2012/09/14

ワンサイクル

……色川武大著『うらおもて人生録』(新潮文庫)に「一歩後退、二歩前進——の章」を読み返す。

 まず、ストリップの話。
 はじめは“額縁ショー”という裸の女の子が有名な絵画のポーズをとっているだけのステージだった。
 大入り満員になったが、そのうちあきられる。客は、もっと刺激の強いショーを求め、どんどんエスカレートする。でも新しい工夫もすぐ慣れてしまい、「刺激の自転車操業」になり、ショーの限界をこえて、行きつくところまで行ってしまう。

《それでもうこれ以上やることがなくなってしまって、終わりだ》

 さらに、こうしたはじまりから終わりまでの「ワンサイクル」の例をいくつかあげているのだが、省略する。

《一人が、ただ前に突っ走るだけではワンサイクルですぐに終わってしまう。自然の知恵というものはよくしたもので、前進のエネルギーとともに、たえず後退することもやってるんだね。それでなんとかサイクルをひきのばす。つまり、しのいでいるわけだ。(中略)物事というものは自然のエネルギーにまかせると、あっというまに終わっちまうものなんだ。そこをなんとか、だましだまし、ひきのばしていかなきゃならない》

 斬新さや過激さを求め、進歩することだけを考えていると、ストリップショーと同様、衰退を早めてしまうことにもなりかねない。
 ワンサイクルで終わらせないためには、意図してサボタージュをする必要がある。
 昔、読んだときは、観念では「なんとなくそういうものかな」とおもっていた。今は「だましだまし、ひきのばして」いくことの大切さが身にしみてわかる。

 もちろん進歩自体を否定しているわけではない。ただ、作用と反作用を見極めながら、「一歩後退、二歩前進」くらいの感覚をもつこと。
「後退」と「前進」の配分はどのくらいにすればいいのか。
 立ち止まることはできても、後ろに戻るのはほんとうにむずかしい。

 最近、若い知人とちょっと話をしたとき、ワンサイクルの壁にぶつかっているかんじがした。
 もっといいものを作りたい。
 昔のほうがよかったといわれる。

 今いる場所から前に進むのではなく、後ろに下ってやり直すのはものすごく骨が折れる。時間も倍かそれ以上かかる。

 どうすればその時間を作ることができるのか。
 それもまた難題である。

2012/09/10

動けば食える

 金曜日、夕方四時すぎ、神保町を散策する。すずらん通りを歩きはじめたら、東京堂書店の裏あたりから、ものすごい煙が流れてきた。火事だ。本の雑誌社も近い。

 新刊書店で藤子不二雄Ⓐ著『78歳いまだまんが道を…』(中央公論新社)など、原稿料代わりにもらった図書カードで数冊購入する。
 Ⓐ先生とF先生の友情がたまらない。寺田ヒロオの話が出てくると涙腺がゆるむ。

 藤子Fさんは、作風や画風が安定している。
 藤子Ⓐさんは、どんどん変化している。

 Fさんは、ずっと机の前に座って、自分の想像力を駆使して、漫画を描いていた。
 Ⓐさんは、外に出て遊びまくって、そこから得た刺激や知識を漫画にとりいれようとした。
 ふたりは才能の種類がまったくちがう。

 トキワ荘には、自分の素質をそのまま伸ばしていくタイプもいれば、自分の外に目を向け、まだ誰もやっていないことをやろうと考えるタイプもいる。

 大雑把にわけると、Fさんは前者で、Ⓐさんは後者だ。

 土日は、高円寺の西部古書会館の大均一祭。
 初日は二百円、二日目は百円。
 二日間で二十冊くらい買う。かんべむさし著『むさし走査線』(奇想天外社、一九七九年刊)はおもしろそう。コラムやエッセイ、対談を収録したバラエティブック。

 この本の中に「動けば食える」というエッセイがある。
 サラリーマンをやめて、作家(自由業)になるかどうか悩んでいたとき、友人のデザイナーにこんなアドバイスをされる。

《「一人になって、食べていけますかねえ」
 「そりゃ、いけるよ」
 当然だという顔でこたえた。
 「食べなかったら死ぬからな。死にそうになって死にたくなかったら、動くに決まっているからな。動けば、とにかく食えるだろ」》

 それしかないなとおもう。

2012/09/05

自信と自惚れ

 昨晩、古山高麗雄著『他人の痛み』(中公文庫)を再読した。

《自信と自惚れとをどこで分ければいいのだろう?》

「ロバの鼻先のニンジン」と題したエッセイはそんな問いからはじまる。

《人が生きるということは、他人は結果で批評するだろうが、本人には、そのプロセスの中で、何とどうつきあうかということである。自信があるかないかということは、私には重要なことだとは思えない。ましてその自信が自惚れであり、そのことに自分で気がつかないなどというようなことになれば、それは、その人の人生を貧しくしてしまうことにしかならないのではあるまいか》

 古山さんは小説家の自信についても語る。
 小説を書いたとしても、結果らしい結果が出るわけではない。結局、売れた数字ではなく、自分で自分を評価するしかない。

《その場合、なまじっか自惚れと分かち難い自信などがあれば、眼がくもることになる。(中略)といって、なんらかの意味で自信がなければ、小説など書けるものではない》

 古山さんはどんな自信を持とうとしているのか。それがこのエッセイのオチである。

 もうすこし自信を持ちたいとおもっていたところ、古山さんはもっと難度の高い境地を模索していたことを知り、「まいりました」と心の中でつぶやいた。