2026/07/30

万葉閑話

 福原麟太郎著『読書と或る人生』(新潮選書、一九六七年)にこんな一節があった。

《この間の戦争に日本の青年や学生たちはどんな本を持って出征したのであったろうか。『万葉集』を彼らが愛したことを私は覚えている》

 ここのところ、わたしは『万葉集』にとりつかれている。歌枕について調べているうちに和歌の世界に入り浸るようになった。街道歩きをしていると万葉の歌碑をよく見かける。行く先々で見る。
 日々の生活に疲れていた四十代から五十代にかけて、街道と歌枕の面白さを知ったのは幸甚だった。一生飽きない暇つぶしの種を見つけた気分である。

 そもそも歌枕に興味を持つきっかけは福原麟太郎の随筆「命なりけり」——そのタイトルの元になっている西行の和歌がきっかけだった。

《年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山》

 五十代後半になって、自分が古典好きになるとはおもわなかった。本に導かれ、迷わされ、今に至る。

『読書と或る人生』で、福原麟太郎は出征兵士と『万葉集』について、「遠い昔を今に語る日本人の叙情を喜んだのであろうか」とその心情を推察している。

《古典文学には人間的な古めかしい美しさと並んで、やはり祖国的な香りや味があってそれが古典の意味を深めているのか》

《『万葉集』は出征兵士が背嚢の中に入れてゆくに適当な詩歌集であったのであろう》

 日中戦争、太平洋戦争の時期、『万葉集』は、国威発揚や戦意高揚に利用された。
 西行や芭蕉もそうだった。
 戦後の日本は軍国主義の社会を変えていかねばならない(その方向性は正しい)という気持が強すぎて、俳句も短歌も川柳も否定する人たちがいた。
 戦時中の日本は様々な娯楽を禁じた結果、多くの文化を歪めてしまった。「『万葉集』くらい気楽に読ませろや」と不満を溜めていた人はけっこういたはずだ。

 わたしは山上憶良の影響で伯耆の国や大宰府に行きたくなっている。
 奈良時代の鳥取や福岡の町がどんな感じだったのか知りたい。ひょっとしたら頻繁に遷都していた都より、住みやすかったのではないか。

 大宰府には山上憶良もそうだが、大伴旅人もいた。
 都と地方の両方の風土、暮らしを知っていることは創作の面でもプラスに働いたにちがいない。

 時代はちがえど、わたしの友人知人も東京からいろいろな場所に移住し、農業をしたり、雑誌を作ったり、音楽をやったり、楽しそうに暮らしている。
 しかも昔とは比べられないくらい移動も楽になった。

『万葉集』を読みながら、自分が高円寺にいる意味について、ついつい考えてしまう。もちろん町への愛着はある。行きつけの飲み屋と西部古書会館――この二つも東京を離れがたい理由になっている。

 ただ、年をとるにつれ、以前ほど外で酒を飲まなくなったし、本の置き場所には年中困っている。

 もうすこし家賃が安くて広い部屋が借りられる町に引っ越してもいいのではないか。何十年と同じことを自問自答している。そして結論はいつもうやむやになる。

 山上憶良が伯耆守に任命されたのは今のわたしと同じくらいの齢(五十六、七歳)である。さらに大宰府に赴任したのは六十代半ばすぎだった。奈良時代の平均寿命を考えると、かなりの高齢である。

『万葉集』を読みはじめ、真っ先に山上憶良が気になったのも年齢の問題もある。還暦すぎても創作意欲が衰えなかったどころか、『貧窮問答歌』をはじめ、代表作は大宰府時代に作られている。

 これぞ万葉のロマンである。

2026/07/26

二人の山田五郎

 山田五郎が亡くなった。享年六十七。一九五八年十二月生まれ。共著を含め、著作もいろいろ出している。

 山田五郎の思い出……といっても面識はない。昔、二十代半ばの半失業時代に、わたしは古本屋で山田五郎著『キャフェのテラスで』(清水弘文堂書房、一九八八年)という本を買った。

 わたしがこの本を買った時期は、ちょうど山田五郎がテレビに出始めたころだ。

『キャフェのテラスで』の山田五郎はおそらく一九四〇年前後の生まれ。普通に読めば、まちがえることはない。でも『キャフェ』の山田さん、上智大学卒でヨーロッパに留学をしていて、若いころから雑誌に文章を書き、編集の仕事もしているのである。ほな山田五郎やないか。

 本の帯には「『時』の熟成を伝える『軽文学』の響き!」とある。

『キャフェのテラスで』はやや縦が短い判型で、短文を集めたエッセイ集である。この本に「原稿」と題したエッセイがある。

《私のまわりには、二種類の人間がいる。文章を紙に書きつけるとお金になると考えている人間と、書けば書くほど出費がかさむと考える人である》

《ある時、「もの書き」の一人が、つくづくと話してきかせれくれたことには、同人雑誌に載っている作品ほど、コワイものはないそうである。なにしろ、身銭をきって書くのである》

『キャフェのテラスで』のプロフィール欄には「東京・有楽町にて街頭詩人を勤める。『月刊えくてびあん』編集人。ぐるーぷ・ぱあめ同人。文芸誌『とんぼ』同人」とある。生年月日は載っていない。

 創作集団「ぐるーぷ・ぱあめ」の礒貝浩は同書の装丁・挿画を手がけている。「ぐるーぷ・ぱあめ」は“伝説”の編集プロダクションである。礒貝浩と山田五郎は上智大学時代の知り合い。礒貝浩は一九四〇年生まれ。『キャフェ』の山田五郎も同世代だろう。

