昨日、仕事から帰ってくると、郵便物が届いていた。インターネットの古本屋で注文した黒田三郎著『赤裸々にかたる 詩人の半生』(新日本出版社)だ。
ちっとも「赤裸々」にかたっていないと鮎川信夫が酷評していた本ではあるが、もともとの連載のタイトルは「とはずがたり」なのだがらしょうがない。
黒田三郎は、本のタイトルのつけ方があまりうまくない気がする。『死と死のあいだ』(花神社)にしても、せっかくいい本なのに、この題だとちょっと買う気がしない。
そもそもわたしが『荒地』の詩人に興味をもったのは、十五、六年前、鮎川信夫のコラムや対談を読み、「世の中にはこんなに明晰にあらゆる事を分析できる人がいるのか」と打ちのめされたことがきっかけだった。自分が六十歳になったころ、こういう文章が書けるようになるためには、どうすればいいのか。すごいとはおもうが、どのくらいすごいのか、当時のわたしにはまったく見当がつかなかった。晩年になって、鮎川信夫はこれまでたくわえていた力を一気に放出したようなかんじもした。
とにかく、一歩一歩登っていかないと、その頂上は見えない。
鮎川信夫はわたしにとって仰ぎ見る山のような存在だった。
鮎川信夫の『自我と思想』(思潮社)の黒田三郎の追悼対談のさいの巻末付録の「書き下ろし解註」に、「私は、ひどく憂鬱だった」「長期にわたるスランプ状態が極点に達していた」というような箇所がある。昔、読んだときはそれほど気にとめていなかったが、今回はとても気になった。
鮎川信夫は、六十一歳で詩をやめようとおもっていた。それから詩人の鮎川信夫は、コラムの鮎川信夫になった。
『時代を読む』の帯には「コラムの金字塔」と書かれているが、この帯の文句に偽りはない。
『最後のコラム 鮎川信夫遺稿集103篇』(文藝春秋)の解説で向井敏は「『荒地』の詩人としての名声は名声として、その知力の透徹と社会認識の確かさはむしろこの『時代を読む』において本領を発揮した」と記している。
《鮎川信夫の批評、わけても「時代を読む」で行った一連の批評は、批評として自立したものであって、詩の才能の支えを借りなくてはならないような、あるいは詩に収斂されてしまうような半端なものではなかった》
いっぽう鮎川信夫、吉本隆明著『全否定の原理と倫理』(思潮社)では、鮎川自身、『時代を読む』で行っている批評について次のように語っている。
《鮎川 あのねえ、最近一つだけ自分で変わったなと思うことに、間違いってものをやりたくなったってことはありますね。おかしな言い方だけど、とにかくぼく、間違いってことはやってないんですよ。戦争中からずっと続いて一ぺんもやったことがない。もし間違いがあったらどっからでもかかってこいと言えるくらいやってないわけ。だけどそれには一つの秘密があって、ぼく自身が一種の受動態なんですよ。だから間違うかもしれないってとこには足を出さない。だけどそんなのちっとも感心したことじゃないということに近頃気が付いたんだよ。だってみんなすごくいい加減なことを平然とやって、その割にはしゃあしゃあとしてるよね(笑)。だからおれも少しああいうふうにやってもいいんじゃないかと。間違いを犯してみないと間違った時の気持ちはわからないしね》(「全否定の原理と倫理」)
昔、読んだときは「またすごいこというなあ」と感心したのだが、今のわたしの印象はすこしちがう。これは鮎川信夫の「老化」ではないかとおもう。鮎川信夫ほど、目が見えすぎる人、頭がよすぎる人でも、自分のことになるとわからないものなのかと考えさせられた。
この対談で吉本隆明は、そのことを指摘する。本人を前にして、かなりいいにくいことだとおもうが、あえて諌めようとしたのではないか。
《吉本 だけど鮎川さん、ぼくは鮎川さんのこの二冊の本(『時代を読む』と『疑似現実の神話はがし』)を読んで、生命曲線の踏み方が違うんじゃないかと思えて仕方ないんですがねえ。
鮎川 だけど、きみは最近、「老い」とか「死」についていろいろ言っているけど、どうもぼくは自分の死まで考える余裕がないんだな。まあいずれは自分も直面する問題だけど、今はあんまり考えたくないんだなあ。
