01

中野の花見

 土曜日、中野散歩。四季の森公園の桜を見る。花見客がたくさんいた。桜だけでなく、花桃(ハナモモ)が咲いている。
 中野通り沿いの桜並木をすこし歩いて、駅南口に向かい、桃の花を見る。南口のサンロード中野・桃商会の通りには照手桃(テルテモモ)があった。花桃の一種で小栗判官の照手姫から名前をとっている。照手桃は相模原市で品種改良された桃(ほうき性樹型)である。
 このあたりは旧・桃園町だったからか、桃の木がけっこうある。桃の花に魅かれる。

 中野のコープみらいで冷凍チャーハン(わりとあっさり味)を買い、桃園川緑道を通って高円寺に帰る。自分でもチャーハンはよく作るが、冷凍チャーハンの進化には敵わない(あと安さも)。

 日課の散歩(一日一万歩)で歩きたい気分じゃないときでも歩いているうちに、樹木や草花が好きになった。同じようなことのくりかえしの中にも変化がある。

 二〇二六年になって、まだ三ヶ月ちょっとだが、世の中の話題展開の速度についていけない。
 インターネットはその時々の気になる情報が自分の許容量を超えて集まってくる。どこかで制御しないと自分の思考が拡散してうやむやになってしまう。
 半世紀以上前の古本(古雑誌)を読んだり、音楽を聴いたりするのは、頭を冷ますのによい。

 文芸創作誌『ウィッチンケア』Vol.16に「ブログの話」を書く。最初「ブログ二十年」という題をつけていたが、原稿を送る直前に変えた。なぜ変えたのか、よくわからない。

 年に一回発行の同誌でわたしは私小説風のエッセイを書いてきた。連作ではないが、古本の話、住まいの話、散歩の話など、どこかでつながっている。

 日曜日昼すぎ、西部古書会館(木曜日から開催していた)。『浅野竹二の木版世界』(府中市美術館、二〇一七年)、『武者小路実篤記念 新しき村美術館』(新しき村美術館、一九八八年)、滝田ゆう『寺島町奇譚 ぬけられます 現代漫画家自選シリーズ』(青林堂、一九七一年)、佐藤春夫著『打出の小槌』(講談社文芸文庫、一九九〇年)など。

 浅野竹二の図録は手にとってパラパラ見ているうちに気に入った。一九〇〇年十月二十四日京都生まれ、一九九九年二月十日没(同図録の年譜)。インターネット上はウィキペディアをはじめ、一九九八年没になっている記述も多い。いずれにせよ長生きだ。

 浅野竹二、若いころは繊細な風景画を描いていたが、途中で画風が大きく変わり、九十代になるとポップアートみたいな絵になる。

 画家の中にはずっと同じような絵が描き続ける人もいる。そういう人も面白い。

 ブログの話に戻るが、ずっと同じことを続けていると、どこかで飽きてくる。そこから模索がはじまり、工夫を重ねる。そうした模索や工夫を経て、何がどう変わるのか。
 年々、働かないおじさん(おじいさん)の日記になりつつある。それもまたよし。

(追記)浅野竹二の生年を「一九九〇年」と書き間違える。さらに「一八九〇年」と間違えて直してしまう。訂正した。注意力散漫。 

2026/03/28

宿酔の読書

 夜、日付が変わった時間、飲み屋の帰り道。高円寺駅の南口の枝垂桜を見る。梅も見る。この日、小雨の中、桃園川緑道、馬橋公園の桜も見た。どうやって家に帰ったのか、記憶がない。

 昼起きて『朝に俗銭を得て 夕に詩をつくる 木下夕爾随筆集成』(藤井基二編、中央公論新社)を読みはじめる。読み終えるのがもったいない。
 木下夕爾は広島県深安郡上岩成村(現・福山市)の生まれ。
 木下夕爾は井伏鱒二のつながりで知った。二人とも福山生まれである(編者の藤井さんも)。木下と井伏は釣り仲間である。木下の詩と俳句は読んでいたが、随筆はほぼ未読だった。
 ふくやま文学館は二度行った。そのときだったか、岡山在住のカメラマンの藤井豊さんが「木下夕爾という詩人がええんじゃ」みたいなことを言っていた記憶がある。この記憶に自信がない。
 表題「朝に俗銭を得て 夕に詩をつくる」という随筆に「はじめ早稲田にいましたが中途また叔父に死なれ、その業をつぐべく名古屋の薬専にうつりました。この学校は西行の歌で有名な鳴海町の丘の上にあります」とある。

 藤井基二さんの解説によると、薬専は愛知高等薬学校(後の名古屋薬学専門学校)とのこと。解説、研ぎ澄まされた、心のこもった文章だった。

 家業を継ぎ、郷里福山で詩や俳句を作る。校歌もたくさん作っている。そういう文学の道もある。

 寝転んでぱっと開いたページに「鮠釣りのことなど」というエッセイがあった。井伏鱒二に釣りを教わる話。友人の近江卓爾も登場する。すべての行がいい。文末に「一九六五年三月」という日付がある。木下夕爾(一九一四年十月二十七日生まれ)が亡くなったのは一九六五年八月四日。五十歳。
 梅崎春生(一九一五年二月十五日生まれ。六五年七月十九日没)と生没年が近い。
 二十代後半から、わたしは作家や漫画家の没年が気になるようになった。文学展のパンフレットの収集をはじめたのもそのころで、暇さえあれば年譜を見ている。
 一年一年、年をとる。その没年を知り、木下夕爾の文章を読む。生きたいと願う。その願いが詩になる。

 本の内容と関係ない感想がいろいろ浮かんでくる。夜、また酒を飲む。

2026/03/23

雑記

 三月中旬、確定申告をすませた。毎年書類が変わる。杉並税務署からまっすぐ西に行くと善福寺川が見えてくる。杉並税務署周辺の道、どういうわけか方向感覚がおかしくなる。このあたりで川が大きく曲がる。その近く、鎌倉街道といわれる道も通っている。阿佐ヶ谷パールセンターは鎌倉街道の枝道だった。

