2007/06/08

青春の反逆

 松尾邦之助の『青春の反逆』(春陽堂書店、一九五八年)がどうしても読みたくなったので、インターネットで検索したら、「古書ことば」にあった。数年前、古書現世の向井さんに「古書ことば」のYさんを紹介してもらって、たちまち魅了された。なにかを一所懸命伝えようとするのだけど、その説明が細かすぎて、わけがわからない。でもそこがおもしろい。いったい彼にはこの世界がどんなふうに見えているのかとても気になる。
「古書ことば 売れない本の紹介」の中にもそのおもしろさがちらほら出てくる。 話のまくらが絶妙に不条理でついひきこまれてしまう。とぼけているようで深い。

 注文した翌日『青春の反逆』が届いた。この本の中で松尾邦之助の半世紀で「哲人アン・リネル——思想の新地平」という一文がおさめられている。

《わたしは、アン・リネルを読み、アナーキストは、何はさて、モラリストであり、その後読んだスティルナアの『唯一者とその所有』にしても、辻潤のいうように、すべてこれらが最高の倫理学書であることを知るようになった。一般の日本人には、こうしたモーラルの感覚があまりに低く、まず、ここから出発しなくては、すべてがダメの骨頂だと思った》

 学生時代、辻潤訳の『唯一者とその所有』(自我経)を読んだのだけど、当時はほとんど理解できなかった。思想や哲学といったものは、どうも自分には向いていないのではないかとおもっていたのだが、最近また気になりだしている。ひょっとしたら、今ならすこしはわかるのではないか。あとなぜ辻潤がスティルナーにあれほどいれこんだのか、そういう気持で読んだら、この本はきっとおもしろく読めるのではないか。
 そうおもいつつ『自我経』(改造社)をひらいてみたが、数頁で挫折する。

 アン・リネルへの関心も、思想というより、「不必要な必要物」という、なんかちょっとへんな言葉にひっかかりをおぼえたにすぎない。ずっと心にひっかかったまま、ひっかかりっぱなしだ。

 個人主義という思想は、好きな人はものすごく過大評価するし、それをあまり好まない人は、ものすごく過小評価する。
 松尾邦之助も、ある講演でひたすら個人主義の倫理について語りつづけたあと、「でも所詮、個人主義はエゴイズムでしょ」みたいなことをいわれて、ガッカリしたというようなことを書いていた。
 個人主義について論じることは無駄ではないとおもうが、不毛な議論におわることが多い。
 自分の生きたいように生きればいい。自分が生きたいように生きていこうとすれば、当然のように周囲と摩擦が生じる。それを回避しようとしたり、調節しようとすれば、それなりに倫理観や平衡感覚も磨かれてゆくとおもう。

 最初から周囲や習俗に合わせようとするのではなく、まずは自分のやり方で行けるところまで行ってみる。その結果、協調性のようなものを身につけざるをえなくなったとしても、それはそれでやむをえない。
 かつて自分からすれば、今のわたしは妥協ばかりして、自分の生きたいように生きていないように見えるだろう。
 その昔、「おまえはアナキストじゃなくて、ただのリアリストだよ」といわれたことがある。それは当っているとおもう。でもわたしのことをリアリストといった知人は、親元にいて生活に困っていなかった。

 自由なんてものは、その人の才能、能力にみあった分しか得られないのではないかというおもいがわたしにはある。制度上の不平等や不自由という問題もあるけど、今はそれ以前の話をしているつもりだ。
 アン・リネルは六十歳くらいまで学校の先生をしていた。いちおう生活の保証があったわけである。その上で、個人主義を貫いていた。アン・リネルが教職に就かず、文筆だけで生活していたら、七十歳すぎまで、その哲学を深める活動をつづけることができただろうか。

 もっとも、今のおまえは妥協して守るだけの価値のある生活を送っているのかと問われたら、「いや、それはその」と口ごもるほかない。

(……未完)

2007/06/07

拾い癖

 昨日の朝、高円寺文庫センターの前を散歩したときに通りかかったら、本棚の下の引きだしのようなもの(白色、車輪付)が落ちていた。「ご自由にお持ちください」とあったので、おもわず拾ってしまった。
 本棚の下の引き出しのようなものは、縦四十五センチ、横八十センチ、高さ三十センチくらい。なにかにつかえるとおもったのだが、置く場所がない。なんで拾っちゃったんだろう。

 そのあと昼から神保町めぐり。暑い。わたしは一年中、長そでシャツを着ているのだが、この日自分がもっている服の中でもっとも薄い麻のシャツを着ていた。この先、もっと暑くなったらどうすればいいのだろうかとおもいながら、神田伯剌西爾(ぶらじる)でアイスコーヒーを飲む。すずらん通りのたつやで牛丼。牛丼は百円値上がりしていた。オーストラリアの大干ばつの影響だそうだ。といっても、三五〇円。午後三時すぎだったけど、客はわたしひとり。神保町では、たつやの牛丼か小諸そばの香味豚うどんしか食っていない気がする。