吉本 だけど鮎川さん、そういうふうにおっしゃるけど、ぼくは「老い」や「死」の問題は無意識的にあって、はっきり言えば鮎川さんは老い込んでるなという感じがするんですよ。印象としてですがね
鮎川 あっ、そりゃあね。さっきも言ったけど、ぼくはもう踏みはずすのは構わないよって気になったってことはあって、もう面倒臭くなったということはあるだろうね。
それはやっぱり年を取ったからかもしれないね。だけど自分の若い時というのをぼくはそんなにいいとも思っていない》
このやりとりを見るかぎり、鮎川信夫は吉本隆明の言葉を深く受け止めているようにはおもえない。
これはたいへんまずいことだとおもう。
長年対談してきた“盟友”の吉本隆明が鮎川信夫に「老い込んでいる」というのは、よっぽどのことだとおもうのだ。
この対談は一九八五年六月二十八日に行われた。その翌年の十月に鮎川信夫は亡くなっている。
鮎川信夫くらい「偉く」なってしまうと、まわりの人もなかなか注意できなくなる。生半可な批判なら鮎川信夫はすべて反論できる。
また鮎川信夫がそうなってしまった理由は、老いだけではない。その後、吉本隆明とも絶交してしまうのだが、それ以前から鮎川信夫は多くの友人と距離をとるようになっていた。孤立、あるいは孤絶の道に踏み込もうとしていた。
そのことによって研ぎ澄まされた部分もあるかもしれないが、わるい作用のほうが大きかったような気がしてならない。
同世代の友人で自分がおかしくなったとき、ちゃんと注意してくれる人はいるだろうか。さらに自分が齢をとったとき、ひとまわり下、ふたまわり下の若い人の批判を受け止めることができるだろうか。
なんとなく注意しやすい人と注意しにくい人がいる。ちょっとでも批判すると、ものすごく激高したり、逆にすぐへこんでしまう人だと何もいえなくなる。
鮎川信夫のことを仰ぎ見る山のような存在だったと書いた。わたしはすこしずつその山を登ってきた。今、自分が何合目あたりにいるのかはわからないが、黒田三郎の追悼対談を読んだときの違和感がきっかけとなり、すこし冷静に鮎川信夫のことを考えられるようになった気がする。
それ以上に、黒田三郎の詩の素晴らしさに気づくことができたのはほんとうに大きな収穫だった。
これからすこしずつ黒田三郎という山を登ってゆきたいとおもっている。そして『荒地』という山脈も……。
というわけで、「黒田三郎・鮎川信夫」シリーズはひとまず終了します。
また時間ができたら、この続きを書きたいとおもっています。
(追記)
黒田三郎の『赤裸々にかたる』には、古山高麗雄の小説『螢の宿』(「玩具の蛇」)のことが出てくる。
この小説には古山さんの亡母の友人からの手紙が出てくる。
《鹿児島では、私共他国者は「よそもん」或は「ヤドカリサー」とよばれ鹿児島県の方々は区別して卑しんで居りましたが、学校ではそんな事はありませんでした。知事令嬢、七高造士館長令嬢、地方裁判所長令嬢、税務監督局長令嬢みなヤドカリサーです》
それを読んだ黒田三郎は次のように記している。
《もし、僕の母が「玩具の蛇」の作中人物たち、主人公孝雄の亡母みのり、その旧友萩原とき代たちと同年だとしたら、ここに書かれている地方裁判所長令嬢は僕の母のことである》(父母の記)
つまり古山高麗雄の母と黒田三郎の母は同級生だったのである。
わたしは黒田三郎の詩を読みながら、どことなく、古山高麗雄さんと似たようなものを感じていた。
それにしてもほんとうに不思議な縁だなあ。
2007/04/04
荒地の遺産
黒田三郎を読みながら、老いと死の問題を無視して、ひとりの人間の一生をとらえることはできないとおもうようになった。
鮎川信夫の晩年にしても、二十代のころの自分の理解がまったくアテにならないことに気づいた。そうなってくると、ほかの作家についても読み返せば、誤読がいろいろ判明するにちがいない。どこから手をつければいいのやら……。
わたしは一冊の本があったとして、その中でいちばん共感できるポイントを探し、それをもとにその人物の物語を作ってしまう癖がある。黒田三郎であれば、喪失感、あるいは卑小感といったキーワードがある。そのキーワードで人物像を組み立てる。でも当り前だけど、それでは黒田三郎にはならないのである。