 善福寺川の相生橋から東に向かい、梅里中央公園へ。蠟梅、まだ花が残っている。青い芽が出ていた。すこし南に向かい、五日市街道を歩く。路上から富士山は見えなかった。まだ見たことがない。

 別の日、野方に散歩した帰り道、高円寺のサンカクヤマの店頭で『祝祭都市 江戸東京 江戸東京博物館所蔵浮世絵版画コレクション』(東京都江戸東京博物館、二〇一七年)。横長の図録。百八十七頁。浮世絵関係の図録としてもかなりいいものかもしれない。

 同図録の最初に出てくる浮世絵が橋本貞秀の「東都両国ばし夏景色」。一八五九(安政六)年。江戸の川開きは旧暦五月二十八日から三ヶ月。貞秀の絵、橋の上にめちゃくちゃ人がいる。川に船がいっぱい描かれている。
 橋本貞秀は「空飛ぶ絵師」といわれた歌川貞秀の別名。一八〇七(文化四)年生まれ。二十歳ごろ、十返舎一九の「諸国万作豆」の挿絵などを手掛けている。歌川貞秀は五雲亭とか玉蘭斎とか、画名が複数あってややこしい。歌川何とかという名前も多すぎて混乱する。

 土曜日、午前十一時ごろ、西部古書会館。図録(物語絵巻、街道関係)が安かったので買い漁っていたらカゴ山盛りになる。
 ガレージで福原麟太郎著『生活の中にある教養』(河出新書、一九五五年)を見つける。鉛筆線引きあり。百円ならよし。古書展の棚を見るとき——単行本と文庫に目がいってしまい、新書を見落としがちになる。

 同書「文学について」に「生活が一番大切である。文学はそれを教え、その為の良き忠告を与えるかも知れないが、生活の次のものである」という箇所があった。

《文学というものは面白い楽しいものだ。然し、余計なもの、ひまな時や草疲れた時に読めば結構なものだ》

 それから『えすとりあ』季刊3号の水木しげる特集(えすとりあ同人、一九八二年)を買い、家に帰って読んでいたら、田村治芳「キャラメルひとついかが。悪魔くん」というエッセイがあった。田村さんは『彷書月刊』の編集長である。

 この日一番の収穫は文学展パンフレットの『阿部知二 抒情と行動 昭和の作家』(姫路文学館、一九九三年)。初日の午前中に行ってよかった。阿部知二(一九〇三〜七三)は一九三二年から六九年まで荻窪に住んでいた。

 久しぶりに古書会館でCDを買う。『Runt.The Ballad of Todd Rundgren』(ビクター、一九九九年)。紙ジャケ限定版(帯付)がおにぎり一個分くらいの値段だった。アルバム(セカンドアルバム)は一九七一年発売。CDは何度か復刻されているが、ジャケットが不穏すぎて、これまで買わずにいた。二十代のころ、トッド・ラングレンの初期のアルバムやユートピアのアルバムは入手難だった記憶がある。

 このアルバムを聴いた後、ダリル・ホールとトッド・ラングレンがセッションしている映像をユーチューブで観た。あらためて二人の歌唱力のすごさを思い知る。二人の声質は似ている気がする。
 ちなみに、トッド・ラングレンのファーストアルバムのタイトルも『Runt/ラント』。こちらは長年の愛聴盤。『Runt』の「We Gotta Get You a Woman」に「歩いたほうがいいよ」という歌詞がある。いい曲だ。 

2026/03/18

先ず、睡眠

 季節の変わり目だからか、夕方四、五時に起きる日が続いている。夜の散歩。馬橋公園、喫煙所の近くでギターの練習をしている若者がいる(姿は見えない)。

 池波正太郎著『男のリズム』(角川文庫、単行本は一九七六年)の「私の一日」に「人間、五十を越えると、先ず、睡眠である」という一文があった。

 このエッセイを書いたころの池波は五十代前半。

《いまの私の一日は、つまるところ、一日の終りの眠りを主体にして組み立てられているようだ》

 わたしも睡眠優先の生活を送っている。寝不足は健康の大敵である。
 以前は旅行のときなど、出発前まで仕事をして、ほとんど寝ずに家を出ることもあったが、そういうことはやめた。予定を組まず、調子がよければ行く、調子がよくなかったら日程を変える。郷里の三重に帰省するさい、午前中に起きたら途中下車しながらの旅、昼すぎまで寝てしまったら新幹線に乗る。仕事より趣味より睡眠である。

 池波正太郎は一九二三年一月生まれ。亡くなったのは一九九〇年五月。享年六十七。

 わたしは今年五十七歳になる。池波正太郎の没年まで十年。いつまで生きるわからない。春が来て夏が来て……一年が過ぎる。年をとる。マルエツ若宮店に向かう途中の妙正寺川沿いの桜は蕾だった。

 話は変わるが、日本の古本屋で『前川千帆名作展』(リッカー美術館、一九七七年)を注文した。五百円(+送料)。図録の古書価はわからないのだが、もっと高いかとおもっていた。リッカー美術館の入場券の半券(三百円)がはさまれていた。嬉しいぞ。同名作展は東海道の新居宿、土山宿の肉筆画も収録している。
「前川千帆・その資質と作品」(吉田漱)の解説にも東海道の話が出てくる。

《大正10年5月1日、中央美術協会の主宰で日本漫画会の東海道五十三次漫画紀行が計画され、岡本一平、池部釣、近藤浩一路、細木原青起、代田収一、寺(幸?)内純一、中西立頃、池田永治、小川治平、森島直三、服部亮英、山田みのる、在田稠、宍戸左行、水島爾保布、清水対岳坊、等と参加》

……いずれも名のある画家(漫画家)なのだが、彼らの多くは新聞社にいた。前川千帆も読売新聞や國民新聞などに所属していた。
 幸内(こううち)純一、図録は「寺内」となっている。誤植かな。「寺」と「幸」、似ているといえば似ている。

 大正時代、鉄道の普及、車道の整備が進んだ結果、東海道ブームのようなものがあったのかもしれない。岡本一平は東海道好きとしても有名だが、当時、日本漫画会の街道の絵は大きな話題になった。