 帰りに早稲田で途中下車して、古書現世の向井さんとニュー浅草で飲む。指定席かとおもうくらい、いつも同じ席に案内される。今月から早稲田古本村通信の連載をはじめるのでその相談。タイトルもなにも決めていない。たぶん、ゆるい枠で自由に書かせてもらうことになりそう。

 古書現世で川崎彰彦の『私の函館地図』(たいまつ社)を買った。もともと二百部の小冊子の増補改訂版。長谷川四郎の跋文もはいっている。ちょっと前に津野海太郎の『歩くひとりもの』(ちくま文庫)を再読したのだけど、この本にも川崎彰彦をのことが出てくる。

 あと本棚の下の引き出しのようなもの、ほしい人いる? 古本屋の均一台にはぴったりかも。

2007/06/05

わかっていながらそれが出来ない

 松尾邦之助の本を再読していたら、『癡人の独語』にアン・リネルのことが出てくるとあったので、『辻潤全集』(五月書房)の三巻を読むとにした。

《松尾君はアン・リネエルを「パリの辻潤」と呼んだが、勿論ジュルナリストの気転? で、誰も真面目にとるものはないであろうから安心するが、自分の考え方が彼に似ていることは少しも不思議とするに足りないばかりか、かなり共通的なもののあることだけは事実である》(「自己発見の道」/『癡人の独語』)

 辻潤は、アン・リネルを「インディビジュアル・アナアキスト」、つまり「無政府個人主義者」であるが、「系統はストア派」で、「ストイックの精神抜きにしては彼の所説を論ずることは出来ない」という。

 アン・リネルの話はさておき、辻潤の『癡人の独語』はなんど読んでもいい。読むたびに感化される。似たようなことをおもったり、書いたりしていることに後から気づくことがよくある。

《生きることになんの疑いも持たず、普通の習慣に従って無心に生きられたらどんなに気楽だろう、と自分はいつでも思うのだ。しかしそれが自分にはいつの間にか出来なくなってしまっているのだ。
 なにかしら漠然と物を考えているのが自分の生活の大部分になってしまっている。実行する能力が次第に減殺されてゆく——これはたしかに健康によくないことだと自分は十分わかっていながらそれが出来ないのだ》(「癡人の独語」/同書)

 昨日から今日にかけて、目的もなく、といっても、ぼんやりしているわけでもなく、起きているあいだ、ずっと考えごとをしている。
 休むときに休み、働くときに働く。そういうふうに気持をすぐきりかえられるようになりたい。仕事のときは、遊ぶことを、遊んでいるときは、仕事のことを考えてしまう。
 ずっと意識が散漫で、道を歩いているとき、路上に止まっている自転車やバイクにぶつかってばかりいる。シラフなのに。辻潤にいわせると、意識が散漫になるのは酒精中毒の症状だというが、ほんとうだろうか。

 気分転換しようと、高円寺の北口を散歩する。まもなく高円寺文庫センターが庚申通り移転する。今住んでいるところからはちょっと遠くなる。でも巡回ルートだからいいや。「琥珀」(上京以来、通いつづけている喫茶店)でコーヒーを飲みながら、『癡人の独語』を読む。なんでこんなにおもしろいんだ。

《人間というものはつくづくダメなものだ−−−これが現在の自分のありのままの感想なのであるが、勿論ダメなのは「人間」でなくて「自分」なのはわかりきっている。なにしろひどく叩きのめされたような気がして、頭があがらずひたすら降参している姿である。生きている間は所詮どうにもなるものではない》(「天狗になった頃の話」/同書)

 どうにもなるものではないなら、どうでもいいやという気分になったので、帰りにあずま通りのZQに寄ってみた。この店、かならずいいものがある。チャド・アンド・ジェレミーの「ビフォー・アンド・アフター」というCDを手にとりジャケットを見たとたん、これは買わないと一生後悔するとおもい衝動買い。
 英国のフォーク・ハーモニー・デュオの一九六五年のアルバム、ジャケ買いするの、ひさしぶりかも。
 これは誰がなんといおうと自然かつ必要な欲望だ。そしてチャド・アンド・ジェレミーは予想以上によかった。休日向きCD。

……なんか散漫だな。ここのところ、ずっとそうだ。うわのそら。充電期間とおもいたい。

(追記)
 その後、チャド・アンド・ジェレミーにすっかり魅了される。「The Ark(邦題:ノアの箱船)」は素晴らしい名盤だった。