新居格の『心のひゞき』(道統社、一九四二年刊)に「春に考へる」というエッセイがあって、自分もこの題名で何か書いてみたいとおもっていた。
この本の「自序」でも、あいかわらず、新居格は、自分に才能がない、学浅く、見聞狭く、生活の振幅がひろくない……云々とぼやいている。
《たゞ、わたしはありつたけの自分で書いてゐる》
《この書は表題の示す通り、平人であるわたしの心のひゞきなのである》
ありったけの自分の心の響きを書く。それは新居格の理想だったのではないかとおもう。本を読むかぎり、文章はかなり抑制が効いている。たぶん、性格も。
前回、「たどたどしくてもいいから、一音一音、心を込めて弾きたい」と書いた。素人同然の技術しかない癖に何をいっているのだ——と自分でもそうおもうわけだが、巧くなる過程で失ってしまうものがあるのではないか。今のわたしはそのことを考えたいのだ。
文章の場合、間違えても後でいくらでも書き直すことができる。楽器の生演奏だとそういうわけにはいかない。ミスをする。動揺する。あとはぐだぐだになる。間違えたところから立て直すことができない。つまり、ヘタということだ。
ときどき人前で話をする機会がある。わたしの声は小さくてかすれて聴こえにくい。たいてい途中でしどろもどろになる。正直にいうと、トークショーはやりたくない。やりたくないが、人前でもうすこし話ができるようになりたいともおもっている。
楽器と同様、人前で喋っているときも、しどろもどろになったあと、立て直す技術がない。
巧く弾く、巧く喋るよりも、今は失敗したときの心構えのほうが大事なのかもしれない。
(……続く)
2017/04/12
春に考える(三)
すこし前に『街の哲学』(青年書房、一九四〇年刊)を再読していたのだが、この本の中に「鮒を釣る卓」という随筆がある。
《エネルギーが減退し、読書執筆がスロー・モーシヨンになつて来た今日このごろではわたしには何といつても時間が大切だ》
新居格は一八八八年生まれだから、この文章を書いたのは五十歳くらいのときである。わたしは今年四十八歳になるのだが、そういう状態になりつつある。まちがいなく、本を読むのが遅くなった。
《疲れたら午睡し、憩ひをとつてまたぽつぽつと初める。そののろい仕事振は能率的ではないが、魚釣と同じで楽しいものだ》
《鮒つりをしてゐるのと、同じ気持でわたしは毎日机に向かつてゐるのだ。魚が釣れる釣れぬが魚釣人には問題ではないやうに、原稿がかけるとかかけぬとか、本が十分に読めるとか読めないとかが問題ではないのである》
二十代のときに文章が書けなくなってしまった時期のことをふりかえると、わたしは自分の技量以上に巧く書かなければ……とおもいこんでいた。
話は変わるが、今、毎日ベースの練習している。昔、できたことができない。自分のおもうように指が動いてくれない。二十代のころのわたしは速く正確に弾くことが、いい演奏だとおもっていた。それで挫折した。いや、挫折したといえるほど、本気でやっていなかった。
でも今は、たどたどしくてもいいから、一音一音、心を込めて弾きたいとおもっている。
楽器だけでなく、文章を書くときもそうありたい。指先に気持をのせて書く。久しく忘れていた感覚だ。弾けないベースの練習をしているうちに、その感覚をすこしだけおもいだした。
この心境の変化を忘れないようにしたい。
……続く。
《エネルギーが減退し、読書執筆がスロー・モーシヨンになつて来た今日このごろではわたしには何といつても時間が大切だ》
新居格は一八八八年生まれだから、この文章を書いたのは五十歳くらいのときである。わたしは今年四十八歳になるのだが、そういう状態になりつつある。まちがいなく、本を読むのが遅くなった。
《疲れたら午睡し、憩ひをとつてまたぽつぽつと初める。そののろい仕事振は能率的ではないが、魚釣と同じで楽しいものだ》
《鮒つりをしてゐるのと、同じ気持でわたしは毎日机に向かつてゐるのだ。魚が釣れる釣れぬが魚釣人には問題ではないやうに、原稿がかけるとかかけぬとか、本が十分に読めるとか読めないとかが問題ではないのである》
