2020/08/11

成城だより

 昨日は日中の最高気温三十五度。暑い。万歩計のボタン電池が切れていたので交換する。
 週一、二回、中野区の大和町や野方を散歩する。道に迷っているうちに大和町の八幡神社に辿り着いた。住宅街の中の神社だけど、参道がある。魚魂碑という釣魚の慰霊碑があることを知る。

 都内の新型コロナの感染者数の増加と自分の危機感がまったく比例していない。時候の挨拶のようにコロナの話を書いている。新刊案内を見るとタイトルに「コロナ後」と付いた本がけっこうある。「コロナ後」はいつ来るのか。

 恐怖や不安に根ざした思考は強い。さらに嫌悪感や正義感が加わるとより強固な思考になる。新型コロナに限ったことではなく、差別、排外主義も同様の思考過程をたどりがちだ。不安なときはニュースよりも古本を読むほうがいい——とわたしはおもっているのだが、それはそれで世の中とどんどんズレていく。
 大岡昇平の『成城だより』を再読する。文藝春秋のすこし大きめの新書版の三巻本で読む。

《散歩の必要。大腿筋の如き大きな筋肉を働かすと、脳内の血行が活発になるとの説あり。実際、古今東西に歩行の詩文多く、筆者も以前は行き詰まると書斎内をぐるぐる歩き廻ったものだった》

 当時の大岡昇平は駅まで十五分の散歩でも疲れ、帰りはタクシーに乗った。
 一九七九年十一月の日記。大岡昇平七十歳。『文學界』一九八〇年の新年号から連載がはじまった。大岡昇平が亡くなったのは一九八八年十二月二十五日。たしか『昭和末』(岩波書店)という本も家のどこかにあったはずだ。

2020/08/05

古山高麗雄生誕百年

 明日八月六日、古山高麗雄生誕百年を迎える。
 
 今の文芸誌は生誕百年や没後何年の企画をあまりやらなくなった。バックナンバーとしてとっておくのはそういう号だけなのだが。古本好きの文芸編集者の知り合いも、ほとんど引退してしまった。これから数年のあいだに戦中派の作家や詩人が続々と生誕百年になるが、特集が組まれそうなのは山田風太郎、鮎川信夫、吉本隆明あたりか。

 古山高麗雄著『一つ釜の飯』(小沢書店、一九八四年)の「過保護期の終わり」を読む。昭和十六年の春——コメディアンの高勢実乗の「わしゃかなわんよ」という流行語が時局に好ましくないという理由で禁じられた。

《私たちは、このような時代には、江戸時代の戯作者の精神で生きなければ生きようがない、などと言い、戯作精神の発露として、みんなで隅田川沿いに住み、互いにポンポン船を利用して訪問しあい、永井荷風のように娼婦を愛し、国民文学ではなく、黄表紙小説を書こうではないかと申し合わせた》

 この「私たち」の中には安岡章太郎もいた。安岡章太郎も今年生誕百年だった。

 昭和十六年になると、町から様々な物資が消えた。普通のパンがなくなり、コーヒーも大豆の代用品になった。
 はじめて古山さんと会ったときも戦時中のコーヒー事情を聞いた。わたしは二十五歳、古山さんは七十五歳——年の差五十歳。二十五年前の話である。「過保護期の終わり」にも当時二円で本物のコーヒーを飲ませる店に通いつめていた話を書いている。そうこうするうちに大東亜戦争がはじまった。

《ポンポン船に乗って、一時しのぎに自分を茶化し、紛らわしてみても、自分の行く道の先にあるものが、絶望的な状態であることは予見していた》

 古山さんに聞いた戦争体験で印象に残っているのは、戦死者といっても栄養失調や病気で命を落とした人が多かったという話である。それから現地では虫(蚊)や蛇が怖かったという。敵と銃を撃ち合って命を落とすみたいなことはほとんどなかった。あくまでも古山さんが経験した戦場の話だが、戦場で食料や薬が払底すれば、人間は簡単に死んでしまう。

 当時の軍部を古山さんは強い言葉で批判することはなかった。終始、穏やかに五十歳年下のわたしに戦争のひどさを伝えようとしていた。小柄で小声でぼそぼそ喋る人の戦争の話を聞くことで、自分のような人間が戦場に行けば、ロクな目に遭わないと想像できた。

2020/08/03

新居(にい)散歩

 夜、散歩。満月。ひさしぶりに月をじっくり見た。
 都内の新型コロナの感染者数を報じるニュースを見ても、天気予報くらいの感覚になりつつある。これが正常性バイアス(日常性バイアス)か。
 コロナ禍以降、気長にものを考えられなくなっている。それでも苦難苦境を乗り越えてきた人々が書き残してきた書物に学ぶことはたくさんある。

 土曜日夕方、西部古書会館。そのあと二冊持っていた本を何かと交換しようとおもい、高円寺の「まちのほんだな」の北二丁目支部を見に行く。ここは有志舎の永滝さんがやっている棚。読みたかった本があって嬉しい。

 話は変わるが『中年の本棚』のあとがきで「高円寺の寓居にて」と書いた。新居格の本を真似た。寓居は「仮の住まい」という意味と「自宅の謙遜語」という意味がある。

《わたしはなによりも散歩が好きであるが故に、散歩だけは怠らなかった》(「街の銀幕」/新居格著『生活の窓ひらく』第一書房、一九三六年)

 新居格は「散歩者」を自称し、単調な暮らしを好んだ。また「文学者」である前に「生活者」であろうとした。 戦中、言論弾圧が厳しくなった時期には「生活の向上」や「健康」に関する文章をけっこう書いている。

 彼が高円寺に住むようになったのは一九二四年十月。新聞社を何社もクビになった後、アナキストの評論家とおもわれていたため、定職に就くことができず、雑文書きで食いつないだ。勉強家だが、これといった専門がなく、高円寺で暮らしはじめたころは借金生活を送っていた。 すこし前、永滝さんに新居格が生協の前身にあたる運動をやっていたことを教えてもらった。頼み事を断れない性格だった。

 昭和十七年刊の『心のひゞき』(道統社)の奥付を見ると、新居格の住所は「杉並區高圓寺三ノ三一六」となっている。今の住所だと高円寺南四丁目——長善寺や福寿院などの近くか。評伝などを読むと中野や阿佐ケ谷界隈にも住んでいたことがあるようだ。