もちろん本を自分勝手に読みたいように読むのはありだ。黒田三郎の詩から、黒田三郎のことを考えるのではなく、自分のことを考えればいいとおもっている。でも今はそれだけではもったいない気がする。そのくらい黒田三郎の存在はおもしろい。
《うかうかしているうちに
一年たち二年たち
部屋中にうずたかい書物を
片づけようと思っているうちに
一年たった
昔大学生だったころ
ダンテをよもうと思った
それから三十年
ついきのうことのように
今でもまだそれをあす
よむ気でいる
自分にいまできることが
ほんの少しばかりだとわかっていても
でも そのほんの少しばかりが
少年の夢のように大きく
五十歳をすぎた僕のなかにある》(「あす」/『定本黒田三郎詩集』)
自分が五十歳をすぎたとき、こんなふうにおもうのだろうか。
すこし深読みすれば、この「あす」という詩で、よもうと思って読めないままになっている本は「ダンテ」でなければならない。
五十歳をすぎて、黒田三郎は大学生だったころの詩の仲間とずいぶん生活も思想も離れてしまった。
鮎川信夫は「詩の機能について」(荒地同人編『詩と評論1』国文社)というエッセイで、「T・S・エリオットは、現代において最も深くダンテを讀み、ダンテの影響を強く受けた詩人」だったと書いている。
黒田三郎が「詩の難解さについて」で、「ヨオロッパやアメリカの絢爛たる藝術運動に並んで作品を示している日本の詩人が、ひと度、自分の身の廻りの現實に詩の素材を求め、或いは、自分について語るとき、まるで調子を合わせたように示す日本的貧困さというものを見逃すわけにはゆかないのである」と批判し、鮎川信夫は「詩の機能について」で、「ダンテの『神曲』を理解するのは、バイロンやハイネを理解するほどたやすくないし、ながい詩的體験によつて徐々に理解される詩もあるわけである」と主張した。
かなり早い時期から鮎川信夫と黒田三郎の価値観は食い違っていた。
そうかんがえると、「あす」という詩は、「おれはまだダンテのことを忘れていないよ」という鮎川信夫への黒田三郎のメッセージのようにおもえる。わたしはそう読みたい。
《「荒地」の基盤とは、戦前から続いていた、新しい詩を書こうとしてそれぞれがやってきた仕事をお互いが見つめあうことだった。そこから生まれる一種の遺産のようなものが、永く記憶するに足るものとして、お互いに交換されてきた作品の連鎖のうちがわで形成されてきた。いわば文学的に表現された精神的な遺産といえるものである。これを誰がつくった、どんな形のものであるとは簡単にはいけない。しかし確実に自ずから成る価値として遺ってきているのである》(「風俗とどう関るか」/鮎川信夫著『疑似現実の神話はがし』思潮社)
「荒地」には「相互酷評集団」というだけでなく、そういう一面もあった。しかし黒田三郎の「あす」という詩が発表されたころ、「〈荒地〉の共同理念が彼の内部で無効化していった」(北川透著『荒地論』思潮社)と見られていたのも事実だった。
黒田三郎の詩は、新しい詩でもない。身辺雑記のような軽い詩になってゆく。でもそれはそれで、重厚な詩を書く鮎川信夫という存在がいたからこそ、黒田三郎は軽い詩の世界に向ったのではないか。
憶測だけど、黒田三郎からすれば、鮎川信夫、あるいは田村隆一とはちがう詩の世界を築きたかったのではないか。
《二十何年も勤めなれた
会社へ行く以外 この人生に
行くところがないなんて
一日会社をさぼっても
明日はまた行かねばならぬ
二日さぼっても同じこと
五十歳をすぎて
いま僕は愚かにも秤にかける
そこで得た多くの金銭と
そこで失った目に見えぬものとを》
(「ひとりの個人」抜粋/『定本黒田三郎詩集』)
たぶんこういう詩は鮎川信夫や田村隆一には書けない。『荒地』の中から、こういう詩をつくる詩人が生まれたことで、「荒地の遺産」はより豊かになったともいえる。
黒田三郎が失った目に見えぬものを失わなかった詩人がいたとしても、その詩人には黒田三郎のような詩はつくれない。
わたしは黒田三郎の詩を読みながら、考えさせられる。