 絵や漫画も時代の空気を帯びている。

2026/03/15

前川千帆

 三月十九日(木)に発売予定の本の雑誌編集部『この作家この10冊(3)』(本の雑誌社)が届く。わたしは「吉行淳之介の10冊」を書いた。吉行淳之介のエッセイ集が中心の選書である。最初はもうすこし小説とエッセイのバランスをとったほうがいいのではないかと考えた。しかし自分が読み返すのはほぼエッセイなので致し方ない。初出は『本の雑誌』二〇二〇年六月号。

 十四日(土)、昼すぎ、西部古書会館(木曜日から開催だった)。気になる図録があったのだが、状態がよくなかったので棚に戻した。しかし帰り道に「買わなかったら後悔しそう」と折り返し、『平木コレクションによる 前川千帆展』(千葉市美術館、二〇二一年)を買う。
 絵の好みは自分の軸みたいなものがない。巧拙もわからない。今は人物画より風景画に惹かれる。

 年譜を見ると、前川千帆(せんぱん)は一八八八(明治二十一)年、京都生まれ。一九六〇年没。戦前、「おてんばチャッピー」という漫画も描いている。田中冬二の『故園の歌』(アオイ書房、一九四〇年)の装丁、挿絵も前川千帆。アオイ書房は詩誌『新領土』を刊行していた出版社でもある。

 前川千帆は関西美術院で浅井忠、鹿子木孟郎に学んだ。浅井忠は、夏目漱石『三四郎』の深見画伯のモデルといわれる洋画家。津田青楓も浅井、鹿子木の教え子である。漱石の周辺、面白そうな画家がけっこういる。

 鹿子木孟郎は「津の停車場」などの作品で知られる洋画家でパノラマ地図の吉田初三郎の恩師でもある。鹿子木は三重県尋常中学校(現在の津高校)の図画の先生もしていたことがある。

 晩年、前川千帆は杉並区荻窪二丁目に住んでいたこともある。

 バラバラに買った図録が年譜の中でつながる。自分は絵が好きというより、図録の年譜が好きなのかもしれない。

 今週、荻窪を二度散策していた。古書ワルツの前から青梅街道に向かう道(ラーメン二郎荻窪店などがある)はドコモタワーがよく見える。高円寺は駅のホーム以外、ドコモタワーが見えるところが少ない。

 ビーンズ阿佐ケ谷のカルディ。気に入っていたさぬきシセイの乾麺(細めのうどん)は売ってなかった。
 乾麺でいえば、金トビの名古屋きしめん、みうら食品の日本そばと中華そばも常備している。いずれも多めに茹でて冷凍している。

2026/03/09

神遊び

 三月四日(水)、昼すぎ、三重に帰省した(二泊三日)。行き帰りはひかりに乗った。名古屋駅のエスカでスガキヤラーメン、金券ショップの自販機で帰りの新幹線の自由席の切符(八百円くらい安い)を買い、みどりの窓口で日付変更する。神戸(かんべ)公園(神戸城跡)から遊歩道(四季の道)を歩いて港屋珈琲でアイスコーヒー。遊歩道ができたのは一九八六年。約一キロ。わたしが上京したのは一九八九年なのだが、鈴鹿にいたころはこの道のことを知らなかった。
 生前の父は四季の道をよく散歩していたと母に聞いた。父が亡くなってもうすぐ十年になる。
 母は神戸城を本多城と呼ぶ。遊歩道の周辺は神社や寺が多い。伊勢街道の宿場町の神戸宿は寺社町でもあった。

 鈴鹿滞在中、司馬遼太郎の『この国のかたち』(文春文庫、全六巻)を再読。同エッセイの連載は『文藝春秋』一九八六年三月号から。このシリーズと橋本治著『貧乏は正しい!』(小学館文庫、全五巻)はキンドルに入れていて、旅行中によく読む。

《——日本人は、いつも思想はそとからくるものだとおもっている》

『この国〜』の冒頭の言葉である。友人の著作のどこかにあった言葉らしいのだが、司馬遼太郎は記憶がなく、正確な引用はできないと断っている。司馬遼太郎の史談は、あやふやな話から論を展開させたり、飛躍させたりする。
 この連載では「話は変わるが」という脱線も珍しくない。あることについて書こうとおもっていたが、別の話になってしまった——という回もよくある。
 話が二転三転するのは、随筆、随想の醍醐味である。

 神道は仏教が普及したことで、それ以前、それ以外の精神習俗に名前がつけらた——そんな話をわたしは『この国〜』の二巻で知った。新しい思想(宗教)の影響で昔の思想が体系化される。文学史にもそういうところがある。

 二巻は、砂金に関する話も興味深い。空海が唐に行ったさい、二十年くらい滞在できる砂金を持っていったが、二年くらいで切り上げ、その金で膨大な経典を入手し、持ち帰った。
 古来、日本人は金を“知”に変えることを好んだ。江戸期の蘭学、明治期の文明開化もそうだろう。
 それでは現代はどうか……と想像が膨らむ。

『この国〜』の二巻は私小説についても書いている。

《日本特有のものといわれる私小説は、私にとっていっそう気安い。
 この国の神々は、山川草木のなかにいる。ときに谷に降りたり、浜辺に出たりして、神遊びをするのである。
 志賀直哉はしばらく措くとして、瀧井孝作、尾崎一雄、外村繁、上林暁、川崎長太郎、木山捷平などの諸作品は、作者らしい人物が、多少のfをまじえつつ、神遊びをするのである。(中略)ふと思い出したが、神遊びのなかには、作者らしい小説家が、他の文壇人らしい人を相手に碁をうつだけの作品もある》

「GとF」と題した回の話。Gはゴッド、Fはフィクションの頭文字である。文中、大文字の「F」と小文字の「f」を使い分けている(読み返したが、わたしはそのちがいが理解できていない)。

「山川草木」は尾崎一雄がよく揮毫した言葉でもある。尾崎家は代々神官の家系(宗我神社)でもあった。父・尾崎八束は神宮皇學館(後の皇學館大学)の教授で三重県とも縁がある。