 わたしは仕事部屋の本棚に『キャフェのテラスで』と『山田五郎のマニア解体新書』(講談社、二〇〇六年)を並べていた。

『山田五郎のマニア解体新書』の冒頭には「『マニア道』十一箇条」(山田五郎 認定!)が載っている。

一、マニアは趣味を仕事にしない
一、マニアは見返りを期待しない
一、マニアは決して妥協しない
一、マニアは変に欲張らない
一、マニアは気を散らさない
一、マニアは手間ひま、カネを惜しまない
一、マニアは他人にやさしく、自分に厳しい
一、マニアは無口なほうがいい
一、マニアは意味を求めない
一、マニアに定年はない
一、マニアは(いろんな意味で)怖い

 山田五郎自身、いろいろなものを収集してきたが「マニア」の域には達していないと自嘲している。
 同書の対談でみうらじゅんは「人を喜ばせようとか、笑いをとろうとか、エンタテインメントが入るとマニアじゃなくなると思う」と語っている。

 山田五郎著『キャフェのテラスで』に「散歩」というエッセイがある。

《散歩は「趣味」などという範疇はとうに超えている。何かの「役に立つ」というような実用性はない。だからといって即「趣味」と規定するのは早計にすぎよう。断固、何の役にもたたない。むしろ、ここに散歩の骨頂があり、「可愛らしさ」もそこにある》

 街頭詩人であり、同人誌活動もしていた『キャフェ』の山田五郎はNHK・FMの「クロスオーバーイレブン」の台本のスクリプトを担当していた。一九六〇年代の話である。

 何をどう読んでも別人なのだが、わたしは二人の山田五郎を同一人物と思っていた時期がある。別人とわかっていて、それでも読みたいならかまわないが、勘違いで購入しないよう気をつけてください。

(追記) 『キャフェのテラスで』のインターネットの古書価の話を書いたが、記憶違いの可能性があったのでその部分を削りました。ちなみに現在(七月二十八日)在庫なし。『山田五郎のマニア解体新書』も入手難になっているようだ。

2026/07/21

月は上弦

 三連休、ずっと高円寺で過ごす。十八日(土)は西部古書会館と大和町八幡神社の大盆踊り会、十九日(日)は……何をしてたか。布団カバーを洗ったり、大量のタマネギを刻んだり、ニンジンをピーラーで削ったりした。あと漫画を読んでいた。
 二十日(月・祝)は夕方起きて、午後六時半すぎ、高円寺図書館に行く。三階の階段付近から東京スカイツリーがよく見えた。連休の最終日は空が澄んでいる(「週末効果」という言葉があるそうだ)。図書館を出て五日市街道に向かい、富士山が見えるかどうか確かめに行く。東京メトロ丸ノ内線の新高円寺駅近くの青梅街道と五日市街道の分岐点のすこし先の歩道から真っ正面に富士山が見えた。山頂付近はやや雲がかかっていた。

『別冊太陽』特集「古地図を歩く」(一九七六年九月号)を読む。古地図蒐集家・岩田豊樹「古地図入門」の記事が面白い。

《古書展風景を見ると、開門前に行列ができ、我先に目標の棚に突進して陳列棚が倒れた事もあり、売る店以上に収集家の熱は恐ろしい。この常連は古地図の相場と史料価値の知識があり、目星しい図はやはり彼らによって買われてしまう場合が多い》

 五十年前の古書展の記録。昔も今も変わらない。わたしは初日の開館前に並ばなくなって久しい(ゆっくり棚を見たいから)。地図は図録か製本されたものを集めている。古書会館は本だけでなく、絵葉書や地図などの紙モノも売っている。

 万葉集ブームは続いている。大伴旅人の讃酒歌がいい。「験なき物を思はずは一坏の濁れる酒を飲むべくあるらし」の歌は、現在の酒飲みといっていることが変わらない。考えても仕方がないことで悩むくらいなら、一杯の濁酒(ドブロク)を飲んだほうがよい。そのとおりだとおもう。

 旅人は山上憶良と同時代の歌人で交友関係も深かった。
 私小説作家にたとえると、山上憶良=尾崎一雄、大伴旅人=上林暁という印象だ。といっても、万葉集に関しては今のわたしは浅瀬で足をぱしゃぱしゃしているくらいの感じなので、この先、考えが変わるかもしれない。

 あと高橋虫麻呂も気になる。生没年不詳。常陸の国にいたらしい——ということはわかっている。以前、千葉県市川市の真間川を散策したとき、虫麻呂の歌碑を見た。真間川沿いは晩年の永井荷風も暮らしていた。

 ここ数日、夜九時ごろ、西の空あたりに月がかなり大きく明るく見える。
 馬橋公園から阿佐谷けやき公園屋上部まで歩いて新宿方面の夜景を眺め、月を見ながら家に帰った。

2026/07/18

阿須波

 季節の音楽——春の歌、夏の歌、秋の歌、冬の歌がある。不思議におもうのは歌詞がなくても夏の歌は夏っぽく、冬の歌は冬っぽく聴こえる。沖縄民謡はぜんぶ夏っぽい(偏見)。

 夏の歌でも夏の終わりごろの曲はすこし陰りがある。不思議である。

 万葉集を読んでいると哀しい夏の歌がけっこうある。夏=明るいというわけではない。奈良時代の前半は寒冷期だったという話もある(中期から温暖になった)。

 季節の移り変わりを歌にする。古来、自然と文化は重なり合っている。

 すこし前に西部古書会館で扇野聖史著、犬養孝監修『万葉の道 巻の一 明日香編』『万葉の道 巻の二 山辺編』『万葉の道 巻の三 奈良編』(福武書店、一九八二年)の三冊買った。同シリーズは全四巻で『巻の四 総集編(全巻索引)』があることを家に帰ってから知った。
 数巻のシリーズものをバラで買って、なかなか揃わず、結局、全巻セットを買ったほうがよかった——ということがよくある。