多くの金銭を得なかったかわりに、なにを得てきたのか。自分が失ってしまったものはなにか。うかうかしている間に時間ばかりがすぎてゆく。
鮎川信夫の晩年にしても、二十代のころの自分の理解がまったくアテにならないことに気づいた。そうなってくると、ほかの作家についても読み返せば、誤読がいろいろ判明するにちがいない。どこから手をつければいいのやら……。
わたしは一冊の本があったとして、その中でいちばん共感できるポイントを探し、それをもとにその人物の物語を作ってしまう癖がある。黒田三郎であれば、喪失感、あるいは卑小感といったキーワードがある。そのキーワードで人物像を組み立てる。でも当り前だけど、それでは黒田三郎にはならないのである。
もちろん本を自分勝手に読みたいように読むのはありだ。黒田三郎の詩から、黒田三郎のことを考えるのではなく、自分のことを考えればいいとおもっている。でも今はそれだけではもったいない気がする。そのくらい黒田三郎の存在はおもしろい。
《うかうかしているうちに
一年たち二年たち
部屋中にうずたかい書物を
片づけようと思っているうちに
一年たった
昔大学生だったころ
ダンテをよもうと思った
それから三十年
ついきのうことのように
今でもまだそれをあす
よむ気でいる
自分にいまできることが
ほんの少しばかりだとわかっていても
でも そのほんの少しばかりが
少年の夢のように大きく
五十歳をすぎた僕のなかにある》(「あす」/『定本黒田三郎詩集』)
自分が五十歳をすぎたとき、こんなふうにおもうのだろうか。
すこし深読みすれば、この「あす」という詩で、よもうと思って読めないままになっている本は「ダンテ」でなければならない。
五十歳をすぎて、黒田三郎は大学生だったころの詩の仲間とずいぶん生活も思想も離れてしまった。
鮎川信夫は「詩の機能について」(荒地同人編『詩と評論1』国文社)というエッセイで、「T・S・エリオットは、現代において最も深くダンテを讀み、ダンテの影響を強く受けた詩人」だったと書いている。
黒田三郎が「詩の難解さについて」で、「ヨオロッパやアメリカの絢爛たる藝術運動に並んで作品を示している日本の詩人が、ひと度、自分の身の廻りの現實に詩の素材を求め、或いは、自分について語るとき、まるで調子を合わせたように示す日本的貧困さというものを見逃すわけにはゆかないのである」と批判し、鮎川信夫は「詩の機能について」で、「ダンテの『神曲』を理解するのは、バイロンやハイネを理解するほどたやすくないし、ながい詩的體験によつて徐々に理解される詩もあるわけである」と主張した。
かなり早い時期から鮎川信夫と黒田三郎の価値観は食い違っていた。
そうかんがえると、「あす」という詩は、「おれはまだダンテのことを忘れていないよ」という鮎川信夫への黒田三郎のメッセージのようにおもえる。わたしはそう読みたい。
《「荒地」の基盤とは、戦前から続いていた、新しい詩を書こうとしてそれぞれがやってきた仕事をお互いが見つめあうことだった。そこから生まれる一種の遺産のようなものが、永く記憶するに足るものとして、お互いに交換されてきた作品の連鎖のうちがわで形成されてきた。いわば文学的に表現された精神的な遺産といえるものである。これを誰がつくった、どんな形のものであるとは簡単にはいけない。しかし確実に自ずから成る価値として遺ってきているのである》(「風俗とどう関るか」/鮎川信夫著『疑似現実の神話はがし』思潮社)
「荒地」には「相互酷評集団」というだけでなく、そういう一面もあった。しかし黒田三郎の「あす」という詩が発表されたころ、「〈荒地〉の共同理念が彼の内部で無効化していった」(北川透著『荒地論』思潮社)と見られていたのも事実だった。
黒田三郎の詩は、新しい詩でもない。身辺雑記のような軽い詩になってゆく。でもそれはそれで、重厚な詩を書く鮎川信夫という存在がいたからこそ、黒田三郎は軽い詩の世界に向ったのではないか。
憶測だけど、黒田三郎からすれば、鮎川信夫、あるいは田村隆一とはちがう詩の世界を築きたかったのではないか。
《二十何年も勤めなれた
会社へ行く以外 この人生に
