寒くて風が強い。夕方神保町。東京メトロ東西線の九段下駅から中野駅、そこから歩いて高円寺に帰る。
すこし前に買って積ん読していたジョン・マクフィー著『ピューリツァー賞作家が明かすノンフィクションの技法』(栗原泉訳、白水社)を読む。
ライター関係の技術書、入門書は買う。読んですぐ役に立つアドバイスもあれば、時間が経ってから有益な知識もある。何がどう役に立つか、そう簡単にはわからない。わかれば誰も苦労しない。
原書の題は「Draft No.4」、つまり「第四稿」である。このタイトルだと内容がわからない。しかし、いい題名だ。わたしが書店で手にとるのは『ノンフィクションの技法』だけど、読後、家の本棚に並べたいのは『第四稿』だ。
この本の中でも「第四稿」が読みごたえがあった。
行き詰まって書けないときは、自分の能力不足に関する愚痴など何でもいいから書けというようなアドバイスする。ライター歴三十年のわたしも実践している。
テーマと関係ないことを書いているうちに力が抜けてくる。ジョン・マクフィーは最終稿ではその部分を削れというが、わたしはわりと残す。そのあたりがノンフィクションとエッセイの技法のちがいだろう(たぶんちがう)。どうでもいいことを書いているうちにエンジンがかかってくる。すくなくともわたしはそう。
また「わたしの文体っていつも、そのとき読んでいるものと同じか、さもなければ、自己意識の強い、ぎこちない文になってしまう」というジェニーの悩みにたいし、マクフィーはこう答える。
「そりゃ、困ったことだね、もしきみが五十四歳だというなら。だが、二十三歳ならそれが当たり前だし、重要なことでもあるんだ」
この続きの言葉もいい。何が書いてあるかは読んでのお愉しみということで。
2020/03/01
備蓄
今年は閏年だったかと数日前に気づいたのだが、とくに予定なし。
二十代のころは曜日の感覚がめちゃくちゃで、しょっちゅう火曜日だとおもって一日すごしていたら水曜日だったということがよくあった。今はそういうことはない。
曜日をしょっちゅう間違えていたころは、生活リズムもめちゃくちゃで時計を見て五時三十分くらいだと、「朝? 夕方? どっち?」と焦ることが月に二、三日はあった。
曜日の感覚がおかしくなったり、朝か夕方かわからなくなったりしたのは徹夜したり、半日くらい酒を飲んだりした次の日に十二時間とか十四時間とか寝ていたからだろう。
今は朝か夕方かわからなくなる日は年に二日か三日くらいしかない。
もはや生活リズムがデタラメだったころの感覚が思い出せなくなっている。今も規則正しい生活を送っているわけではないのだが、徹夜はしないし、飲みに行っても二時間くらいで切り上げる。
九年前の東日本大震災後も町からトイレットペーパーとペットボトルの水と乾電池が消えた。菓子パンやカップ麺も品切になっていた気がする。ただ、当時の記憶もあやふやになっている。
朝寝昼起の生活をしていると物不足のときに対処が遅れる。午前中でいろいろなものが売り切れ、午後は棚がすかすかになる。開店前に薬局でマスクの整理券を配っている。昨日か一昨日あたりから、急にトイレットペーパーとティッシュが売り切れの店が増えた。
子どものころ、鹿児島にいた明治生まれの祖父が郷里の家に来たとき「ティッシュなんて贅沢だ。鼻は古新聞かチラシでかめばいい」といっていた。母は「ケチクサイ」と文句をいっていたが、ちり紙(チリシといっていた)がなくなったとき用のやわらかい紙のチラシをためていた(家は長屋で水洗トイレじゃなかった)。昭和五十年代の話である。
数週間後には平常運転に戻るとわかっていても、いざ店にものがないと不安になる。家にあるものでもすこし買い置きしておこうかなとおもってしまう。ひとりひとりのそうした心理が積み重なって、町からものが消える。
ものを備蓄するのも大事だが、なければないでどうにでもなる——とおもって日々をすごすのも生活の智慧だ。ほんとうにないと困るものは何か。そういうことを常日頃から考えておくのはわるくない。
二十代のころは曜日の感覚がめちゃくちゃで、しょっちゅう火曜日だとおもって一日すごしていたら水曜日だったということがよくあった。今はそういうことはない。
曜日をしょっちゅう間違えていたころは、生活リズムもめちゃくちゃで時計を見て五時三十分くらいだと、「朝? 夕方? どっち?」と焦ることが月に二、三日はあった。
曜日の感覚がおかしくなったり、朝か夕方かわからなくなったりしたのは徹夜したり、半日くらい酒を飲んだりした次の日に十二時間とか十四時間とか寝ていたからだろう。
今は朝か夕方かわからなくなる日は年に二日か三日くらいしかない。
もはや生活リズムがデタラメだったころの感覚が思い出せなくなっている。今も規則正しい生活を送っているわけではないのだが、徹夜はしないし、飲みに行っても二時間くらいで切り上げる。
九年前の東日本大震災後も町からトイレットペーパーとペットボトルの水と乾電池が消えた。菓子パンやカップ麺も品切になっていた気がする。ただ、当時の記憶もあやふやになっている。
朝寝昼起の生活をしていると物不足のときに対処が遅れる。午前中でいろいろなものが売り切れ、午後は棚がすかすかになる。開店前に薬局でマスクの整理券を配っている。昨日か一昨日あたりから、急にトイレットペーパーとティッシュが売り切れの店が増えた。