 他にも万葉集関係の本がいろいろあった。興味がなかったときには目に止まらなかった本だ。

 二年以上探している本(持っていたけど、手放した)がある。「日本の古本屋」でそんなに高くない値段で買える。でもその本を見つけることが今のわたしの張り合いになっている。そういう本があると棚を見るときの集中力が上がる。

『万葉の道』シリーズは地図の本としても優れている。史跡だけでなく、「タバコヤ」とか「ジャスコ」とか「のみもの販売機」とか「公民館(トイレあり)」といった町の細かい情報も記されている。四十年以上前の本だから、いろいろ変わっているだろう。

 万葉の時代の東海道は伊賀越え(加太越え)だった。伊勢国府のあった鈴鹿市内を通っている。近江から伊勢に抜ける鈴鹿峠越えの阿須波道(あすはみち)は九世紀ごろに開通した。

 阿須波道の「阿須波」という言葉は万葉集(防人歌)に出てくる。阿須波の神(阿須波神)は旅の安全の神、屋敷神として信仰されていた。旅に出て再び家に戻る。昔の旅は常に危険と隣り合わせだった。

 阿須波の神——街道や万葉集に興味を持たなかったら、たぶん知らないままだった。知ったからといって、何がどうなるわけでもない。

2026/07/15

風の通る道

 十四日(火)、東京都心の最高気温三十五度の予想——今年初の猛暑日。

 夕方四時半、風の通りがよい道を選んで散歩する。風があるだけで二、三度涼しく感じる。
 高円寺周辺は南北より東西の道のほうが風の抜けがいい。同じ東西の道でも風が止まる場所がある(わたしの自宅の周辺がそう)。
 歩いていて樹木の葉が揺れているのが見えるとその近くに行って日陰で休む。高円寺駅の南口広場の噴水のところで夕涼みする。この広場に「風の塔」(山本衛士/一九九七年)という防災モニュメントがある。この塔のまわりに鳩が百羽以上いる。鳩、人が近づいても逃げない。

 夜八時ごろ、東のほうから気持いい風が吹く。たぶん海からの風だろう。
 夏の東京、凪の時間は蒸し暑くて散歩には向いていない。

 日曜日、西部古書会館の均一古本フェスタで『文芸年鑑』(新潮社)の昭和五十年版、五十三年版、五十八年版を買った(いずれも百円)。平成以降の『文芸年鑑』は何冊か持っていたのだが、処分してしまった。
 荻窪に行くとき、丸ノ内線の東高円寺駅を利用していた文芸評論家の山本容朗の住所を調べる(『文芸年鑑』昭和五十八年版)。蚕糸の森公園のすこし南の杉並区和田——女子美術大学の近く。そこから東のほうに歩いていくと丸谷才一が目黒区三田に引っ越す前のアパートがあった十貫坂にたどり着く。山本容朗の家(仕事場?)からは徒歩四、五分くらい。
 十貫坂もそうだが、このあたりは古い道が残っている。風の通りのいい道も多い。

 山本容朗の家は丸ノ内線の東高円寺と中野富士見町の中間くらい。ちょっと南に行くと神田川がある。わたしは高円寺から中野富士見町まで散歩するとき、このあたりをよく通る。

2026/07/13

アド・ホック

 急に暑くなる。不規則睡眠はまだ続いている。昨日、東高円寺散歩。蚕糸の森公園に人工の滝があって、その近くはちょっと涼しい。高円寺駅南口広場の小さな池にも滝っぽいものがあって、そこも涼スポットである。水の音を聴くと頭がすっきりする。

 十一日(土)、午後三時すぎ、西部古書会館の均一古本フェスタ(初日二百円)に行く。買い過ぎないよう、カゴを持たずに館内を回る。『世田谷の古道に沿って…瀧坂道・大山道・登戸道・筏道』(財団法人せたがやトラスト協会、一九九二年)、村松昭の散策絵図シリーズ『高尾山絵図』(聖岳社、一九八二年)、『玉川上水散策絵図 30キロの史跡緑道』(聖岳社、一九八七年)、『野川散策絵図』(ベースボール・マガジン社、一九八九年)が買えたのは大収穫。古書会館に入って最初の一周目は散策絵図シリーズを見落としていた。精算前になんとなく中央の列の棚が気になって、じっくり見たら散策絵図シリーズがあった(背表紙が見えない状態で積んであった)。古本勘が冴えていた。でも一周目ですぐ気づかなかったのは反省点である。

 村松昭は一九四〇年千葉生まれの鳥瞰図絵師。『多摩川散策絵図 源流から河口まで』(聖岳社、一九八六年)に感銘を受け、他のシリーズも入手したいとおもっていた。『玉川上水散策絵図』は一番欲しかったパノラマ地図である。

 夜八時、大和町の仕事部屋に寄ってから中野まで散歩する。ヨークフーズの中野店でだしまろ酢などを買う。常備菜はだし酢で炒めている。四季の森公園、人がいっぱいいた。犬の散歩をしている人が多い。

 加藤秀俊著『続・隠居学』(講談社、二〇〇七年)を読む。『隠居学 おもしろくてたまらないヒマつぶし』(講談社、二〇〇五年)の続編。『隠居学』は講談社文庫に入ったが、『続・隠居学』は文庫化していない。

 加藤秀俊は一九三〇年四月生まれ。二〇二三年九月没。享年九十三。『隠居学』では、小学生のころから隠居の身分に憧憬の念を抱いていたという。

《とりわけ「隠居」という気楽な身分になってみれば、あんまり有用だの実用だのといったことにかかわる必要なんかない》(『隠居学』あとがきより)

『続・隠居学』の「思いつき主義」はジャズの即興の話から「アド・ホック」について論じている。「アド・ホック」は「その場だけの」といった意味である。

《「アド・ホック」といえばお芝居などの「アド・リブ」というのもまったく語源はおなじ。ちゃんと台本どおりにセリフをいうだけが役者の能じゃない。その場の思いつきで咄嗟のひとことが芝居に色をそえる。漫才の台本作家、秋田実先生に二、三回お目にかかったことがあるが、いや、台本なんてのは心おぼえみたいなもの、その日の客をみてアド・リブで気の利いたギャグが連発されなきゃ漫才じゃない、といったようなことを力説なさっていた》

