雨。寒い。二日酔い。
ずっと読みたいとおもっていた新居格の『季節の登場者』(人文會出版、一九二七年刊)をインターネットの古本屋で注文した。「日本エツセイ叢書」の一冊だ。
届いた本のあいだに新居格の「マンモニズム想片」というエッセイの雑誌の切り抜きもはさまっていた。初出はわからない。わからないことを調べる時間がほしい。
《金さへあれば大抵のことは出来る。金は有難いものだと云ふ心理に人々は支配されるのも無理からぬと思へる。(中略)その代り、金がないと不便にして窮屈極まる》
拝金主義を批判しているエッセイなのだが、新居格は生活および精神の享楽を満たすことを否定しているわけではない。
戦時中、新居格は自分にお金があったら、地下に防空壕のある家を建て、そこでずっと本を読んでいたいといったエッセイを書いていた。
わたしもそういう夢をよく見る。別に地下室でなくてもいいが、現実と隔絶された場所でひたすら本を読んだり音楽を聴いたりし続けられたらと……。
『季節の登場者』の「序」で、新居格は「私の随筆は云はば私だけに意味する随筆であるかも知れない」と綴っている。
新居格は、友人に君はカフェなどでの漫談はおもしろいけど、文章は拙いといわれる。
《巧い人が巧いのは巧いのだが、拙いものがまづいのも、それはその人の木地そのままの丸出しであるが故に巧いのであるとするのである。自由で明けつ放しに書いてるつもりだ。癖もあらう、まづさもあらう、変でも妙でもあり、その他何でもである。時には滅茶苦茶であるかも知れないが、そんな点の好きな人達は或はその点で好きになつてくれるかも知れない》
変でも妙でもいい。というか、それをそのまま書けることが、わたしの理想の文章である。
2017/04/08
「整えない」こと
ここ数日、ぼんやりと考えていたことを書いてみる。
どんな競技にも難易度みたいなものがある。見ている分にはその細かなちがいは素人目にはわからない。
難しいことを簡単そうにやるのはむずかしい。そのむずかしさは伝わりにくい。
いっぽう今の自分の力でギリギリのことをやろうとすると、余裕がなくて、ぎこちなくなる。どうしても必死なかんじになる。でもぎこちなくても必死になってやってみることは、すごく大切なのではないか……と、万事においてあんまり無理をしなくなった四十代後半のおっさんはおもうわけだ。
齢をとって、気力や体力が衰えて、はじめてわかることがたくさんある。
若いころ、基本や手順を無視して強引にやっていたことがことごとくできなくなる。勢いで乗りきるという方法が使えない。
今のわたしは手順や基本を無視して、いきなりD難度やE難度の技に挑むようなことはしなくなった。
現段階では三回に一回くらいしかうまくいかないような技は封印し、確実にできる技の精度で勝負することが増えた。いわば、「守り」に入っている。ところが、「守り」とおもっていたこともやってみると意外と奥が深い。まとめすぎずに、適度な雑さ、いい加減さを残す。その匙加減でよく悩む。
先日、藤井青銅著『幸せな裏方』(新潮社)を読んでいたら、その中に「整えない」というエッセイがあった。
藤井さんがあるミュージシャンのために作詞したときの話だ。ミュージシャンは藤井さんの前でギターを弾いてデモ曲を作り、ラフに歌った。
「これがとてもよかったのだ!」
後日レコーディングの現場で「立派に編曲された伴奏」といっしょにその曲を聴いた。ところが、編曲された曲は最初のデモ曲のときにあった魅力を感じられなかった。
音楽の世界では、よくあることらしい。
「整えない」というエッセイでは、藤井さんがものすごく過密な日程で小説を書いたときのエピソードも綴られている。文章を吟味せず、語句も統一せず、《書き飛ばす》かんじで原稿用紙に文字を埋め続ける。ゲラを見ると、あちこちに乱れがある。しかし、そこに「気迫」のようなものがこもっている。そして「整えない」ことの意味を問いかける。
《音楽も小説も、おそらく他のジャンルも……、上手に作り上げていくことが必ずしもいい結果を生むとは限らない》
整えたくても整えられない……という時期を経て、それなりに整ったものが作れるようになってから、ぶつかる壁がある。
近所の飲み屋で三十歳前後の会社員兼ミュージシャンが「今の若い人はみんなうまいですよ。うまいことが前提になっているですよ」みたいな話をしていた。難しい曲もさらっと弾きこなす。でもうまいことが前提になると、そのうまさは武器にならない。
一昔前と比べると、あらゆるジャンルにおいて、その道のプロとして食っていくことの難易度が格段に上がっている。
だったら、うまさを目指さないという道もあるのではないか。
それはそれで茨の道かもしれないが。
どんな競技にも難易度みたいなものがある。見ている分にはその細かなちがいは素人目にはわからない。
難しいことを簡単そうにやるのはむずかしい。そのむずかしさは伝わりにくい。
いっぽう今の自分の力でギリギリのことをやろうとすると、余裕がなくて、ぎこちなくなる。どうしても必死なかんじになる。でもぎこちなくても必死になってやってみることは、すごく大切なのではないか……と、万事においてあんまり無理をしなくなった四十代後半のおっさんはおもうわけだ。
齢をとって、気力や体力が衰えて、はじめてわかることがたくさんある。
若いころ、基本や手順を無視して強引にやっていたことがことごとくできなくなる。勢いで乗りきるという方法が使えない。
今のわたしは手順や基本を無視して、いきなりD難度やE難度の技に挑むようなことはしなくなった。
現段階では三回に一回くらいしかうまくいかないような技は封印し、確実にできる技の精度で勝負することが増えた。いわば、「守り」に入っている。ところが、「守り」とおもっていたこともやってみると意外と奥が深い。まとめすぎずに、適度な雑さ、いい加減さを残す。その匙加減でよく悩む。
