2024/01/22

心細し

 先週、池袋で打ち合わせ。目白駅から池袋まで歩く。途中、古書往来座、カフェ・ベローチェ南池袋一丁目店でコーヒー。池袋はベローチェが八店舗もある。高円寺には一軒もないので羨ましい(中野は三店舗)。

 往来座では森本元子『十六夜日記・夜の鶴 全訳注』(講談社学術文庫、一九七九年)など。学術文庫の『十六夜日記』は現在品切で古書価は定価の四倍くらいになっている。『十六夜日記』は鎌倉中期の日記文学——作者・阿仏尼は十代で出家し、その後、三十歳前後で藤原為家の側室になった。

 一二七九(弘安二)年、阿仏尼は正妻との相続問題を幕府に訴えるため鎌倉に向かう。

 阿仏尼は一二二二(貞応元)年の生まれ(推定)。没年は一二八三(弘安六)年ごろ。

 同書「旅路の章」は不破の関、笠縫の駅、洲俣、一の宮などを通る美濃廻り東海道の旅の記録である。

 時代によって東海道は伊勢廻り、美濃廻りなど、コースがちがう。
 現在の東海道本線は中世の東海道のルートに近い。
 街道史と鉄道史は密接な関係がある。「駅」という言葉にしても街道由来である。

 洲俣の注に「美濃の国安八郡。源を飛騨山に発し、尾張の国との境を流れる。当時はかなり大河だったらしい。古くは『更級日記』にもみえる」とある。

《二十三日、天竜の渡りといふ。舟に乗るに、西行が昔もおもひいでられて、いと心細し》

《二十四日、昼になりて小夜の中山越ゆ》

 学術文庫の解説では西行の「いのちなりけり小夜の中山」を紹介している。

 西行は一一一八(元永元)年生まれ、一一九〇(文治六年)年没。阿仏尼が生まれる三十年ちょっと前に亡くなっている。年は百歳以上離れている。

 阿仏尼は西行の歌だけでなく、様々な逸話にも精通している。阿仏尼にとって西行は憧れの人だった。

『十六夜日記・夜の鶴 全訳注』によると、古典語の「心細し」は「『源氏物語』などで一種の美感を示す語として用いられている」とある。
 阿仏尼は西行が天竜川で武士に「人数が多い」と舟を降ろされ、鞭で打たれた逸話を思い出し、心細くなった。でも阿仏尼からすれば、天竜の渡りの「いと心細し」は単なる不安ではなく、かつて西行が渡った川を自分も渡ることにたいする感慨もあったかもしれない。

2024/01/17

上路

 土曜昼すぎ西部古書会館。大均一祭初日(一冊二百円)——『別冊山と溪谷 歩く旅』(NO.1、一九九九年)含め九冊。『歩く旅』の特集は「中山道六十九次を歩く」。綴込付録「中山道533kmを歩く パーフェクト・ガイド&マップ」(三十五頁)。
 午後三時、新中野まで散歩。途中、小雨そのあと雪(霙)がすこし降る。

 室町時代の作・謡曲「山姥」の百万山姥は琵琶湖北岸から礪波山へ。
 礪波の関は万葉集——大友家持の歌「焼太刀を砺波の関に明日よりは守部遣り添え君を留めむ」の歌でも知られる。

 礪波山は越中と加賀の国境にあり、標高二百七十七メートル。もうすこし高い山かとおもっていた。場所は金沢と高岡の中間くらい。北上すれば能登半島である。

 木下良編『古代を考える 古代道路』(吉川弘文館、一九九六年)の「北陸道 その計画性および水運との結びつき」(金坂清則)の付箋を貼ったところを読み返す。

《京への公式日数は、越前が六日、加賀が八日、能登と越中が二七日、越後が三六日、佐渡が四九日であり、越後と佐渡の日数は出羽の五二日次いで長かった》

「加賀が八日、能登と越中が二七日」——地図を見るとこんなに日数の差が出るのは信じ難い。それほど難路だったのか。古代の道、わからない。

 北陸道は「重要な水運ルート」で湊を兼ねる駅が多かった。積雪期に陸路が通れなくなると船で移動した。

 謡曲「山姥」の場合、百万山姥は従者を連れていて、途中、乗物(駕籠?)も利用している。琵琶湖以外は船に乗っていないと仮定すると京から礪波山まで十日、あるいは二週間くらいかかっているかもしれない。