『続・隠居学』は「因果の証明」の章もよかった。今の世の中、何でも「科学」で説明できると考える人が多い。

《人間というのはなかなかに複雑にできているから、その行動や思考をつねに「原因」「結果」でキレイに解明することは不可能なのである》

 人間の体は個人差があり、「無限の変数」が働いてるのでそう簡単には説明できない。何事も計算通り、思い通りにならない。そこに人間の面白味がある。

 意味があるのかないのか。役に立つのか立たないのか。そういったこともすぐには証明できない。
 わたしも職業上どうしても「お金になる/ならない」という思考に縛られている。自分の隠居への憧れは、有用無用の縛りから自由になりたい——という気持があるのかもしれない。

 十二日(日)も西部古書会館に行く。二日目(一冊百円)で買った古本の話はいずれまた。

2026/07/10

どうでもいい話

 九日(木)、夕方、駅前の青果店でヒラタケを買う。いつも買うシメジの倍以上の量で百円だった。パッケージをよく見たら、小さく(シメジ)と記されている。「ヒラタケとシメジは同じなのか?」とおもって家に帰って調べたら、シメジ(シメジ科)とヒラタケ(ヒラタケ科)は別種のキノコだった。一九七〇年代〜八〇年代あたりにかけて、人工栽培されたヒラタケをシメジとして売っていた時期があり、現在も「ヒラタケ(しめじ)」と併記することがあるそうだ。ヒラタケを「寒茸」と呼ぶ地域もある。

 夜七時半、馬橋公園を通り、中野区若宮まで散歩。マルエツ中野若宮店でたまごサラダパンなど。空は藍色、西の空にかなり明るい宵の明星が見えた。風が気持いい。帰りは妙正寺川沿いの道を歩いた。

 柴田練三郎著『どうでもいい事ばかり』(集英社、一九七四年)を読む。柴田練三郎は一九一七年三月生まれ。一九七八年六月没。享年六十一。この本、一篇ごとに岩田専太郎の挿絵が付いている。贅沢である。本の最後に「この雑文が上梓される直前、岩田専太郎氏が急逝された。痛恨とは、まさにこのことである」と書いてあった。

 岩田専太郎は一九七四年二月十九日になくなっている。享年七十二。
 そのころ松本清張が「西海道談綺」を『週刊文春』に連載していて、その挿絵も岩田が担当していた。

『どうでもいい事ばかり』の目次を見ていたら「東海道五十三次について」というエッセイがあった。

《私は、幾年か前、必要あって、東海道五十三次(正確にいえば、お江戸日本橋と京都三条大橋を加えれば、五十五次だが)を丹念に、旅をして歩いてみたことがある》

 柴田練三郎も街道作家だった。五十三次の「次」は宿場から宿場へ、人や物を「継ぐ」という意味がある。日本橋と京都三条は始点と終点のため、五十三次に含めなかった。あと鎌倉時代の東海道は六十三次(六十余次)あり、江戸時代の東海道と経路もちがう。鎌倉時代は箱根ではなく、足柄越えだった。
 杉並区内も「鎌倉道」が通っている。近所の散歩でも歴史を学ぶ機会はけっこうある。

 それはさておき同書の巻頭の「小さな事件について」にこんな一節があった。

《「どうでもいい」とは、今晩飲もうか、というさそいに対する返辞にもなるし、選挙の際、どの党派の候補者に一票を投じようかとまよった挙句の気持にもなるし、生きるべきか死すべきか、という最も重大な瀬戸際に立たされた時の、考えつかれたすてばちな心情をも表現している》

 わたしも「どうでもいい」とおもうことは多い。「小さな事件」はニュースで知っても翌日には忘れてしまう。世間を揺るがすような大事件でさえ、一週間もしないうちに他の話題に関心が移る。何か発信しようと考えているうちに「どうでもいい」という気分になる。わたしの関心事は大多数の人にとって「どうでもいい事ばかり」であり、世の中は「どうでもいい」の集積で出来ている。

 この日、ヒラタケを使った塩焼きそばと中華風のスープを作った。

2026/07/03

天気痛

 雨の日はいつもとちがう時間に眠気が起きやすい。睡眠時間がズレる。妙な夢を見る。そういう研究があるのかどうか。

 中野区大和町の仕事部屋の掃除中、横尾忠則著『彼岸に往ける者よ』(文藝春秋、一九七八年)の背表紙が目に飛び込んできたので再読する。
 横尾忠則は一九三六年六月二十七日生まれ。つい先日、九十歳になったばかり。
 適当に開いた頁(日記)に「天気が悪い(梅雨)せいか頭が痛い」という一文があった。日付は六月二十八日。刊行年と同じ年と考えると四十二歳。当時の横尾忠則は不眠に悩んでいた。

 日記は愚痴が面白い。横尾忠則は自身の日記を「エゴのゴミ箱」といっている。

 わたしも雨の日、頭痛+船酔いみたいな感じになることがある。あと肩こりもひどくなる。今は右の手首が痛い(湿布を貼っている)。

 梅雨の時期、頭痛や肩こりになるのは低気圧、高湿度など、天候不順のせいだろう。内耳(耳の奥)が気圧の変化を感知しやすい人がいる。
 そういう人は低気圧のときに調子を崩しやすい(症状の軽重には個人差がある)。「天気痛」という呼び名もある。

 湿度が高いと体内の水分が汗として蒸発しないせいで血行不良になる。これが疲れや怠さにつながる。肩こりもそう。

 散歩のとき、メッシュのウォーキングシューズを愛用しているのだが、雨の日は防水仕様の靴を履いている。いつもの靴ではないから、足が怠くなるのかとおもっていたのだが、気圧や湿度が原因かもしれない。