行くところがないなんて
一日会社をさぼっても
明日はまた行かねばならぬ
二日さぼっても同じこと
五十歳をすぎて
いま僕は愚かにも秤にかける
そこで得た多くの金銭と
そこで失った目に見えぬものとを》
(「ひとりの個人」抜粋/『定本黒田三郎詩集』)
たぶんこういう詩は鮎川信夫や田村隆一には書けない。『荒地』の中から、こういう詩をつくる詩人が生まれたことで、「荒地の遺産」はより豊かになったともいえる。
黒田三郎が失った目に見えぬものを失わなかった詩人がいたとしても、その詩人には黒田三郎のような詩はつくれない。
わたしは黒田三郎の詩を読みながら、考えさせられる。
多くの金銭を得なかったかわりに、なにを得てきたのか。自分が失ってしまったものはなにか。うかうかしている間に時間ばかりがすぎてゆく。
2007/04/02
友情の強度
黒田三郎は、『小さなユリと』で政治性のある詩をつくらなくなったかのように見えた。ところが、この詩人はそんなに単純ではない。
《『羊の歩み』の中のある詩は、自民党系の新聞『今週の日本』などに発表されている。これが次の詩集『ふるさと』では『民主文学』、社会党系の『社会新報』などに発表されるようになり、さらに晩年の詩集『死後の世界』の詩のあるものは、共産党系の『詩人会議』に発表したものであり、やがて自らこの『詩人会議』という詩人団体の委員長となった。エッセイはしばしば『赤旗』に発表される。このあたりにいまだにわかりにくい黒田の一つの変貌がある》(観賞、飯島耕一/『現代の詩人4 黒田三郎』中央公論社)
一九六九年三月、長年の友人で黒田三郎のほとんどの詩集を出版してきた昭森社の森谷均が亡くなった。飯島耕一によると、当時、神田神保町にあった昭森社の事務所には、書肆ユリイカ、審美社などが同居していた。ユリイカの編集人伊達得夫もずっと森谷と机を並べていたそうだ。
この年の十二月、黒田三郎は五十歳でNHKを退職する。当時、定年は五十五歳だったので、あと五年残しての退社ということになる。森谷均の死とは無関係ではあるまい。
飯島耕一がいうところの「わかりにくい黒田のひとつの変貌」について、鮎川信夫はシビアに分析している。
《鮎川 とかくぼくらの考え方っていうのはいつでも沈滞していて、気分が重たく、実存主義的だったんだけどね。サルトルの「嘔吐」はロカンタンっていうのが主人公なんだけど、生活的にはあれに近い感じになっちゃう。何処にも出口無しって状態でね。たまにいい詩が書けりゃいいや、って程度で、あとは全部八方塞がりって感じになっちゃうでしょ。だからそういう状態っていうものは、普通の人には耐えられないんだろうね。それよりは、間違ってようとなんだろうと、他者との連帯っていうか、隣人と手を繋ぎたいって感覚の方がロカンタン的実存よりは、ましだということになるでしょう》(「戦後の歴史と文学者」/鮎川信夫、吉本隆明著『詩の読解』思潮社)
鮎川信夫は、かつて「純粋詩」をやっていた福田律郎の晩年もそうだったという。「純粋詩」が潰れたあと、彼のところを訪ねたら、家の中じゅう選挙のポスターが貼ってあった。鮎川は「ある意味で希望に輝いていたんだなあ」と回想し、それと同じかんじを黒田三郎にもいだいたと語っている。
森谷均の死によって、黒田三郎も死を意識したのだとおもう。死、あるいは衰えを意識したとき、人の行動はいろいろ分かれる。最後の最後まで自分の小さな世界を掘り下げようとするか。それとも自分のことはどうでもよくなり、政治とか宗教とか、大きな世界に身を捧げるか。このあたりのことは、わたし自身、そういう齢になってみないとわからない。
鮎川信夫は北川透との対談で黒田三郎を批判したことについても、次のようにふりかえっている。
《鮎川 あれは思っていることを言っただけで、むしろかなりぼくとしては控え目なんですよ。だけど、「詩人会議」の人たちから見ると、黒田をバカにしてるようにみえたんでしょうね。でもそれは全く嘘だね。(中略)だってバカにしたって仕様がないし、第一、黒田と知り合ったのは戦争前だからね。彼の晩年、十年そこそこの人とは違うんで、こっちは四十年ぐらいの付き合いがあるんだからね。言葉を交わさなくたってお互いに書いたものは全部見てるし、本も全部交換してるんだからね》(「戦後の歴史と文学者」)