《ヨーロッパ思想の絶対は、むかしなりの日本の土着思想からみれば架空であり、勇を鼓していえばウソである》

 司馬遼太郎は「GとFの土壌から科学がおこった」と考えている。

2026/03/03

一九八九年

『ユリイカ』三月号、特集「眠い」に「寝たり起きたり 眠気と読むこと」というエッセイを書いた。雑誌に原稿用紙十五枚(六千字)の文章を書くのは久しぶり、というか、記憶にない。睡眠に関する半自叙伝みたいな話になった。

 それから『東京人』四月号、特集「私の東京物語」に「中央線、平成のはじまり、『貧乏は正しい!』」というエッセイを書いた。自分の上京話と橋本治の話である。

 二〇二六年になってまだ二ヶ月ちょっと。国際情勢が激動している。なんとなく一九八九年のことを思い出した。『東京人』に上京エッセイを書いたことも関係している。昭和から平成になって、天安門事件、ベルリンの壁崩壊、冷戦終結……。
 上京して大学に入ってライターになって高円寺に引っ越した年でもある。
 ライターの仕事をはじめたのは八九年六月。同じ仕事場に出入りしていたすこし年上の先輩は中国から日本に亡命してきた学生の取材に奔走していた。イランのホメイニ師が亡くなり、アリー・ハメネイ大統領(当時五十歳)が最高指導者になったのもほぼ同じころだ。
 ハメネイ師の最高指導者としての期間(三十六年八ヶ月)はわたしのライター歴とほぼ重なる。

 一世代三十年。ライター生活三十年目は二〇一九年——五十歳になり、だんだんニュースにピントが合わなくなってきた(正確には、もともとピントがズレていたが、さらにぼやけてきた)。橋本治が亡くなったのもこの年だった。『中年の本棚』(紀伊國屋書店)の連載の最終回のしめきりが五十歳の誕生日で橋本治のことを書いた。

 二月末、東横線の白楽駅を散歩した。暖かい日だった。六角橋商店街を抜けたあたりから、コンパスのみで歩く。坂道が多くて楽しい。地形に沿ってひたすら歩く。古そうな道を歩いていくとやがて大きな通りにたどり着く。

 途中、神之木公園で河津桜を見る。満開だった。

2026/02/24

春すぎる

 三連休、高円寺徒歩圏内で過ごした。梅里公園に二度行った。白と薄紅の「思いのまま」がきれいに咲いていた。公園の入口近くに古金襴という梅があった。梅の品種、すごい数だ。梅里公園だけで十八種(確認済み。まだあるかも)。あと梅の系統の言葉に「野梅(やばい)系」「緋梅(ひばい)系」「豊後(ぶんご)系」などがある。さらに「系」の他に「性」もあるが、さっぱりわからない。

 高円寺図書館で遠山義樹著『歴史の道 「中山道」 往復アルチュウ(歩く中毒)の旅』(東京図書出版会、二〇〇八年)を借りる。歩く中毒で「アルチュウ」。わたしもそうなりつつある。毎日、散歩ばかりしている。五十代以降、酒量は減った。晴れの日一万歩(雨の日五千歩)の日課を実行するようになって、酒を飲まなくてもよく眠れるようになった。夜、揚げ物を食べるときにビールが飲みたくなる。

 土曜日、昼、西部古書会館。会館内の百五十円コーナーで久下晴康編『浜松中納言物語』(桜楓社、一九八八年)を買う。鉛筆の書込み有。『更級日記』の菅原孝標女が作者という説(諸説あり)を知り、気になっていた。インターネットで古書価を調べたら、あまりにも値段が高くてひるんだ。安く買えてよかった。『浜松中納言物語』は夢と転生がテーマの作品。平安後期の作。平安から鎌倉、転生ブームだったのか。
 源実朝にもそういう話があった。夢にぞありける。

 日曜、阿佐ケ谷散歩。馬橋稲荷神社から「鎌倉のみち」を通る。庭に梅の木のある家を何軒か見かける。夜、家の一番大きな鍋でおでん。おでんのだいこん、うまい。

 月曜祝日。東高円寺散歩。駅の近くにマルエツ(スーパー)がオープンの予定。天祖神社に寄り、桃園川緑道の梅を見る。帰り道、氷川神社近くの古着屋の前で二十歳くらいの若者二人組が「春すぎる〜」と叫んでいた。

 この日、都心の最高気温二十三度。山梨県は夏日(二十五度)のところもあった。

(追記)青梅市も夏日だった。二月に都内の夏日は観測史上初とのこと。 

2026/02/21

少数者の問題

 梅の話ばかり書いている気がするが、一昨日、五日市街道経由で梅里中央公園に行き、蠟梅(ロウバイ)を見てきた。そろそろ花が散りそう。
 二十五年くらい前に住んでいたアパートの近くのお寺に寄る。梅とおもっていた木が、寒緋桜(カンヒザクラ)と知る。

 散歩の途中、喫茶店に寄ったときに読む用の本をいつもカバンに入れている。座談集や対談集はすこしずつ読み継ぐのにちょうどいい。

 数日前から外出先で梅棹忠夫編著『日本の未来へ 司馬遼太郎との対話』(NHK出版、二〇〇〇年)を再読している。前に読んだのは十年以上前か。どこかで文庫化していないかとおもい、紀伊國屋書店のサイトで検索したら、二〇二〇年に臨川書店が新装版を刊行していた。六年も気づかないとは……。元版の『日本の未来へ』はB6判で四六判の単行本よりすこし小さい(新書よりすこし大きい)。B6判の本はいい。

『日本の未来へ 司馬遼太郎との対話』の第II部「民族と国家、そして文明」の梅棹忠夫の発言、以前読んだときの付箋が残っている。

《梅棹 差別、少数者の問題は、違う文化、つまり自分が生まれ育った環境や風俗習慣、物の考え方と違うやつは全部悪いと思う。おかしいと思う。異端なるものと思う。基本的にはそういうことなんです。文化というのは要するに、「全部、自分が正しくて、ほかのやつは全部いかん」ということを教えるんです》