 このブログで高円寺周辺の路上から東京スカイツリーやドコモタワーを探す話をよく書いているが、遠くを見るのは精神衛生によい。ちょっとした気晴らしになる。

 雨の日は視界がよくない。そのことがストレスになっている可能性もある。遠くが見えないかわりに、樹木の多い遊歩道や神社や公園に行く。
 それから川や海など、水辺(ブルースペース)の景色を見ると、頭の疲れがとれたり、緊張が和らいだりする効果がある。
 樹木の揺れ、水面のゆらぎや光の反射などを見ると心が落ち着くという研究もあるようだ。大雨や台風のときに川に行かないように気をつけたい。

 以前、低気圧の片頭痛のときにカフェインを摂取するといい(飲み過ぎに注意)——という記事を読んだ。わたしはやる気がでないとき、疲れがとれないとき、豚のレバー、もしくは鰹や鮪のたたきが食べたくなる。

 夕方、高円寺の庚申通りの豊島屋(前の建物が取り壊されて、通りの奥に移転したばかり)でレバーとカシラの焼き鳥を買う。

2026/06/30

ハンゲショウ

 先週は雨続き。変則睡眠期も続いている。新宿で飲んだ帰り道、財布と本をなくす夢を見る。夢の中で焦りまくる。夢でよかった。

 桃園川緑道を通り、中野に行ったり阿佐ケ谷に行ったりの日々。東高円寺から環七の手前あたりの桃園川緑道の花壇でドクダミ科のハンゲショウを見る。まだ葉は緑。季節の半夏生は夏至の十一日目だから、まもなくか。
 蚕糸の森公園近くのマルエツプチ東高円寺駅前店が六月十八日(木)にオープンした。マルエツは夜の割引タイムによく行く。

 街道の研究をはじめて以来、あちこちの宿場町を訪れたが、雨の日は歩かなくなった。降雨時は遠くが見えず、景色を楽しめない。人があまり歩いていないので車も怖い。そういう日は図書館や郷土資料館などに行く。

 六月二十七日(土)から西部古書会館は大均一祭。初日二百円、二日目百円、三日目五十円で五十冊。古地図、万葉集の本、焼物の本、古雑誌、漫画……。
 初日は午前十一時台、『滑稽とペーソス 田河水泡“のらくろ”一代記展』(町田市民文学館ことばらんど、二〇一三年)など。田河水泡は詩もいい。
 二日目は昼すぎ、『飛ぶ教室』特集「まど・みちおのふしぎなポケット」(二〇〇八年秋号、光村図書)が買えてよかった。まど・みちおは百四歳まで生きた。最晩年まで詩を書いたり、絵を描いたりしていた。

 その日、買った本、読んだ本によって書くものが変わる。行き当たりばったり。そのほうが書いていて楽しい。書き終わってからいい資料が見つかることもよくある。

 三日目の均一祭は遅い時間に行ったが、一冊五十円に浮かれて、ちょっとでも気になった本(古文の参考書など)をカゴに入れていたら、片手で持ち上がらないくらいの重さになった。会計で「千三百円」といわれ、あまりの安さに戸惑う。

 目標が定まらない雑読人生。種をまかずに畑を耕し続けている気分である。バラバラに散らばった点をどうにかつないでいきたい。自分にしかわからない謎の絵になりそうな予感がする。

2026/06/26

人と作品

 雨続き。湿度が高い。眠りが浅い。万葉集を読む日々。毎日、山上憶良のことを考えている。先週、電車で荻窪に行った。総武線のホームの端(阿佐ケ谷駅寄り)から富士山が見えた。古書ワルツで『唯一者』(『唯一者』発行所)の創刊号(一九九七年)など、雑誌を何冊か買う。

 morc阿佐ヶ谷で上映していた『怪獣と老人』は連日盛況だった。二十四日(水)の上映後のトークショーもどうにか無事終了(劇団ひとりさんが登壇し、盛り上がる)。
 阿佐ケ谷の古書コンコ堂に寄ってから会場に行く。漫画三冊。待ち合わせをしていたわけではないが、コンコ堂で古書ワルツの野村泰弘さんと会う。

『怪獣と老人』を観るのは二度目。あらためて村瀬継蔵さんの生き方に感銘を受けた。八十代の村瀬さんは体の調子がよいとはいえない状態にもかかわらず、朗らかで楽しそうにしている。そういう姿を見て「自分も何か作ろう」という気持になった。

 特撮はお金も手間もかかる。CGの普及により、怪獣造形師の仕事も減りつつある中、特撮の技術を磨き続け、次世代に継承しようとする。

 村瀬さんが怪獣の造形で発泡スチロールみたいなものをさくさく切っているときの手つきが神々しかった。

 村瀬さんが関わった作品だと『クレクレタコラ』が好きだった。主題歌も覚えている。

 この日、ひさしぶりに暖流で飲む。おにぎりがうまかった。

2026/06/18

阿佐ケ谷で『怪獣と老人』

 造形作家の村瀬継蔵さんのドキュメンタリー映画『怪獣と老人』(監督:中野伸郎さん、プロデューサー:小川剛さん)がmorc阿佐ヶ谷にて6月19日(金)から25日(木)まで上映します。初日から毎日舞台挨拶あり。二十四日(水)はわたしと古書ワルツ荻窪店の野村泰弘さんが登壇します。

上映時間:
    •    6月19日(金)、6月22日(月)〜25日(木) 19:30〜20:55
    •    6月20日(土)、6月21日(日) 15:30〜16:55
場所:1Fスクリーン「Morcウエ」(全席指定席)
前売券:1300円

◎morc阿佐ヶ谷
東京都杉並区阿佐谷北2-12-19-B1F(阿佐ケ谷駅徒歩3分)