 礪波山を経て、いよいよ百万山姥は境川へ。

《雲路うながす三越路の、国の末なる里とへば、いとゞ都は遠ざかる、さかひ川にも着にけり》

 三越路(みこしじ)は越前・越中・越後の三国、または三国への道である。
 越中と越後の境を流れる境川から山姥の里までは上路(あげろ)を通る。現在の県道115号と上路はほぼ重なっている。

 藤岡謙二郎編『古代日本の交通路Ⅱ』(大明堂、一九七八年)の「滄海駅」の項に「境川を渡った後、さらに海岸をたどると親不知子不知の天険を通ることになる訳で、平野団三は『境川を過ぎた駅馬は上路を越え歌に下ったと思われる』と述べている」とある。

 百万山姥も親不知を避け、上路を通り、山姥の里に迷い込む。

 上路は滄海に通じる。滄海から信濃の善光寺までの道は謡曲「山姥」には記されていない。
 古代の北陸道から善光寺までは水門(みと)から上越妙高を通る道がある。ちなみに、水門は現在の直江津あたり。古代の国府も直江津にあった。

 百万山姥の歩みに関して、糸魚川から姫川沿いに歩いて白馬経由で善光寺に向ったのではないかと考えていた。しかし海沿いの難路を迂回したことを考慮すると、多少遠回りになっても水門(直江津)から善光寺に向かう安全なルートを選んだかもしれない。

 仮に百万山姥が善光寺に辿り着いていたとしたら、帰路は東山道(中山道)を通った可能性もある。行きと帰りで別の道を通るのは江戸期の伊勢参りなどでもよくあった。

2024/01/12

礪波山まで

 誰に頼まれたわけではないが、謡曲「山姥」の百万山姥の歩みを調べている。
 百万山姥は京を出て、琵琶湖北岸から北陸道に向う途中、「愛発(あら地)」を通る。古代三関の愛発の関がどこにあるのか——古道に関する本を読んでも諸説いりみだれている。

 愛発関に限らず、和歌の歌枕の地でもそういうことがよくある。
 白河の関(福島県白河市)の場所は江戸後期(一八〇〇年ごろ)に特定されたが、それまでは不明だった。

 謡曲「山姥」に出てくる地名は「あら地」を経て「袖に露ちる玉江のはし」「かけてすゑある越路の旅」「こずゑ浪立しほこしの」「あたかの松の夕けぶり」「きえぬうき身のつみをきるみだのつるぎのとなみ山」と続く。

 わたしは「玉江のはし」がどこなのか見当もつかなかった(のでネットで検索した)。福井市花堂北に「玉江二の橋」という橋がある。JR北陸本線の越前花堂駅、福井鉄道福武線の花堂駅がもより駅で旧北陸道、狐川にかかる。玉江二の橋が謡曲「山姥」の「玉江のはし」と同じ場所かどうかはわからない。かつてこのあたりは湿地だったという説もあり、川の流れが変わることもある。
「こずゑ浪立しほこしの」の「しほこし」は「塩越(汐越)」で福井県あわら市——西行が歌を作っている。

《夜もすがら 嵐に波をはこばせて 月をたれたる 汐越の松》

 あわら市は福井県と石川県の県境の市。二〇〇四年三月に坂井郡芦原町、金津町が合併してあわら市になった。
 今年三月十六日、北陸新幹線芦原温泉駅が開業予定である。芦原温泉からは東尋坊も近い。

「あたかの松」の「安宅(石川県小松市)」もかつて関所があった地で「勧進帳」の舞台である。小松空港のすぐそばだ。

「となみ山」は「礪波山(富山県小矢部市)」で源平合戦で有名な倶利伽羅峠もある。倶利伽羅峠の戦い(一一八三年)は礪波(砺波)山の戦いともいう。

 謡曲「山姥」の信濃の善光寺行きの道のりは古代の関所、古戦場跡など史蹟めぐりもかねていたようだ。
 室町時代は関所が乱立していた時代だった。関所を通るたびに関銭(通行料)がかかる。

 大島延次郎著『関所 その歴史と実態』(人物往来社)には「文明十一年(一四七九)には、奈良から山城・近江をへて、美濃の明智に至る間に二十九関をもうけたと伝えている」とある。

 謡曲「山姥」の遊女が東山道(後の中山道)ではなく、北陸道から善光寺に向ったのは当時乱立していた関所を避けようとしたのかもしれない。ちがうかもしれない。