十月二十九日(木)、明け方、最低気温は十度ちょっと(東京都心)だった。まだコタツ布団を出していないので布団を腰に巻いて仕事をしていたのだが、手の指先が冷えてきたので今季初の暖房をつけた。
昼すぎ、阿佐ケ谷散歩(薬局などで買物)。小雨が降ってきたので中央線の高架下を通って帰る。平日の昼間にもかかわらず、雨のせいか、人通りが多い。
途中、ベルを慣らし続けながら自転車に乗る中高年男性(推定六十代半ば)と遭遇する。しかし、ガード下の商業ゾーンは「自転車走行禁止区域」なのである。あちこちに「自転車のりいれ禁止」の案内板などが出ているのだが、たぶん気づいていない。わたしもいつの間にかルールが変わっているのに、そのことに気づかないことがよくある。見ようとしないと見えない。
散歩中に公園のベンチ、喫茶店などで読む本をカバンに入れている。今は中野好夫著『風前雨後』(講談社文芸文庫、一九九〇年)をすこしずつ再読している。
中野好夫は一九〇三年八月愛媛生まれ(徳島育ち)。一九八五年没。
『風前雨後』は一九七六年に毎日新聞社が刊行した同じ題のエッセイ集を底本にしている。五十年前の本である。同書所収の「もはや“戦後”ではない」というエッセイを読んだ。一九五六年に発表された随筆――「もはや戦後ではない」は同年の「経済白書」の序文(執筆者は後藤誉之助)で有名になった言葉だが、中野好夫の評論の題が先である。
一九五五年は「戦後十年」の年だった。
その区切りの年に中野好夫は「第一次世界大戦の動き」を思い出す。第一次世界大戦を青年期(また、それに近い壮年期)に経験した世代は「誰もが誰もを信頼しない。頼りになるのは自分だけ」という社会心理に陥った人が多かった。こうした世相は虚無と退廃を生んだ。
それからしばらくして「ほぼ一九三〇年ごろから、徐々として信頼回復の世代」がはじまる。
《あるものはコミュニズムへ、あるものは全体主義へと走った》
《全体主義への誘惑すら、動機的にいえば信念の回復、価値の再建への指向からであったといえる》
一九二九年に世界恐慌が起き、「民主主義の危機」をまねいた。
《信頼回復、価値再建というそれ自体善なる意志も、結果としては逆にかえってファッシズムの猛烈な攻勢を導き入れるようになった》
第一次世界大戦後に広まった個人主義が虚無と頽廃をもたらし、それを何とかしようとして集団主義の風潮が強まった。
中野好夫は「取り返しのつかない過誤の途」とふりかえる。どうすればよかったのか。わたしは個人主義がもたらす頽廃に耐え、適度にいいかげんでだらしなく、それでも何とかなる社会を目指したほうがよかったとおもう。しかしそうはならなかった。この先もむずかしいだろう。
中野好夫の「もはや“戦後”ではない」は「戦争そのものの教訓を忘れることであってよいわけではもちろんないし、まして新しい十年への歩み出しが、単に郷愁的な旧日本復活への途などであってはたまらない」とも記している。
《第一に思うことは、国と国との関係を考える上において宿怨とか報復とかいった感情的な考え方に押し流されないこと、また国際間の動きをただ単純に正と邪、善玉と悪玉といった倫理的範疇だけで考えないような習慣をつけることが一番必要なのではなかろうか。またさらにいえば、そうした考え方をむしろ助長させるような教育は慎まなければならないのではなかろうか》
この中野好夫の論は外交問題への言及である。
《自家側だけが絶対に正で、相手側が絶対に悪玉、すべて「打てよ、こらせよ」式の考え方は、国際的問題の場合非常に危険なように思える》
「打てよ、懲らせよ」は軍歌『敵は幾万』の歌詞の一部である。
この一節を読み、「国際的問題」にかぎらず、何でも敵と味方に分けたり、自分が「絶対に正」と考えたりしてしまうのは、人(動物)の本能に根ざした感覚なのかもしれないとおもう。
わたしは他人の「独善」は見抜けるが、自分の「独善」はわからない。自覚することがむずかしい。