2026/06/14

読書三余

 昨年の暮れ、小池一夫原作・神江里見作画『弐十手(にじって)物語』の電子書籍の格安セールがあって全百十巻をまとめ買いした。まとめ買いから半年くらいになるが、まだ読み終わらない。『週刊ポスト』で一九七八年三月から二〇〇三年十一月まで四半世紀以上にわたって連載された長編漫画である。

 この漫画に「三余」という言葉が出てくる(第四巻「五猿の女」/第十一話「三友三余」)。冬(歳の余)、夜(日の余)、陰雨(時の余)——読書に適した三つの時を意味する。正史『三国志』の魏の董遇の言葉である。

『弐十手物語』では「われら十手者にとっては絶対にめぐり来ぬときぞッ」と「三余」について大岡越前が八丁堀の同心(主人公)に語る。

 小池一夫原作の漫画は作中の蘊蓄が面白い。「赤猫」が放火の隠語というのもこの作品で知った。しかし『弐十手物語』は長すぎる。途中で主人公も変わる。続編もある。わたしは「三余」ありの身なのだが、なかなか読み終わらない。

 木曜昼、新中野散歩。高円寺東公園から桃園川緑道を歩いて青梅街道のスーパーの三徳、スギ薬局、肉のハナマサ。スギ薬局は菓子やインスタント麺が充実している。阿佐ケ谷店も新中野店もおにぎりせんべいの銀シャリが売っている。肉のハナマサから住宅街を通る。銭湯の煙突が見える。照の湯。はじめて見た。
 高円寺東公園——新宿の都庁と代々木のドコモタワーの先端部らしきものが見える。翌日の夜、高円寺東公園に行き、光るドコモタワーを確認した。高円寺周辺の路上でドコモタワーが見える場所は少ない。スカイツリーはけっこう見える。

 新中野からの帰り道、ひさしぶりにもみじ山通りを歩く。坂がいい。もみじ山通りも鎌倉街道かもしれない道である。もみじ山公園から中野駅。中野のカルディでベルギーのビールを二本買う。

 四季の森公園を通り、高円寺に帰る。二時間くらい歩いた。靴底が平らな軽いウォーキングシューズだと足が疲れない。雨の日用の防水靴だと一時間も歩かないうちに足が怠くなる。疲労感がまったくちがう。靴のせいなのか、天候のせいなのか。

 最近、万葉集に興味を持ち、飛鳥時代から奈良時代の歴史の本を何冊か読んだ。
 万葉集、生老病死を詠んだ歌が多い。山上憶良は貧困についても言及している。年をとると周囲に厭がられ嫌われてつらいといった感じのことをぼやいている。千三百年くらい前の人も今の人もあまり変わらない。私小説を読んでいるときの感覚に近い。
 高円寺図書館で借りた山上憶良の本が面白かったのでインターネットの古本屋で注文した。山上憶良、奈良時代の人だが、七十四歳まで生きている。大伴旅人も気になる。

 古代から中世にかけて、しょっちゅう内乱があり、中央集権の社会になり、権力が強まると一時の安定期を迎えるが、やがて腐敗し、再び乱世になる。飢饉も起きる。さらに地震などの災害が起きると社会不安が高まる。

 平安時代や鎌倉時代も平和な時期があった。しかし天下太平は続かない。旧体制に不満を抱く新興勢力が出てくる。

 時代の変わり目に文芸はどのような表現をしてきたのか。個人の心理にも世の中、時代の影響は深く刻み込まれている。

2026/06/09

道中閑話

 六月七日(日)、梅雨入り(関東甲信・東海地方)。夕方、阿佐ケ谷散歩。スギ薬局でおにぎりせんべいの銀シャリが売っていた。二袋買う。

 先週の西部古書会館は均一祭。初日、街道関係の本がけっこう出ていた。よくあることだが、一週間ちょっと前に日本の古本屋で買った本を見つけてしまう。
 この日は和田篤憲著『道中閑話 雲助・道中女・宿場』(協和書院、一九三七年)、大島延次郎著『日本交通史概論』(吉川弘文館、一九六四年)など。
『道中閑話』は、函入の本だが、中の本の装丁(大名行列の版画っぽい絵)がかっこいい。「森川武一文庫」という印有。本文はですます調だった。
 巻末に協和書院の図書目録が付いている。

 大島延次郎は『日本の路』(至文堂、一九五五年)を読んで以来、すこしずつ集めている。一八九四(明治二十七)年栃木生まれ。『日本交通史概論』は古代から近代までの道の歴史をまとめた一冊で写真や地図も随所に入っている。

 古代三関(伊勢の鈴鹿、美濃の不破、越前の愛発)について「大津を首都としたころに、三関とも近江の国境である大津の外側に、大津京の衛りのため設けられたのであろうと考えられる」とある。
 古代三関が大津京の防衛のために作られたという説は、本居宣長も述べていて、大島延次郎は宣長の説に賛意を示している。

 最新の研究成果——を知るのも面白いが、わたしは昔の学者の本が好きである。参考文献に見たことも聞いたこともないような史料が載っている。

 三十代のころは「(金はないが)時間がたっぷりある」というおもいが、自信の源になっていた。
 五十代後半——金も時間も気力も体力もない。多くの先人たちもこの問題に直面してきた。

 人間の寿命には限りがある。調べものに終わりはない。だからテーマを絞る。ゴールを決める。その重要性はわかっているつもりなのだが、街道に関しては知りたいことがどんどん増えてゆく。二十歳前後に文学が好きになったときもそうだった。「自分の好きな文学はこのあたりだ」とわかるのに十年くらいかかっている。

