仕事が一段落し、十日ぶりくらいに中野ブロードウェイのまんだらけに行く。
家にずっとこもって文章を書いて、その合間に古本屋に行って、人と会話するのは飲み屋に行ったときだけ。
わたしはそういう生活がきらいではないのだが、これは不健康なことかもしれない。でも生きていく上で不健康さにたいする耐性は必要だとおもっている。
鮎川信夫の「文化の基盤」という言葉について、もうすこし考えてみたい。
彼は「単独者」であることを自分に課していた詩人だ。
廃虚のような埃の堆積した家で詩を書き、親しい知人の間ですら、その私生活は謎だった。そういう人物が「文化の基盤」の重要性を説いているのである。
また鮎川信夫は「荒地」の詩人は「相互酷評集団」だったと語っていた。晩年は疎遠になったが、吉本隆明と長期にわたる対談も鮎川信夫の「文化の基盤」につながっていたのではないか。
詩人にかぎらず、誰とも共有できない(共有しにくい)観念をもち続けることはけっこうしんどい。
今の時代はインターネットの普及によって、同好の士を見つけることは昔よりは楽になった。簡単に得られるものは簡単に失いやすい。ひとりで考えていると「わかりあえる」「わかりあえない」の境界がどんどん曖昧になってしまう。
自分の理解が浅いから通じないのか、考えがヘンだから通じないのか、いい方がまぎらわしいから通じないのかも曖昧になる。
「わかりあえない(わかりにくい)」ものを通じさせたいとおもうと、まわりくどいいい方になりがちだし、共感と同じかそれ以上に反発や黙殺がある。
たとえ無理解(自分の無力さに起因するところもふくむ)にさらされても「文化の基盤」のようなものがあれば、気持を立て直しやすくなるのではないか。
(……続く)
2010/12/05
文化の基盤 その一
おととい、神保町で打ち合わせのあと、東西線で九段下から中野まで帰り、JRに乗り換えようとしたら、強風のため、総武線の中野三鷹間が運休になった(中央線は走っていた)。
それで中野から歩いて帰った。
中野から高円寺までガード沿いをまっすぐ歩きながら、考え事をすると頭の中が整理される。
この日、電車の中で鮎川信夫の『疑似現実の神話はがし』(思潮社、一九八五年)を再読していた。おそらく十数回は読んでいる本なのだが、読み返すたびに、そのときどきの自分にとって、切実なテーマが浮上してくる。
《先ほど僕は「文化の基盤」ということを言ったが、現実との詩人の闘争を考える場合、どんな基盤に立って闘うかが大事である。それがだめだと、どんな天才を持ってしてもどうにもならない。ただそこに存在する、というだけでなく、継続してそこで残されていくものを考えた場合、その基盤がきわめて重要なのである》(「風俗とどう関るか」)
詩と風俗のかかわりだけでなく、たぶん鮎川信夫はそのもっと先の深い問題を語ろうとしている。
「文化の基盤」という言葉がその鍵である。しかし、昔読んだときはピンとこなかった。
引用文の前に、次のように語った箇所がある。
《自分の詩については、どんな詩人でも自分の詩が何であるのか、どういう位置でどんな詩を書いているのかを知っていなければならない。創造とは主観的な行為であるとしても、客観的な批評眼をそれに加えてみる必要がある。自分がどんな文化的な基盤に立っているかを知るのは大切なことである》
鮎川信夫や「荒地」の詩人は、戦前から「新しい詩」を書こうとし、お互いの詩を見つめあい、そこからお互いの作品が連鎖し「一種の遺産のようなもの」が形成されてきた。そうした「基盤」があるからこそ、今はだめでもいつかそれ以上のものを作ろうという気になる。グループの活動が解体してもそのつながりは残る。
これは「荒地」の話ではあるが、映画でも音楽でも漫画でも発展しながら継承されていく基盤はあるはずだ。
中央線文士、鎌倉文士、戦後派、第三の新人、トキワ荘……。
かならずしも作風や才能の質はちがえど、多くの才能を生み出した「場」の力の存在は疑いようがない。
例外はあるとおもうが、ひとりで活動しているよりもそうした「場」があったほうが持続しやすいということもあるだろう。
「文化の基盤」があるからこそ持続するのか、持続するからこそ「文化の基盤」が作られるのか、どちらともいえないところもある。