 あらゆる文化は差別を孕んでいる。宗教や思想もそうかもしれない。

 多くの移民を受け入れた国々で排外主義が巻き起こっている。
 先進国の道徳からすれば、外国人を差別するのは悪である。いっぽう自国あるいは生まれ育った地域の風俗、風習を守りたいという人がいる。「自分が正しくて、ほかのやつは全部いかん」という考えは文化の根幹にある。ゆえに、摩擦が生じる。

 梅棹氏の発言を受け、司馬遼太郎はこんな話をしている。

《司馬 梅棹さんのところの地域同人雑誌である『千里眼』にも、どなたか書いていましたね。日本人の顔の洗い方は特殊ですね。両手を上下に動かす。中国人は顔を動かす。で、他の連中は何々を動かす。青春時代に仲良くなった東南アジア系の人が日本人から見て、非常に下品な顔の洗い方をした。ところが、あとになってその人ともう一度話をしたところ、逆に「あなたを品のいい日本人だと思っていたが、あの洗い方は嫌だった」と(笑)。つまり、顔の洗い方一つで目の前が真っ暗になるほど相手を否定したくなる》

 われわれの文化は正しい。否、世界に合わせてアップデートすべきだ。ローカル志向か、グローバル志向か。わたしはどっちつかずである。

 一人の人間の中に「保守(仮)」の部分と「リベラル(仮)」の部分が混在している。この二つの間のゆらぎのようなものがなくなると思考が硬直化する。

 そうなる前に隠居したい。

2026/02/18

ノーサイド

 急に暖かくなって睡眠時間がズレる。ちょっと過睡眠気味だ。心身その他の修復期なのだろう。

 日曜、夕方四時すぎ。西部古書会館。初日に行きそびれ、図書館で借りた寺田寅彦関係の本を読み終わってなかったので、今週はパスしようかなとおもったが、行った。
 家を出たら体が勝手に古書会館のほうに向かっていた。しょうがない。

 ガレージのところで文庫を見ていたら、『ノーサイド』(文藝春秋)のバックナンバーが積まれている一角があった。「ひょっとしたら」とおもい、足早に近づく。『ノーサイド』の「特集 山本夏彦の『ズバリひとことで言う』」(一九九二年一月号)があった。他にも同誌の老人関係の特集を何冊か買う。ぜんぶ百円。一九九〇年代前半の『ノーサイド』、今読んでも面白い。

『ノーサイド』の山本夏彦特集。著名人の囲み記事に内海好江(漫才師)の「十二年の片思い」というインタビューがあった。好江師匠は新潮の写真コラムのファンだった。

《私達芸人が大切にするのは、間です。その意味でも、先生の文章は勉強になります》

 内海好江は一九三六年二月二十三日生まれ(一九九七年十月六日没)。

 わたしが山本夏彦に会ったのは一九九五年五月。三十年以上前か。山本夏彦はまもなく八十歳、わたしは二十五歳だった。『室内』編集部に手紙を出して、辻潤の話などを聞いた。わたしが斎藤緑雨と同郷(三重県鈴鹿市)という話をしたら、喜んでいた。
 郷里にいたころ、緑雨のことは知らなかった。山本夏彦の本で知った。
 帰りぎわ、自分の本を若い人が読んでくれるのはありがたいといったのも印象に残っている。

 西部古書会館の後、馬橋公園を散歩した。公園の西端、喫煙所のちょっと南に蠟梅の木を見つける。馬橋公園の蠟梅、元気がない感じだった。

2026/02/14

思いのまま

 一日おきくらいのペースで環七沿いの梅里公園に行き、梅を見ている。梅の種類がたくさんあることを知った。まだ区別がつかない。昨晩、近所の飲み屋でそんな話をしていたら「おじいさんみたい」といわれる。
 土曜日、高円寺図書館、すぎはち公園に行く。図書館の南側の銅像の近くに蠟梅が一本あった。黄色の花。そのあと梅里公園と蚕糸の森公園。梅里公園は思いのままという梅が咲き始めていた。白、淡紅など、いろいろな色の花が咲く梅らしい。蚕糸の森公園は池の水が復活していた。帰り道、天祖神社に寄る。

 福原麟太郎著『人間天國』(文藝春秋新社、一九六一年)の「學問のすすめ」を読む。

《知識は生活によって磨かれ、生活は知識によって守られなければならない》

 知識を得る。生活の中で知識をどう使うか。知識があっても使いこなせないことはよくある。
 生活の知恵は自分を守るためにある。

 福原麟太郎の「學問のすすめ」を読んでいて不安をおぼえたのは次の箇所だ。

《たとえば私は物理学者に質問するのだが、あの人たちは大量殺人兵器を作る目的で物理学の研究を専ら進めてきたわけではなかったのだろうと思う。真理の探究ということを追っかけ追っかけしている間に、そこへ来てしまったのであろうと思う。学問は自律的に進む。自然の勢というものがあるのだ》

 AIが進化すれば、人知を超える速度で兵器が開発される可能性もある。
 アメリカがベネズエラのマドゥロ大統領を拘束時に使用した新兵器(電磁波で混乱させる兵器)もそうだろう。

 新兵器を防ぐシステムが開発されたとしても、それを上回る兵器が作られ、さらにそれを防ぐための……。

 想像するだけで怖い。

(追記)すぎはち公園の蠟梅は二本だった。後日気づいた。

2026/02/10

蠟梅

 日曜日、衆議院選挙は雪。前日、梅里中央公園で蠟梅(ろうばい)を見る。黄色の花(薄い黄、濃い黄)でロウというかプラスチックみたいな花だった。香りがすごくよかった。中国原産の落葉低木で江戸前期に日本に入ってきた。ロウバイ科ロウバイ属に分類される。ちなみに梅はバラ科サクラ属である。

 選挙の開票速報を見ながら、いろいろおもうところはあった。選挙期間中、心ここにあらずといった表情の中道改革連合の野田佳彦共同代表の姿が忘れられない。

 選挙の日にはグッドルーザーとは何かと考える。そのたび、ジョン・マケイン(共和党)のことを思い出す。二〇〇八年のアメリカ大統領選敗退後の演説は素晴らしかった。
 わたしはジョン・マケインの敗北宣言が好きすぎてアニメ『負けヒロインが多すぎる!』を全話視聴した。