二十代のときに文章が書けなくなってしまった時期のことをふりかえると、わたしは自分の技量以上に巧く書かなければ……とおもいこんでいた。
話は変わるが、今、毎日ベースの練習している。昔、できたことができない。自分のおもうように指が動いてくれない。二十代のころのわたしは速く正確に弾くことが、いい演奏だとおもっていた。それで挫折した。いや、挫折したといえるほど、本気でやっていなかった。
でも今は、たどたどしくてもいいから、一音一音、心を込めて弾きたいとおもっている。
楽器だけでなく、文章を書くときもそうありたい。指先に気持をのせて書く。久しく忘れていた感覚だ。弾けないベースの練習をしているうちに、その感覚をすこしだけおもいだした。
この心境の変化を忘れないようにしたい。
……続く。
2017/04/11
春に考える(二)
眼高手低という言葉がある。目は肥えているけど、いざ自分でやってみると、おもうようにできない、知識に技術(技能)が追いつかない——そういう状態を意味する。
二十代のころ、本ばかり読んでいて、文章が書けない時期があった。
自分の考えているようなことは、誰かがすでに書いている。わざわざ自分が書く必要はない。
そうおもうこと自体、すでにいろいろな人が書いている。
今の時代は情報量が格段に増えているから、昔と比べて、眼高手低になりやすい。「ひょっとしたら、自分には才能があるかもしれない」という初心者の勘違いはすぐに打ち消される。
まわりにも巧い人がいくらでもいる。「わざわざ自分が……」とおもってしまう。
どんなに情報量が多くても、自分の可能性を測ることはできない。今、できないことが、三ヵ月後、一年後にはできるようになっている(かもしれない)。できるようになってからではないとわからないことはいくらでもある。
技術・技量のレベルに応じて、理想や目標も変わってくる。
新居格が自分の随筆を「私だけに意味する随筆であるかも知れない」と書いていることに、わたしはすごく励まされた。
文章を書く以上、「おもしろかった」「読んでよかった」とおもってほしい。でもそれだけではない。
書きたいものを書くためには、何度も書き損じる経験を積まないといけない。
たぶん料理にしても、レシピを見て、そのまま再現できるようになるには、それなりに時間がかかる。一度くらいうまくできても、次も同じようにできるとは限らない。微妙な火加減や塩加減は失敗を通して学ぶしかない。
この文章にしても、ぼんやりとした着地点はあるのだが、そこにたどりつけるかどうかはわからない。
二十代のころ、本ばかり読んでいて、文章が書けない時期があった。
自分の考えているようなことは、誰かがすでに書いている。わざわざ自分が書く必要はない。
そうおもうこと自体、すでにいろいろな人が書いている。
今の時代は情報量が格段に増えているから、昔と比べて、眼高手低になりやすい。「ひょっとしたら、自分には才能があるかもしれない」という初心者の勘違いはすぐに打ち消される。
まわりにも巧い人がいくらでもいる。「わざわざ自分が……」とおもってしまう。
どんなに情報量が多くても、自分の可能性を測ることはできない。今、できないことが、三ヵ月後、一年後にはできるようになっている(かもしれない)。できるようになってからではないとわからないことはいくらでもある。
技術・技量のレベルに応じて、理想や目標も変わってくる。
新居格が自分の随筆を「私だけに意味する随筆であるかも知れない」と書いていることに、わたしはすごく励まされた。
文章を書く以上、「おもしろかった」「読んでよかった」とおもってほしい。でもそれだけではない。
書きたいものを書くためには、何度も書き損じる経験を積まないといけない。
たぶん料理にしても、レシピを見て、そのまま再現できるようになるには、それなりに時間がかかる。一度くらいうまくできても、次も同じようにできるとは限らない。微妙な火加減や塩加減は失敗を通して学ぶしかない。
この文章にしても、ぼんやりとした着地点はあるのだが、そこにたどりつけるかどうかはわからない。
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