わたしはちょっと誤読していたかもしれない。
鮎川信夫の黒田三郎批判は、『荒地』のメンバーにとって、たいしたことではなかった。そんなことは日常茶飯事だったのだ。『荒地』がそういう人間関係だったことは、つい先月読んだばかりの田村隆一の『若い荒地』(講談社文芸文庫)にも言及されていた。ただそういうことをきちんと受けとめられるだけの経験がなく、ちゃんと理解できなかったのである。
《詩の批評では詩壇的といっていい傾向がないわけではない。その一つに、本当に言いたいことは伏せておいて攻撃する態度をあげたい。かつて僕が黒田三郎について発言したことに対する「詩人会議」の連中の攻撃は、そのようなものであった。黒田三郎については「詩人会議」より僕の方がずっとよく知っているし、黒田がそのことで怒るなどということは仮定としてもありえない。また怒ったところで、どうということもない》(『一九八四年』の視線/鮎川信夫著『疑似現実の神話はがし』思潮社)
『荒地』の中桐雅夫も、やることなすこと鮎川信夫に反対を表明する行動をとった。それは半ば、嫌がらせに近いものだった。黒田三郎の件で鮎川信夫と「詩人会議」が論争になったときも、日頃共産党嫌いだった中桐は、急に彼らにシンパシーをかんじ、嬉しくてそわそわしていたという。
《一時が万事そんな風だったから、私としてはかなり鬱陶しく思うことがあった。彼の反対行動は、どこまでやったら私が怒るか、それによって友情の強度を試しているようなあんばいだったのである》(「『美酒すこし』解説」)
わたしは友情の強度という言葉にしびれた。
中桐の訃報に接して、鮎川信夫は通夜に行かなかった。その死顔を見たくなかったし、中桐も見せたくないだろうと考えたからだという。
《一つだけはっきりしていたのは、私が死んだのだとしたら、友達には誰も来てもらいたくないな、ということである。それが十代の終りから相互酷評集団だった「荒地」の仲間のせめてのもの情けではないか》(「『美酒すこし』解説」)
黒田三郎も中桐雅夫も大酒飲みだった。とくに黒田三郎の目がすわってくると中桐雅夫や田村隆一ですら逃げ出すほど、酒癖がわるかったそうだ。
追悼を趣旨した対談で、鮎川信夫が黒田三郎を批判したのも、彼らの友情の証であり、半ばヤケクソで喋っていたのではないか。うーんなんというか、面倒くさい友情だなあともおもう。
《『羊の歩み』の中のある詩は、自民党系の新聞『今週の日本』などに発表されている。これが次の詩集『ふるさと』では『民主文学』、社会党系の『社会新報』などに発表されるようになり、さらに晩年の詩集『死後の世界』の詩のあるものは、共産党系の『詩人会議』に発表したものであり、やがて自らこの『詩人会議』という詩人団体の委員長となった。エッセイはしばしば『赤旗』に発表される。このあたりにいまだにわかりにくい黒田の一つの変貌がある》(観賞、飯島耕一/『現代の詩人4 黒田三郎』中央公論社)
一九六九年三月、長年の友人で黒田三郎のほとんどの詩集を出版してきた昭森社の森谷均が亡くなった。飯島耕一によると、当時、神田神保町にあった昭森社の事務所には、書肆ユリイカ、審美社などが同居していた。ユリイカの編集人伊達得夫もずっと森谷と机を並べていたそうだ。
この年の十二月、黒田三郎は五十歳でNHKを退職する。当時、定年は五十五歳だったので、あと五年残しての退社ということになる。森谷均の死とは無関係ではあるまい。
飯島耕一がいうところの「わかりにくい黒田のひとつの変貌」について、鮎川信夫はシビアに分析している。
《鮎川 とかくぼくらの考え方っていうのはいつでも沈滞していて、気分が重たく、実存主義的だったんだけどね。サルトルの「嘔吐」はロカンタンっていうのが主人公なんだけど、生活的にはあれに近い感じになっちゃう。何処にも出口無しって状態でね。たまにいい詩が書けりゃいいや、って程度で、あとは全部八方塞がりって感じになっちゃうでしょ。だからそういう状態っていうものは、普通の人には耐えられないんだろうね。それよりは、間違ってようとなんだろうと、他者との連帯っていうか、隣人と手を繋ぎたいって感覚の方がロカンタン的実存よりは、ましだということになるでしょう》(「戦後の歴史と文学者」/鮎川信夫、吉本隆明著『詩の読解』思潮社)