 今回の選挙は中国問題および安全保障は隠れた(隠れていなかったが)争点だった。日中の良好な関係を望むが、中国の度重なる恫喝に屈するのは拒絶したい。
 中国の圧力が激しくなればなるほど、国防や日米同盟の意義が高まる。

 沖縄の選挙結果はその象徴だろう。

 本来、日中関係は日米関係よりずっとつながりが深い。中国文化の恩恵はとてつもなく大きい。これ以上、嫌中感情が強まってほしくない。
 一個人の中にも様々な矛盾した感情がある。

2026/02/07

絵巻マニア

 渡辺京二著『さらば、政治よ 旅の仲間へ』(晶文社、二〇一六年)所収の「二つに割かれる日本人」を再読する。

《長い間、人間は天下国家に理想を求めてきましたが、これもうまくいかなかった。人間が理想社会を作ろうとすると、どうしてもその邪魔になる奴は殺せ、収容所に入れろ、ということになるからです》

《政治とはせいぜい人々の利害を調整して、一番害が少ないように妥協するものです。それ以上求めるのは間違っているんですよ》

 このインタビューを読んだのは四十代半ばだが、二十代のころから、わたしもなんとなく政治は、妥協と考えていた。
 みんながすこしずつ損を引き受ける。不具合をすこしずつ整備する。一気にすべての問題を解決できない。

 国政に関しては安全保障とセーフティーネットを重視している。小選挙区は保守系、比例はリベラル系、またはその逆——といった感じで一つの政党に肩入れしないよう心がけている。
 春夏の高校野球、自分の出身県の高校が敗退した後、気になる選手がいる高校を応援する。勝っても負けてもとくになんともおもわない。そういう感覚に近い。

 土曜日、西部古書会館。『絵巻マニア列伝 六本木開館10周年記念展』(サントリー美術館、二〇一七年)、伊藤榮洪著『ぶらり雑司が谷文学散歩』(豊島区、二〇一〇年)など。物語絵巻、古地図関係の図録は活字が頭に入ってこないときでも読める。最近は、絵巻に描かれる海や川の絵が好きになった。淡い藍色のような水の色がいい。『絵巻マニア列伝』では「誉田宗廟縁起(こんだそうびょうえんぎ)」の絵巻がよかった。室町時代の絵巻物。誉田八幡宮がどこにあるのかも知らなかった。大阪府羽曳野市。もより駅は近鉄南大阪線の古市駅。近くに東高野街道も通っている。わたしの郷里の三重県鈴鹿市のもより駅から三時間くらい。日帰りで行けなくもない。

 明日の選挙の投票先、比例をどうするかまだ迷っている。

2026/02/03

雑記

 日曜、セシオン杉並から梅里公園。セシオン杉並、期日前投票がはじまっていた(わたしはまだ投票先を決めていない)。

 自分が住んでいる町の選挙区の候補者の経歴を見る。比例の投票先を絞り込む。事前に考えるのはそのくらい。杉並区は選挙区が二つ(東京八区、二十七区)に分かれていて、高円寺界隈はその境なのでけっこうまぎらわしい。

 新聞各紙は自民党の圧勝と予想している。たぶんそうなる。自民党は大勝したあと次の選挙で負ける傾向がある。議席を増やしそうなのはチームみらいか。すでに中道改革連合は選挙後の分裂を心配する声がある。おそらく分裂する。

 前にセシオン杉並の三階の窓から富士山が見えるかどうか——という話を書いたが、見えないかもしれない。富士山っぽい山の影が見えたのは勘違いだったか。わからない。田代博著『「富士見」の謎』(祥伝社新書、二〇一一年)の「第二章 都内路上富士」に東京メトロの新高円寺駅もよりの五日市街道(梅里二丁目、松ノ木三丁目あたり)から富士山が見えるとあったが、何度か歩いたが、確認できていない。

 梅里公園の梅、烈公梅、酔心梅、未開紅、鹿児島梅、月影枝垂、織姫、白加賀、紅千鳥、藤牡丹枝垂、千代鶴枝垂、見驚、南高、米良、まだ咲いてなかったが、思いのままなどがある。意外と白い花が咲く梅があることを五十代半ばすぎて知る。高円寺に住んで三十数年になるが、梅の季節に梅里公園を歩いたことがなかった。

(追記) ほかにも緑萼枝垂、紅筆という梅の木があった。

2026/01/27

とんでもない

 高円寺駅の南方面を散歩するとき、高円寺中央公園から高円寺図書館(すぎはち公園)、青梅街道を渡ってセシオン杉並、梅里公園、そこから環七を渡って蚕糸の森公園——というコースをよく通る。
 梅里公園は梅の花が咲きはじめている。先日、紅冬至を見たが、酔心梅という品種もあることを知った。まだ咲いてなかったが「思いのまま」という名前の梅の木も何本かあった。梅の花の見分けがつかない。

 蚕糸の森公園から東京メトロの中野富士見町駅は意外と近い。今年に入って中野富士見町も二回散歩している。駅の近くにスーパーのオオゼキがある。ここでコーミソースが買えることを知った。おにぎりせんべいの銀しゃり(塩)が売っていた。おにぎりせんべいは塩派である。おにぎりせんべいのマスヤは三重県の会社。子どものころ、ピケ8という洋風せんべいが好きだった。今も郷里の三重に帰省すると買って帰る。

 スーパーのオオゼキは東高円寺駅のニコニコロードにもあったが、二年前に閉店した。一時期、東高円寺のオオゼキと天祖神社を回るのが定番の散歩コースだった。

 一月二十八日、尾崎一雄の幻の新聞小説『とんでもない』が春陽堂書店から刊行(企画・編集 田中敦子さん)。わたしは解説を書きました。
 一九六一年六月、尾崎士郎が入院で産経新聞の「新・人生劇場」の連載が中断——急遽、その代打として尾崎一雄がこの小説を書くことになった。単行本・全集未収録の作品である。