 街道の研究も十年。そろそろ軸を決めたい。

2026/06/02

都会の隙間

 不規則睡眠期に入る。朝寝昼起の生活が昼寝夜起、夜寝朝起とズレていく。そういう時期、夢をよく見る。
 鈴鹿の郷里の家から近鉄の急行で名古屋に向かう。名古屋駅を抜けて、地下街のエスカに入る。一九八八年、予備校時代の通学ルートである。ひさしぶりにそのころの夢を見た。

 夢の中で漫画喫茶に行く。名古屋ではじめて漫画喫茶を知った。上京後も漫画喫茶によく行った。

 通学や通勤で電車に乗る。今のわたしはそういう生活を送っていない。そのかわり散歩する。高円寺図書館には週二、三日くらい通っているかもしれない。図書館の階段を上がった三階のところでスカイツリーを観測している。
 今、万葉集関係の本を数冊借りている。

 散歩といえば、すこし前、セシオン杉並に行って「ぱーくまっぷ 杉並区公園マップ」を入手した。住宅街の小さな公園も載っている。
 公園の名前、樹木草花の名前……。長年、気にせず生きてきた。

 夜の七時前、桃園川緑道、馬橋稲荷神社、阿佐谷東公園を通り、阿佐ヶ谷パールセンターへ。阿佐谷東公園は何度も通っているが、いつも方向感覚がおかしくなる。
 八重洲ブックセンター阿佐ヶ谷店、世田谷ピンポンズさんの『都会なんて夢ばかり』『感傷は僕の背骨』(本の雑誌社)が平積になっていた。『都会なんて』の「いつものお店で待ち合わせ」にわたしも登場する。よく行く飲み屋も出てくる。家に帰って、三軒茶屋の話を読み返す。
 夜八時、阿佐ケ谷からの帰り道、けやき公園の屋上部で夜景を見る。
 スカイツリーが見える。階段付近から新宿方面を眺める。ドコモタワーと歌舞伎町タワーがよく見える。
 渋谷方面の光るビルは、渋谷スクランブルスクエア。ずっと名前がわからなかった。

 一日一回、遠くが見える場所、空が広く見える場所に行くと、いい気分転換になる。

2026/05/27

荒都

 散歩中、何ができて何ができないかということをよく考える。そうした思索は外を歩きながらのほうがよい。
 家の中だとできないことばかり考えてしまう。

 夕方、妙正寺川まで行く。川沿いの道は風の通りがよい。あと空が広く見える。

 どこを歩くか迷ったら、川、神社、公園を目指す。

 十年前に街道の研究をはじめた。そのうち歌枕に興味が出てきた。万葉集に出てくる地名を地図で調べる。あっという間に一日が過ぎてしまう。
 万葉集には近江大津宮をしのぶ歌がいくつかある。柿本人麻呂の「ささなみの 志賀の大わだ 淀むとも むかしの人に またも逢はめやも」が有名か。

 大津宮は飛鳥時代——西暦六六七年に飛鳥岡本宮から遷都。六七二年の壬申の乱までの約五年間存在したといわれる都である。

 先週の西部古書会館で西郷信綱著『日本古代文学史』(岩波現代文庫、二〇〇五年)を買った。あちこち頁が折れている。前の持ち主は頁の下の角を折る人だったようだ。

 西郷信綱は梅崎春生の旧制第五高等学校時代の同級生(大学も同じ)。一九一六年大分県津久見の生まれ。

《万葉時代には一句の音数が五・七の十二音じたてに定型化していく傾向がいちじるしくなる。また、いくつかあった形式のうちひとり短歌形式が次第に超群するという現象があらわれてくる》

 万葉時代になると、記紀歌謡にはほとんどなかった情景歌、四季の歌が増えてくる。五・七出入りの句は、踊りの足どりからきている。

《『万葉集』をよむ場合、普通、まずすらすらと心をひかれるのは家持か赤人か憶良あたりで、それから人麿が面白くなり、初期への興味がおこってくるのは——もしおこってくるとすればだが——、一ばんおくれるのではないか》

 初期の万葉はとっつきにくく「背のびしないとつかめぬ何か異質なもの」がある——西郷信綱の言葉。わたしは「初期万葉」という区分すら知らなかった。五十代半ばあたりに地理、地名の関心から万葉集を読むようになった。街道を歩いていると、万葉の歌碑をよく見る。メモする。急ぎ足ではなく、ゆっくり学ぶことが古典をたのしむコツかもしれない。

 万葉の時代、さらにその前の時代——歌と踊りは不可分の関係にあった。

『日本古代文学史』では、人麻呂(人麿)の近江荒都の歌を取り上げている。

《玉たすき、畝傍(うねび)の山の、橿原の、日知(ひじり)の御世ゆ、あれましし、神のことごと、樛(つが)の木の、いやつぎつぎに天(あめ)の下、知らしめししを、天(そら)にみつ、大和を置きて、あをによし、奈良山を越え、いかさまに、念(おも)ほしめせか、天(あま)ざかる、夷(ひな)にはあれど、石走る、近江の国の、楽浪(ささなみ)の、大津の宮に、天の下、知らしめしけむ、天皇(すめろぎ)の、神の命(みこと)の、大宮は、ここと聞けども、大殿は、ここと云へども、春草の、茂く生ひたる、霞立つ、春日の霧(き)れる、ももしきの大宮処、見れば悲しも(巻一)》

 西郷信綱は「玉たすき」「あをによし」などの枕詞は神語、口踊歌謡の呪句、聴覚的暗喩だったと解説している。

 冒頭「玉たすき、畝傍の山の、橿原の」を読み、奈良県橿原市に人麿神社があることを思い出した。以前、奈良の橿原からの古道を調べていたとき、人麿関係の神社があちこちにあることを知った。兵庫県明石市の柿本神社、島根県益田市の高津柿本神社もそう。

