一九八〇年代末のバブル期に都内のあちこちにワンルームマンションが建てられた。
風呂トイレ洗面台のいわゆる三点ユニット付の十平米〜十五、六平米の部屋で当時の家賃は月六、七万円(高円寺)くらいか。駅近なら七万円台後半という物件もあった。
そのころ、わたしは築三十年くらいの風呂なしアパートに住んでいた。二部屋(四畳半・三畳)、台所トイレ付で三万円台だった。
(……以下、『閑な読書人』晶文社所収)
2013/01/19
住まいの話
古本屋めぐりのついでに不動産屋の張り紙も見るのは習い性になっている。
上京した年——一九八九年ごろとくらべると、高円寺の家賃もずいぶん下がった。鉄筋で風呂付の部屋が五万円以下というのは昔は考えられなかった。
近所に書庫兼仕事部屋を借りて五年ちょっとになる。最初の単校本の印税を敷金礼金にあてた。ちょうどその年にいくつかの雑誌で連載が決まり、心おきなく本を買える状態にしておきたかったのである。
住居のほうは妻と家賃を折半しているのだが、ときどきポストに投函される中古マンションのチラシを見ると、「買ったほうが安いのではないか」と考えてしまう。でも細かく見ると、修繕費やら管理費やら固定資産税やらもふくめて計算すると、たいして家賃と変わらないような気もする。
(……以下、『閑な読書人』晶文社所収)
上京した年——一九八九年ごろとくらべると、高円寺の家賃もずいぶん下がった。鉄筋で風呂付の部屋が五万円以下というのは昔は考えられなかった。
近所に書庫兼仕事部屋を借りて五年ちょっとになる。最初の単校本の印税を敷金礼金にあてた。ちょうどその年にいくつかの雑誌で連載が決まり、心おきなく本を買える状態にしておきたかったのである。
住居のほうは妻と家賃を折半しているのだが、ときどきポストに投函される中古マンションのチラシを見ると、「買ったほうが安いのではないか」と考えてしまう。でも細かく見ると、修繕費やら管理費やら固定資産税やらもふくめて計算すると、たいして家賃と変わらないような気もする。
(……以下、『閑な読書人』晶文社所収)
2013/01/16
雪散歩
雪の日、ほとんど家にこもって、年末できなかった掃除をしていた。紙袋やダンボールに入った新聞、雑誌などの切り抜きやコピーをどうするかで悩む。きちんとファイルしないと、必要なときに見つけることができない。増えれば増えるほど、探すのも困難になる。
資料整理は諦めの連続で気が滅入るが、これも仕事のうちとおもうことにする。
気分転換のため、高円寺北口を散歩する。いくつか家の前で雪だるまを見つけた。その翌日、夕方、スーパーがむちゃくちゃ混んでいた。雪と連休が重なったせいか。
来月発売の『本の雑誌』の連載で夏葉社と幻戯書房の上林曉の本をとりあげた。
原稿には書かなかったが、今、上林曉の『草餅』(筑摩書房)を読み返している。不自由な左手で扉の題字を書いている。
「木山君の死」という随筆に昔の高円寺の話が出てくる。
木山捷平は満洲に行く前に高円寺駅のちかくに住んでいた。荻窪在住の上林曉は高円寺の公益質屋に寄って、木山を誘い、煮込み屋で酒を飲んだり、将棋を指したりした。そんな回想を綴っている。
上林曉も木山捷平も作家としてはかなり苦労人なのだが、昭和の中央線文士の交遊には憧れる。
木山捷平の田舎は岡山県の笠岡で、近くに住む写真家の藤井豊さんの案内で生家を訪れたことがある。
まさに田園風景というべきかんじのところだったが、後日、やはり郷里が木山捷平の生家のちかくの河田拓也さんから「あのあたりは街道筋で昔は栄えていたんですよ」と教えてもらった。
木山捷平の家は祖父も父も百姓だった。木山捷平は貧乏話をよく書いていたから、それほど裕福な家の生まれではないとおもっていた。しかし、当時、地方在住者が子どもを東京の大学まで行かせるというのは、かなり恵まれた家なのかもしれない。
そのあたりの感覚が本を読んでいるだけは掴みきれない。
中央線文士たちの電車で二駅くらいの距離の友人の家を歩いて訪ね、そのまま酒を飲んで、将棋をするという暮らしぶりはすごく贅沢な気がしてしかたがない。
(追記)
後日、河田さんから再び説明があって、木山捷平の生家と街道はちょっと離れていて、木山家の周辺はそれほど栄えてなかったとのこと。わたしの勘違いだった。
資料整理は諦めの連続で気が滅入るが、これも仕事のうちとおもうことにする。
気分転換のため、高円寺北口を散歩する。いくつか家の前で雪だるまを見つけた。その翌日、夕方、スーパーがむちゃくちゃ混んでいた。雪と連休が重なったせいか。
来月発売の『本の雑誌』の連載で夏葉社と幻戯書房の上林曉の本をとりあげた。
原稿には書かなかったが、今、上林曉の『草餅』(筑摩書房)を読み返している。不自由な左手で扉の題字を書いている。
「木山君の死」という随筆に昔の高円寺の話が出てくる。
木山捷平は満洲に行く前に高円寺駅のちかくに住んでいた。荻窪在住の上林曉は高円寺の公益質屋に寄って、木山を誘い、煮込み屋で酒を飲んだり、将棋を指したりした。そんな回想を綴っている。
上林曉も木山捷平も作家としてはかなり苦労人なのだが、昭和の中央線文士の交遊には憧れる。
木山捷平の田舎は岡山県の笠岡で、近くに住む写真家の藤井豊さんの案内で生家を訪れたことがある。
まさに田園風景というべきかんじのところだったが、後日、やはり郷里が木山捷平の生家のちかくの河田拓也さんから「あのあたりは街道筋で昔は栄えていたんですよ」と教えてもらった。
木山捷平の家は祖父も父も百姓だった。木山捷平は貧乏話をよく書いていたから、それほど裕福な家の生まれではないとおもっていた。しかし、当時、地方在住者が子どもを東京の大学まで行かせるというのは、かなり恵まれた家なのかもしれない。
そのあたりの感覚が本を読んでいるだけは掴みきれない。
中央線文士たちの電車で二駅くらいの距離の友人の家を歩いて訪ね、そのまま酒を飲んで、将棋をするという暮らしぶりはすごく贅沢な気がしてしかたがない。
(追記)
後日、河田さんから再び説明があって、木山捷平の生家と街道はちょっと離れていて、木山家の周辺はそれほど栄えてなかったとのこと。わたしの勘違いだった。
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