『父のおじさん 作家・尾崎一雄と父の不思議な関係』(里文出版、二〇二一年)の田中敦子さんから『とんでもない』の話を教えてもらい、わたしはカフェ「昔日の客」の関口直人さんを紹介した。田中さん、関口さんはそれぞれ父が尾崎一雄の小説のモデルになっている。『とんでもない』にも戦災孤児だった田中さんの父も登場する。

『とんでもない』の冒頭、九州出身の阿久津啓作という文学青年が東京から歩いて小田原にやってくる。

 尾崎一雄作品によく出てくる仕事が長続きしない文学青年が主人公の長篇である。尾崎一雄の場合、長篇小説そのものが珍しい。『とんでもない』は過去に発表した短篇の逸話があちこちに出てくる。「冬眠居」という章もある。
「冬眠居」の章から作者の分身の多木太一が登場する。

《齢は五十五で、勤め人なら丁度定年というところだが、小説家には定年がないから、退職金も年金もない。やむを得ず無い知恵をしぼって、ぽつりぽつりと仕事をして、どうやら妻子四人を養っているわけだが、この人物は、知恵がないと同時に運もないと見えて、終戦の前年重病にかかり、長年の東京住まいを切り上げ、郷里なるこの下曽我村に引込んだ》

 そのあと多木は「暑さ寒さに大変弱い」「冬になるとまるで元気がなくなるのは、蛇や蛙と同様である」といった記述もある。

 わたしは『新編 閑な老人』(中公文庫、二〇二二年)を編集するさい、「歩きたい」という短篇を軸にした。
 病床の尾崎一雄の願いは自由に歩き回れるようになることだった。『とんでもない』は歩く話がよく出てくる。

 下曽我は梅の名所で尾崎一雄は梅干し作りが趣味だった。
 わたしは長年漬物が苦手だったのだが、四十歳すぎてから梅干を食べられるようになった。

2026/01/19

冬の底

 一月十一日、十二日、十三日が今年の「冬の底」かもしれない——と書いたばかりで恐縮だが、十四日(水)と十五日(木)がもっと底。ここ数年で記憶にないくらいの底。
 季節の変わり目というか、たぶん寒暖差に弱いのだろう。

 十六日(金)、夕方四時すぎに起き、夕焼けを見ながら馬橋公園から阿佐ヶ谷神明宮に向かう斜めの道を歩き、そのまま阿佐ケ谷のアーケードの商店街を散策しているうちに、調子の回復を実感した。好きな道を歩くのは精神衛生によい。

 十七日(土)、昼すぎ、西部古書会館。大均一祭(初日一冊二百円、二日目一冊百円)、奥野健男著『文学における原風景 原っぱ・洞窟の幻』(集英社、一九七二年)、『屋根の花 大佛次郎随筆集』(六興出版、一九八〇年)、佐々木節=文、平島格=写真『日本の街道を旅する』(学研、二〇一一年)など。『文学における原風景 原っぱ・洞窟の幻』は、増補版も刊行されているが、どちらも古書価が高い(「日本の古本屋」で五千円くらい)。

 二〇二三年十二月二十二日のブログ(「暮らしの型」)で「奥野健男著『文学における原風景 原っぱ・洞窟の幻想』(集英社、一九七二年)、家にあるはずなのだが、見当たらない」と書いている。

 この日、西部古書会館に行く途中の道でなんとなく『文学における原風景』がありそうな予感がした。会場を一回りして会計をしようと後ろを振り返った棚に『文学における原風景』が見えた。心の中で「よし」と叫ぶ。

 同書の「原っぱ・隅っこ・洞窟の幻想 都市の中の原風景」では、東京山の手に育った著者が「“故郷”とか“ふるさと”とかいう言葉を聞くたびに、奇妙な異和感といらだちをおぼえたものだ」と述べている。

《それはさておき、家のことを別にすれば、幼少年期の思い出として、吸い込まれるようなかなしさ、なつかしさで、ぼくの心を揺するのは“原っぱ”である。“原っぱ”こそ、ぼくの“原風景”であり、ぼくの故郷の断片である》

 わたしの郷里は三重県鈴鹿市の工場の町だったが、幼少年期の一九七〇年代——近所にドカンのある空き地が残っていた。
 ただし、なつかしさをおぼえるのは生まれ育った町より、母方の祖母が暮らしていた浜島(現・志摩市)の海である。近鉄の鵜方駅からバスで二、三十分。子どものころ、英虞湾の矢取島(歩いていける)のあたりで釣りをした。

2026/01/13

低迷中

 寒さに弱いが、冬の晴れた日の澄んだ空気が心地よい。
 一月二日に横浜から高円寺に戻って以来、十日以上、電車に乗っていない。すこし前に永福町まで散歩し、「ふくにわ」で富士山を見て、バスで高円寺に帰った。

 毎年一月中旬から二月の間の数日——「冬の底」と呼んでいる気力体力の低迷期がある(一月二十日の大寒のあたりが多い)。昨年は「一月二十六日、二十七日、二十八日」がそうだった。一月十日前後の年もある。
 今年は——今日一月十一日、十二日、十三日がそうかもしれない。まだわからない。急に生活リズムが崩れ、一日の大半、頭が回らなくなる。今のところ、体の怠さはない。

 夜になり、調子が上向いた気がしたので佐藤春夫の『白雲去来』『續 白雲去来』(筑摩書房、一九五六年)を再読する。新書よりやや大きめのサイズの本。新聞連載をまとめた時評風の随筆である。

『續 白雲去来』に「散歩の場所を求める」という一篇がある。
 西洋哲学、ドイツ文学、古典語学、そして音楽家のケーベル博士(ラファエル・フォン・ケーベル)の話。
 ケーベル博士は、東京にはいい散歩の場所がないと嘆いていた。赤坂離宮付近は例外だった。
 佐藤春夫はケーベル博士の言葉を受け、今日の東京の町は「人間の散歩はおろか必要な歩行さえむつかしい場所」となったという。
「今日の東京」は七十年前。佐藤春夫、六十三歳ごろ。

《僕のやうなそそつかしい、うつかりしたのはとても東京で散歩などは思ひも及ばない。機械類の横行せぬ裏道を行けば、犬の糞や小便の悪臭のために僕のやうな野人も閉口するありさまで、つひに東京の散歩はあきらめるほかはないと思ひ知る》