すくなくとも、持続のためには自分の位置を知っておく必要はある。
「文化の基盤」には何らかの路線があって、それに沿って走る時期もあれば、あえて脱線を試みる時期もある。逆にそうした路線なくなると、脱線しようにも脱線しようがなく、ひたすら空回りしているような徒労感に陥ることになる。
(……続く)
それで中野から歩いて帰った。
中野から高円寺までガード沿いをまっすぐ歩きながら、考え事をすると頭の中が整理される。
この日、電車の中で鮎川信夫の『疑似現実の神話はがし』(思潮社、一九八五年)を再読していた。おそらく十数回は読んでいる本なのだが、読み返すたびに、そのときどきの自分にとって、切実なテーマが浮上してくる。
《先ほど僕は「文化の基盤」ということを言ったが、現実との詩人の闘争を考える場合、どんな基盤に立って闘うかが大事である。それがだめだと、どんな天才を持ってしてもどうにもならない。ただそこに存在する、というだけでなく、継続してそこで残されていくものを考えた場合、その基盤がきわめて重要なのである》(「風俗とどう関るか」)
詩と風俗のかかわりだけでなく、たぶん鮎川信夫はそのもっと先の深い問題を語ろうとしている。
「文化の基盤」という言葉がその鍵である。しかし、昔読んだときはピンとこなかった。
引用文の前に、次のように語った箇所がある。
《自分の詩については、どんな詩人でも自分の詩が何であるのか、どういう位置でどんな詩を書いているのかを知っていなければならない。創造とは主観的な行為であるとしても、客観的な批評眼をそれに加えてみる必要がある。自分がどんな文化的な基盤に立っているかを知るのは大切なことである》
鮎川信夫や「荒地」の詩人は、戦前から「新しい詩」を書こうとし、お互いの詩を見つめあい、そこからお互いの作品が連鎖し「一種の遺産のようなもの」が形成されてきた。そうした「基盤」があるからこそ、今はだめでもいつかそれ以上のものを作ろうという気になる。グループの活動が解体してもそのつながりは残る。
これは「荒地」の話ではあるが、映画でも音楽でも漫画でも発展しながら継承されていく基盤はあるはずだ。
中央線文士、鎌倉文士、戦後派、第三の新人、トキワ荘……。
かならずしも作風や才能の質はちがえど、多くの才能を生み出した「場」の力の存在は疑いようがない。
例外はあるとおもうが、ひとりで活動しているよりもそうした「場」があったほうが持続しやすいということもあるだろう。
「文化の基盤」があるからこそ持続するのか、持続するからこそ「文化の基盤」が作られるのか、どちらともいえないところもある。
すくなくとも、持続のためには自分の位置を知っておく必要はある。
「文化の基盤」には何らかの路線があって、それに沿って走る時期もあれば、あえて脱線を試みる時期もある。逆にそうした路線なくなると、脱線しようにも脱線しようがなく、ひたすら空回りしているような徒労感に陥ることになる。
(……続く)
2010/12/03
高円寺文庫センター
南陀楼綾繁さんとコクテイルとペリカン時代で飲む。
そのときにもすこし話題になったのだが、高円寺文庫センターが十二月二十五日で閉店することになった(わたしは来年一月に閉店と聞いていたので、南陀楼さんにもそういってしまったのだが)。
一九八九年の秋から高円寺に住んでいる。当時は毎日のように深夜に文庫センターで雑誌と漫画をチェックしてから家に帰った。
前の店舗だったころは、友達や編集者との待ち合わせ場所としてもよく利用していた。
かなり偏った品ぞろえだったが、「自分たちはこういう本を売りたいんだ」という気迫が伝わってくる棚だった。
同業の知人は「高円寺文庫センターのような店が日本に百軒くらいあったら、アルバイトをしなくても食っていけるようになるのになあ」とよくいっていた。
今年から店の半分が、古本の棚になり、知り合いの古本屋さんもかかわっていたので、あまり経営がおもわしくないという話はちらほら聞いていた。
いつかその日がくることは、あるていど覚悟はしていた。
かつての文庫センターのあった場所は、その後、スマイルベーカリーというパン屋になり、今はオシャレな飲み屋になっている。
*