鮎川信夫は、かつて「純粋詩」をやっていた福田律郎の晩年もそうだったという。「純粋詩」が潰れたあと、彼のところを訪ねたら、家の中じゅう選挙のポスターが貼ってあった。鮎川は「ある意味で希望に輝いていたんだなあ」と回想し、それと同じかんじを黒田三郎にもいだいたと語っている。
森谷均の死によって、黒田三郎も死を意識したのだとおもう。死、あるいは衰えを意識したとき、人の行動はいろいろ分かれる。最後の最後まで自分の小さな世界を掘り下げようとするか。それとも自分のことはどうでもよくなり、政治とか宗教とか、大きな世界に身を捧げるか。このあたりのことは、わたし自身、そういう齢になってみないとわからない。
鮎川信夫は北川透との対談で黒田三郎を批判したことについても、次のようにふりかえっている。
《鮎川 あれは思っていることを言っただけで、むしろかなりぼくとしては控え目なんですよ。だけど、「詩人会議」の人たちから見ると、黒田をバカにしてるようにみえたんでしょうね。でもそれは全く嘘だね。(中略)だってバカにしたって仕様がないし、第一、黒田と知り合ったのは戦争前だからね。彼の晩年、十年そこそこの人とは違うんで、こっちは四十年ぐらいの付き合いがあるんだからね。言葉を交わさなくたってお互いに書いたものは全部見てるし、本も全部交換してるんだからね》(「戦後の歴史と文学者」)
わたしはちょっと誤読していたかもしれない。
鮎川信夫の黒田三郎批判は、『荒地』のメンバーにとって、たいしたことではなかった。そんなことは日常茶飯事だったのだ。『荒地』がそういう人間関係だったことは、つい先月読んだばかりの田村隆一の『若い荒地』(講談社文芸文庫)にも言及されていた。ただそういうことをきちんと受けとめられるだけの経験がなく、ちゃんと理解できなかったのである。
《詩の批評では詩壇的といっていい傾向がないわけではない。その一つに、本当に言いたいことは伏せておいて攻撃する態度をあげたい。かつて僕が黒田三郎について発言したことに対する「詩人会議」の連中の攻撃は、そのようなものであった。黒田三郎については「詩人会議」より僕の方がずっとよく知っているし、黒田がそのことで怒るなどということは仮定としてもありえない。また怒ったところで、どうということもない》(『一九八四年』の視線/鮎川信夫著『疑似現実の神話はがし』思潮社)
『荒地』の中桐雅夫も、やることなすこと鮎川信夫に反対を表明する行動をとった。それは半ば、嫌がらせに近いものだった。黒田三郎の件で鮎川信夫と「詩人会議」が論争になったときも、日頃共産党嫌いだった中桐は、急に彼らにシンパシーをかんじ、嬉しくてそわそわしていたという。
《一時が万事そんな風だったから、私としてはかなり鬱陶しく思うことがあった。彼の反対行動は、どこまでやったら私が怒るか、それによって友情の強度を試しているようなあんばいだったのである》(「『美酒すこし』解説」)
わたしは友情の強度という言葉にしびれた。
中桐の訃報に接して、鮎川信夫は通夜に行かなかった。その死顔を見たくなかったし、中桐も見せたくないだろうと考えたからだという。
《一つだけはっきりしていたのは、私が死んだのだとしたら、友達には誰も来てもらいたくないな、ということである。それが十代の終りから相互酷評集団だった「荒地」の仲間のせめてのもの情けではないか》(「『美酒すこし』解説」)
黒田三郎も中桐雅夫も大酒飲みだった。とくに黒田三郎の目がすわってくると中桐雅夫や田村隆一ですら逃げ出すほど、酒癖がわるかったそうだ。
追悼を趣旨した対談で、鮎川信夫が黒田三郎を批判したのも、彼らの友情の証であり、半ばヤケクソで喋っていたのではないか。うーんなんというか、面倒くさい友情だなあともおもう。
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