 佐藤春夫の随筆——昔の話と今の話の按配がいい。
 一九五〇年代半ばの東京、当然のことながら生活は不便だったし、道路事情もわるい。今のほうが歩道も整備されていて、歩きやすい。

『續 白雲去来』の「何のために書くか」は久々に再読して新たな感銘を受けた。

《一般の世人と多少すべての感じ方考へ方に相違ある自分は、いつも通俗的な考へ方の世人よりは自分の思考方法もしくは思想そのものを世人よりも正しいと信じ、それを世人に承認させるために書いて、自分流の考へ方感じ方をする種族を一人でも多く世にはびこらせて置く仕事をしてゐるのだと考へて自分だけはそれで納得した》

《同じ考へ方、同じ感じ方、すなはち同じ生き方の人間を世界に繁栄させて新しい希望を世界につなぐわたくしである》

 わたしは佐藤春夫のように「自分の思考方法もしくは思想そのものを世人よりも正しい」とはおもっていない。
 いっぽう古本好きや不規則な生活をする人や意味もなくふらふら歩く人が増えたら嬉しい。自分と似た種族を増やしたいのかもしれない。繁栄しそうな気配はあまりしない。

2026/01/11

冬の散歩

 風が冷たい。散歩で愛用している通気性のよいウォーキングシューズ——寒い日は厳しい。足の裏が冷える。手足の冷えはなかなか改善されない。年明けから左膝に軽い痛みあり。

 一月六日(火)、夕方、昨年借りていた本を返却するため、高円寺図書館。二階のテラスで十五分ほど日向ぼっこ。そのあと青梅街道近くのセシオン杉並に行く。梅里公園で紅冬至の花を見る。真冬に咲くこの梅の名前も最近知った。

 先月、何度かセシオン杉並の三階の西側の窓から富士山が見えるかどうか確かめに行ったのだが、薄い雲がかかっていて見えなかった。この日の夕方、すこし雲がかかっていたがぼんやり山の形が見えた。冬の富士山は雪で白くなっているので昼間はすこしでも雲がかかっていると見えないことが多い。

 春の桜、秋の紅葉みたいな感覚で冬の富士山が見たい。季節に関係なく、高円寺界隈で東京スカイツリーと代々木のドコモタワー、新宿の歌舞伎町タワーが見える場所を探している。視界を広げる訓練も兼ねている。

 梅里公園を歩いて環七の歩道橋を渡り、蚕糸の森公園を散策する。

 一月十日(土)、起きたら夕方四時五十分(寝たのは同じ日の朝六時)。ひさしぶりに十時間以上の睡眠。よく寝たおかげで左膝の痛みが治った。
 午後五時すぎ、今年初の西部古書会館。『江戸時代の旅と街道』(上田市立博物館、一九九一年)、『企画展示 描かれた江戸』(国立歴史民俗博物館、一九九一年)、『神戸市立博物館館蔵名品図録』(神戸市スポーツ教育公社、一九九一年)、『神戸市立博物館総合案内』(神戸市立博物館、一九八八年)。『源平の美学 平家物語の時代』(サントリー美術館、二〇〇二年)、『特別展示 お伽草子絵』(和泉市久保惣記念美術館、一九八七年)など。
 神戸市立博物館の図録は古地図関係の資料として買った。物語絵巻の図録の収集は今年も続くとおもう。

 昨年暮れに西部古書会館で買った本や図録も積読状態のままだ。積読は自分が知りたいことの道標になる。
 散歩も読書も継続することが面白い。月日を経ることで見えてくるものがある。自分の興味もすこしずつ変わる。

2026/01/04

新年

 年末年始は横浜で過ごした。菊名から妙蓮寺あたりの旧綱島街道を歩いた。家を出る前に地図を見て、現地ではオイルコンパスのみで散策したのだが、坂道だらけで楽しかった。途中、富士塚という地名があったが富士山は見えなかった。道に迷いながら子安、新子安あたりまで歩いた。知らない町を歩いていると「生きているうちにまたここに来るのかな」という気分になる。

 大晦日は紅白、ぐるナイ年越しおもしろ荘!を見る。ゆっくりテレビを見るのは高校野球の季節か正月くらいになっている。たまにテレビを見ると、コマーシャルに出ている人がわからない。生きている人か死んでいる人か、わからなくなってきている。

 年明け、中村光夫著『知人多逝 秋の断想』(筑摩書房、一九八六年)を再読。「若い散歩者たち」は、何年か前から鎌倉に若い人が大挙して来るようになったという話から、こんな感想を述べている。

《彼らは、いわゆる「名所」に惹かれてきているのではなさそうです。(中略)では彼らは何に惹かれてくるのか、というとそれは低い丘の形で街の中心まで食いこんだ自然と、戦災を免れたために比較的古い建物の残った街との調和がもたらす、或る落着きと思われます》

 東京は一年も経たないうちに町の様子が変わってしまう。

《こういう場所に生れ、育った青年たちの心には、二十歳にならなくとも、故郷を失った老人に似た空虚感がある筈です》

『知人多逝』には「日記から(昭和四十九年)」も収録されている。この日記が気になって再読した。
 この夏から中村光夫はジョギングをはじめた。中村光夫は一九一一年二月生まれなので、六十三歳。ジョギングといっても「歩くのと駈けるのとの間ぐらいなスピード」だったらしい。

《六十をすぎてから、何故こんなことを始めたかというと、かなり身体の衰えを痛感したからです》

《思いがけない拾いものは、この単純な肉体運動の精神的効果でした》

 年をとり、予想外の寝起きの不快感をおぼえるようになった。それが十分くらい走ると解消されると……。

 わたしはジョギングはしていないが、一日二時間くらい散歩している。遊歩道や公園など、車や自転車が通らない道はすこし早足で歩く。体が温まってくると気分もよくなる。
 若いころはこんなことをしなくても仕事や趣味に没頭できたのだが、年をとると何をするにも体調管理が避けられない。

 平穏無事。むずかしい。