先日、藤井青銅著『幸せな裏方』(新潮社)を読んでいたら、その中に「整えない」というエッセイがあった。
藤井さんがあるミュージシャンのために作詞したときの話だ。ミュージシャンは藤井さんの前でギターを弾いてデモ曲を作り、ラフに歌った。
「これがとてもよかったのだ!」
後日レコーディングの現場で「立派に編曲された伴奏」といっしょにその曲を聴いた。ところが、編曲された曲は最初のデモ曲のときにあった魅力を感じられなかった。
音楽の世界では、よくあることらしい。
「整えない」というエッセイでは、藤井さんがものすごく過密な日程で小説を書いたときのエピソードも綴られている。文章を吟味せず、語句も統一せず、《書き飛ばす》かんじで原稿用紙に文字を埋め続ける。ゲラを見ると、あちこちに乱れがある。しかし、そこに「気迫」のようなものがこもっている。そして「整えない」ことの意味を問いかける。
《音楽も小説も、おそらく他のジャンルも……、上手に作り上げていくことが必ずしもいい結果を生むとは限らない》
整えたくても整えられない……という時期を経て、それなりに整ったものが作れるようになってから、ぶつかる壁がある。
近所の飲み屋で三十歳前後の会社員兼ミュージシャンが「今の若い人はみんなうまいですよ。うまいことが前提になっているですよ」みたいな話をしていた。難しい曲もさらっと弾きこなす。でもうまいことが前提になると、そのうまさは武器にならない。
一昔前と比べると、あらゆるジャンルにおいて、その道のプロとして食っていくことの難易度が格段に上がっている。
だったら、うまさを目指さないという道もあるのではないか。
それはそれで茨の道かもしれないが。
2017/04/04
プロセス
春の選抜が終わって、プロ野球が開幕し、季節が変わったと実感する。
四月二日(日)、桜台poolで「ピエーポポ!ライブ」。村岡マサヒロ個展「ピエーポ!2017~春の宴~」のクロージングの宴のイベント(ポポタムズ、ボエーズ、カトリーロと吉成トライ、HERNIA15、DJ根本敬)にポポタムズのベースとして参加した。
リハーサルと本番は全然ちがう。余裕なし。
前回のポポタム十周年の「ポポフェス」のときは、何も考えないうちにあっという間に終わったかんじだった。二回目のほうが緊張するとはおもわなかった。
四十代後半になって「できないことができるようになる」にはどうすればいいのかということをよく考えるようになった。
昨年、はじめてフライフィッシングをやってみて、まったくおもいどおりにならない経験をした。それがすごく楽しかった。
楽器もそうだ。家でひとりで練習しているときにはできることが、みんなと合わせるとグダグダになる。見るのとやるのとではまったくちがう。でも最初からできないとおもっていると、いつまで経ってもできない。
趣味や遊びの中にも「できないことができるようになる」プロセスのようなものがある。
はじめのうちは素振りの数がものをいうみたいなところがあるわけだが、しばらくすると「こんなことをやっている場合か」「ほどほどでいいのではないか」という葛藤が生じてくる。
ブレーキを踏まずに何かひとつのことに没頭するという行為は、生活に支障をきたすし、からだにも大きな負荷がかかる。
その道を極めている人たちは、ある種の分別や制約をとっぱらった遊び半分ではたどりつけない場所に生きている。
かならずしもその場所は楽しいとは限らない。
今はまだ初歩の初歩で躓いている状態だが、何かに没頭した先にある世界が見たい。そこにいかないと掴めない感覚を掴みたい。
しかし「こんなことやっている場合か」という葛藤は簡単には消せない。仕事もあるし。はあ。
四月二日(日)、桜台poolで「ピエーポポ!ライブ」。村岡マサヒロ個展「ピエーポ!2017~春の宴~」のクロージングの宴のイベント(ポポタムズ、ボエーズ、カトリーロと吉成トライ、HERNIA15、DJ根本敬)にポポタムズのベースとして参加した。
リハーサルと本番は全然ちがう。余裕なし。
前回のポポタム十周年の「ポポフェス」のときは、何も考えないうちにあっという間に終わったかんじだった。二回目のほうが緊張するとはおもわなかった。
四十代後半になって「できないことができるようになる」にはどうすればいいのかということをよく考えるようになった。
昨年、はじめてフライフィッシングをやってみて、まったくおもいどおりにならない経験をした。それがすごく楽しかった。
楽器もそうだ。家でひとりで練習しているときにはできることが、みんなと合わせるとグダグダになる。見るのとやるのとではまったくちがう。でも最初からできないとおもっていると、いつまで経ってもできない。
趣味や遊びの中にも「できないことができるようになる」プロセスのようなものがある。
はじめのうちは素振りの数がものをいうみたいなところがあるわけだが、しばらくすると「こんなことをやっている場合か」「ほどほどでいいのではないか」という葛藤が生じてくる。
ブレーキを踏まずに何かひとつのことに没頭するという行為は、生活に支障をきたすし、からだにも大きな負荷がかかる。
その道を極めている人たちは、ある種の分別や制約をとっぱらった遊び半分ではたどりつけない場所に生きている。
かならずしもその場所は楽しいとは限らない。
今はまだ初歩の初歩で躓いている状態だが、何かに没頭した先にある世界が見たい。そこにいかないと掴めない感覚を掴みたい。
しかし「こんなことやっている場合か」という葛藤は簡単には消せない。仕事もあるし。はあ。
登録:
投稿 (Atom)