上京して三十七年、一九八九年の秋に中央線沿線の高円寺に引っ越してからは毎日何らかの古本を買ったり読んだりする生活を送ってきた。
古本屋に行っても、目当ての本が買えるわけではない。どちらかといえば、目当てじゃない本を買ってしまうことが多い。その日何を読むか明日何を読むか、自分でもわからない。つまり誰にもわからない。偶然に身をまかせて三十数年という歳月を過ごしてきた。
今、街道や歌枕に関する本ばかり読んでいるが、二十代三十代の自分からすれば、信じられないとおもう。その時々、何かにのめりこむ。将棋の本やスポーツの本を集めていた時期もあったし、アメリカのコラム集を読みふけっていた時期もある。
将棋の本は買わなくなったが、今でも気分転換に詰将棋をとく習慣は続いている。
土曜日、起きたら夕方。西部古書会館に行けなかった。先週買った本がほぼ積読のまま(買いすぎた)だったので、今回はパスしようとおもっていた。
午後七時すぎ、小雨。中野散歩。四季の森公園を通り、ブックファースト中野店に行く。途中、なかの東北絆まつりが開催していた。公園を通りかかったとき、青森の田子(たっこ)神楽を見ることができた。囃子がリズミカルで腰を低くした姿勢でなめらかに舞う。屋台もいろいろ出ていた。
先週、西部古書会館で朝日新聞社著『三重県ポケット郷土史』(三重出版商事、一九六五年)を買った。カバーなしの裸本(ただしカバーがあったのかはどうか未確認)。裸本だけど、表紙の題字は田中覚三重県知事が書いている。目次に「壬申の乱」「万葉と三重」などがあり、読みたくなった。
郷里(三重県鈴鹿市)に帰省すると、神戸公園(神戸城跡)のあたりから、近鉄鈴鹿線の南側を通る旧街道っぽい道をよく散歩する。途中、三日市駅から平田町駅にかけて、光明山如来寺、常超院、寿福院、轉法輪山攝取院、飯野神社などの寺社がある。いちおう「若松道」という名前があるらしい。街道に興味を持つまで知らなかった。伊勢参宮街道の神戸宿と東海道の亀山宿をつなぐ脇街道だったのではないか。そうおもっていた。
『三重県ポケット郷土史』の「古代の交通路」にこんな一節があった。
《都が飛鳥から奈良に移るころは北の木津川ぞいの道が便利になり新家駅 新居村が設けられる。さらに八世紀末、平安京になると江州経由の「アスハ道」が開かれ東海道はいまのように鈴鹿峠を越えるようになった》
「アスハ道」は「阿須波道」と書く。平安時代以降、近江国と伊勢国を結ぶ東海道の経路である。それ以前の飛鳥、奈良時代は伊賀国から加太峠を越える加太越え東海道(加太越え奈良道、大和街道)が官道だった。
同項は「アスハ道」の話のあと——。
《当時の東海道はおそらく鈴鹿川南岸を通り、国府から神戸町付近で北岸の国分寺近くをへて三重郡の方に出たと思われる》
わたしは古代の東海道はもっと北の山裾を通っていたのではないかと考えていた。街道は川の氾濫を避ける意味でも平地より高いところに道を作ることが多いからだ。
時代によって道の経路は変わる。
『三重県ポケット郷土史』の説を考慮すると、奈良から伊勢に向かうさい、古代三関の鈴鹿関を通り、伊勢の国府を経て、(現在の)近鉄鈴鹿線の平田町駅のほうに向かったとおもわれる。平田町のあたりから神戸城跡のある近鉄の鈴鹿市駅方面に出て、そこから伊勢街道を北上する。鉄道は古代の道と重なっている。東海道と伊勢街道の分岐は日永の追分(三重県四日市市追分)が有名だが、飛鳥・奈良時代の追分は鈴鹿市の神戸付近だったことになる。
この神戸を通る鈴鹿川南岸ルートは海に出る近道でもある。伊勢若松もしくは白子まで行けば、船で伊勢湾を渡って知多半島の常滑あたりに行ける。陸路だとかなり遠回りになる。古代の東海道の鈴鹿川南岸ルートは飛鳥・奈良時代の東国への渡海にも適していた。
この道は徳川家康の「神君伊賀越え」のルートとけっこう重なる。家康が船に乗ったのは白子か伊勢若松か諸説(わたしは白子湊で船を手配し、伊勢若松から三河に帰った説が有力と考えている)あるのだが、いずれにせよ加太越えの経路から伊勢湾に向かった。
わたしの郷里の散歩道は古代の東海道だったかもしれない。そうとしかおもえない。
郷里に帰ると三重県伊賀市の「伊賀越」のさしみたまり(三百ミリリットル)を買う。とろみがあってうまい。味噌とみりんは三河のものを愛用している。わたしの食生活は東海の万葉文化圏に属している。