子どものころ、鹿児島にいた明治生まれの祖父が郷里の家に来たとき「ティッシュなんて贅沢だ。鼻は古新聞かチラシでかめばいい」といっていた。母は「ケチクサイ」と文句をいっていたが、ちり紙(チリシといっていた)がなくなったとき用のやわらかい紙のチラシをためていた(家は長屋で水洗トイレじゃなかった)。昭和五十年代の話である。
数週間後には平常運転に戻るとわかっていても、いざ店にものがないと不安になる。家にあるものでもすこし買い置きしておこうかなとおもってしまう。ひとりひとりのそうした心理が積み重なって、町からものが消える。
ものを備蓄するのも大事だが、なければないでどうにでもなる——とおもって日々をすごすのも生活の智慧だ。ほんとうにないと困るものは何か。そういうことを常日頃から考えておくのはわるくない。
2020/02/26
冬をのりきる
このあいだ二月になったとおもったら、もう月末、十二月〜二月の冬眠期(といっても仕事はしていた)も終わる。
毎年のことだが、冬をのりきることが目標になっている。冷えと疲れは万病のもと——からだをあたたかくしてよく寝る。
風邪対策としては何にでもショウガをいれる。万能とはいわないが、ショウガはすごいとおもう。お酒もジンジャーハイボール、モスコミュールを飲む。
しかし細心の注意をはらいつつも風邪をひいたり、ひかなかったりしている。風邪なんてものはどんなに気をつけていてもひくときはひくものだ。健康管理が無駄とはいわないが、それでもひくときはひく。
ただしあくまでも個人の意見だが、やせているときと太っているときを比べると、やせていたときのほうがよく風邪をひいた。だから冬のあいだはすこし太るくらいでちょうどいいとおもっている。
街道を歩くさい、朝から夕方までほとんど食事をとらずに歩き続けるので二泊か三泊の旅行をすると二、三キロ痩せる。
昨年末、自分のベストと考えている体重よりも四、五キロ痩せていた。今はベストより二キロほど太っている。
五十歳をこえたら、一年通してずっと万全でいられるわけがない。一年のうち二、三ヶ月はダメな時期があってもいい。
週に一日か二日か、完全休養日(何もせずだらだらする日)があるのが理想なのだが、なかなかうまくいかない。
話は変わるが、連休中に読んだ古山高麗雄著『他人の痛み』(中公文庫)のメモをしておく。
都会の子どもは自然と触れ合う機会が少ないという話から、古山さんはこんな感想を述べている。
《勉強のためならと言って、子供の部屋にクーラーを取り付けることには出費を惜しまない親が、子供が魚釣りに行くことにはいい顔しない。考えてみると、そういう大人たちも哀れである。
しかし、こういうことを書いても、世の中変わるわけのものではない》
「こういうことを書いても、世の中変わるわけのものではない」とわたしもしょっちゅうおもう。
でも変わらなくてもしつこく書き続けるしかない。
わたしは気軽に休める世の中になってほしいのでそのことだけはくりかえし書いていくつもりだ。
毎年のことだが、冬をのりきることが目標になっている。冷えと疲れは万病のもと——からだをあたたかくしてよく寝る。
風邪対策としては何にでもショウガをいれる。万能とはいわないが、ショウガはすごいとおもう。お酒もジンジャーハイボール、モスコミュールを飲む。
しかし細心の注意をはらいつつも風邪をひいたり、ひかなかったりしている。風邪なんてものはどんなに気をつけていてもひくときはひくものだ。健康管理が無駄とはいわないが、それでもひくときはひく。
ただしあくまでも個人の意見だが、やせているときと太っているときを比べると、やせていたときのほうがよく風邪をひいた。だから冬のあいだはすこし太るくらいでちょうどいいとおもっている。
街道を歩くさい、朝から夕方までほとんど食事をとらずに歩き続けるので二泊か三泊の旅行をすると二、三キロ痩せる。
昨年末、自分のベストと考えている体重よりも四、五キロ痩せていた。今はベストより二キロほど太っている。
五十歳をこえたら、一年通してずっと万全でいられるわけがない。一年のうち二、三ヶ月はダメな時期があってもいい。
週に一日か二日か、完全休養日(何もせずだらだらする日)があるのが理想なのだが、なかなかうまくいかない。
話は変わるが、連休中に読んだ古山高麗雄著『他人の痛み』(中公文庫)のメモをしておく。
都会の子どもは自然と触れ合う機会が少ないという話から、古山さんはこんな感想を述べている。
《勉強のためならと言って、子供の部屋にクーラーを取り付けることには出費を惜しまない親が、子供が魚釣りに行くことにはいい顔しない。考えてみると、そういう大人たちも哀れである。
しかし、こういうことを書いても、世の中変わるわけのものではない》
「こういうことを書いても、世の中変わるわけのものではない」とわたしもしょっちゅうおもう。
でも変わらなくてもしつこく書き続けるしかない。
わたしは気軽に休める世の中になってほしいのでそのことだけはくりかえし書いていくつもりだ。
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