先日、上京していた東賢次郎さんの『レフトオーバー・スクラップ』(ふぉとん叢書・冬花社)が届く。
夢をモチーフにした連作短篇。ストーリーうんぬんではなく、とにかく文章がしみこんでくる。
はじめてこの小説を読んだのが、ペリカン時代のカウンターだったので、いろいろな意味で酔った。
《三十七歳になった月の末日で東京での仕事を辞め、その日の夕方には京都にきてそのまま住み始めて以来働いたことはなく、退屈したことも一度もないが、蓄えは減っていく一方なので、きりつめた生活の先に不安がないかといえばもちろんないはずはない。それで日々何をしているのかといわれると、好きな音楽をときどき人前で演奏している、というぐらいのことしかしていない》(ないないづくし——あとがき)
上京中の東さんと五日連続で飲んだ。
京都での生活の話は、そのまま小説になるのではないかとおもえた。
同じ日、山川直人さんの『澄江堂主人』(前篇・エンターブレイン)も届いた。
芥川龍之介や佐藤春夫が漫画家という設定で、画家で装丁家の小穴隆一も出てくる。「田端文士村」は「田端漫画家村」になっている。
当時の作家(設定では漫画家だけど)群像だけでなく、大正から昭和初期の時代の雰囲気が、ものすごく緻密に描かれているから、一コマ一コマゆっくり読みたくなる。
《「遺伝」「境遇」「偶然」
「我々の運命を司るものは畢竟この三者である」》
全三巻の予定らしい。完結したらまちがいなく大きな漫画賞を受賞するとおもう。
そのときにもすこし話題になったのだが、高円寺文庫センターが十二月二十五日で閉店することになった(わたしは来年一月に閉店と聞いていたので、南陀楼さんにもそういってしまったのだが)。
一九八九年の秋から高円寺に住んでいる。当時は毎日のように深夜に文庫センターで雑誌と漫画をチェックしてから家に帰った。
前の店舗だったころは、友達や編集者との待ち合わせ場所としてもよく利用していた。
かなり偏った品ぞろえだったが、「自分たちはこういう本を売りたいんだ」という気迫が伝わってくる棚だった。
同業の知人は「高円寺文庫センターのような店が日本に百軒くらいあったら、アルバイトをしなくても食っていけるようになるのになあ」とよくいっていた。
今年から店の半分が、古本の棚になり、知り合いの古本屋さんもかかわっていたので、あまり経営がおもわしくないという話はちらほら聞いていた。
いつかその日がくることは、あるていど覚悟はしていた。
かつての文庫センターのあった場所は、その後、スマイルベーカリーというパン屋になり、今はオシャレな飲み屋になっている。
*
先日、上京していた東賢次郎さんの『レフトオーバー・スクラップ』(ふぉとん叢書・冬花社)が届く。
夢をモチーフにした連作短篇。ストーリーうんぬんではなく、とにかく文章がしみこんでくる。
はじめてこの小説を読んだのが、ペリカン時代のカウンターだったので、いろいろな意味で酔った。
《三十七歳になった月の末日で東京での仕事を辞め、その日の夕方には京都にきてそのまま住み始めて以来働いたことはなく、退屈したことも一度もないが、蓄えは減っていく一方なので、きりつめた生活の先に不安がないかといえばもちろんないはずはない。それで日々何をしているのかといわれると、好きな音楽をときどき人前で演奏している、というぐらいのことしかしていない》(ないないづくし——あとがき)
上京中の東さんと五日連続で飲んだ。
京都での生活の話は、そのまま小説になるのではないかとおもえた。
同じ日、山川直人さんの『澄江堂主人』(前篇・エンターブレイン)も届いた。
芥川龍之介や佐藤春夫が漫画家という設定で、画家で装丁家の小穴隆一も出てくる。「田端文士村」は「田端漫画家村」になっている。
当時の作家(設定では漫画家だけど)群像だけでなく、大正から昭和初期の時代の雰囲気が、ものすごく緻密に描かれているから、一コマ一コマゆっくり読みたくなる。
《「遺伝」「境遇」「偶然」
「我々の運命を司るものは畢竟この三者である」》
全三巻の予定らしい。完結したらまちがいなく大きな漫画賞を受賞するとおもう。
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