 郷里の古代三関の鈴鹿関(東海道)は、近江大津宮(大津京)と関係が深い。鈴鹿関は大津京の東方防衛のための関所だった。同じく古代三関の東山道の不破関、北陸道の愛発(あらち)関も大津京のころの交通の要所だった。

 古典を読むとき、東海道が伊勢廻りか美濃廻りか、また伊勢廻りであれば、伊賀越(加太越)か鈴鹿峠越か——その時代の東海道の経路が気になる。

 郷里の三重にいたころ、伊賀や名張は遠く感じていた。街道に興味を持ちはじめてから、それらの地が交通の要所だったと知った。
 四日市や津ではなく、なぜ鈴鹿に伊勢の国府があったのか。
 古代三関の鈴鹿関の管理が国司の重要な任務だったからだといわれている。

 古典や歴史の本を読んでいて、郷里がすこしでも関係していると興味が強まる。
 生まれ育った町や今暮らしている町の知らない歴史を知る。地理や歴史が自分と重なる。

 自分の場所がすこしずつ広がっていく感じがする。

2026/05/22

道具の歴史

 昨晩、深夜二時まで飲んで家に帰ってすぐ寝る。ひさしぶりに十時間睡眠。寝過ぎかなとおもったが、頭と体がすっきりして楽になる。

 いつから家にあるのかわからないくらい長く使っている爪切がある。たぶん三十年くらい(……二十五年くらいかも。自信がない)。自分で買った記憶はない。

 切れ味は新品のころと比べるとかなり落ちている。でも切れすぎないから、使いやすい。新しい爪切もいくつか持っているが、そうはいかない。

 愛用している爪切をお湯で洗った。すると「SAKAI-TOHJI SINCE 1805」という文字が刻まれていた。
 SAKAI-TOHJIは堺刀司。一八〇五(文化二)年創業の和泉利器製作所であることがわかった。

 堺刀司のオンラインショップを見ると、愛用の爪切と同じものがあった。「堺の歴史爪切」というシリーズの「青色 神父」。千百円(税込み)。
 爪切には帽子を被った三人(一人は十字架をかけている)のおじさんの絵が描かれている。
 おそらくフランシスコ・ザビエルとその一行の絵だろう。

 一五五〇(天文十九)年十二月上旬、ザビエルは二人の従者を連れて堺の地を訪れている。

 大阪堺市の二百二十年以上前にできた会社の爪切だと知らずに使い続けてきた。今回はたまたま判明したが、知らないままの道具はいくらでもある。

 家で一番よく使うステンレスのハサミを調べたら、岐阜県関市の長谷川刃物(創業一九三三年)のものだった。さっきまで知らなかった。二十年以上前に高円寺駅の近くの文房具屋で買った。

 岐阜県関市はドイツのゾーリンゲン、イギリスのシェフィールドと共に「世界三大刃物産地」である。

2026/05/16

桃園町余話

 五月十五日(金)、午前中、西部古書会館。『別冊太陽 パノラマ地図の世界』(平凡社、二〇〇三年)を買う。五百円。近所の図書館にもあり、数回借りていた。
 現物を何度か手にとっていると、見つけやすくなる。別冊太陽は二〇〇二年に『吉田初三郎のパノラマ地図』を刊行している。

 この日、コタツ布団を洗濯する。翌日、押入にしまう。コタツ布団と入れ替えで扇風機を出す。

 夜、中野散歩。桃園川緑道を通り、駅の北口に向かい、ブックファースト中野店のちヨークフーズ。四季の森公園を通って高円寺に帰る。この散歩コースも定番になっている。

……二〇二〇年六月五日の当ブログ「中野桃園町」で山本容朗著『作家の生態学(エコロジー)』(文春文庫、一九八五年)所収「野坂昭如」の次の箇所を引用した。

《丸谷才一も、野坂人脈には、欠くことが出来ない。なにしろ、野坂の旧制新潟高校の先輩で、その上、結婚式の仲人である。丸谷は、今、目黒のマンションにいるが、その前、中野にいた。目と鼻の先に住んでいた私は、時々遊びにいった》

 わたしはかつて丸谷才一がいた「中野」の「目と鼻の先」に山本容朗も住んでいたと知り、引用部の「中野」を中野桃園町と勘違いした。丸谷才一に「中野桃園町」(『低空飛行』新潮文庫、一九八〇年/単行本は一九七七年)というエッセイがあり、その印象が強かったからだろう。
 丸谷は一九六七年ごろ、中野桃園町から丸ノ内線の新中野駅が最寄りの十貫坂の近くのマンションに移り住んでいる。

《数年前、杉並と中野の境のところにあるアパートに引っ越した》(「十貫坂にて」/丸谷才一著『低空飛行』)

 山本容朗著『東京近郊ぶらり文学散歩』(文藝春秋、一九九四年)には「ラーメンの町・荻窪を歩く」で「東高円寺駅から徒歩五、六分の場所に住んでいる」とある。
 この部分を読み、山本容朗の住まいは桃園町ではなく、十貫坂の周辺かもしれないとおもったわけだ。

 作家がいつ・どこに住んでいたかという問題はややこしい(引っ越し回数が多い人はとくに)。
 中野桃園町が中野三丁目などの地名に変わったのは一九六六年十月。かれこれ六十年前である。

 わたしが高円寺に引っ越してきたのは一九八九年秋——以来、数えきれないくらい中野駅の周辺を歩いているが、青梅街道の南の十貫坂のほうは不案内だった。

 東京メトロ丸ノ内線の東高円寺駅〜新中野駅あたりをちょくちょく散策するようになったのは二〇二一年以降である。

 故人の評論家がどこに住んでいたか——たぶん些細な問題だろう。昔読んだ本を再読すると、地理と時系列(年代)を読み間違えていることが多い。読書の癖を自覚していても間違える。

 昨日、『作家の生態学(エコロジー)』が行方不明になっていて、半日くらい部屋を探し回った。買い直すかどうか検討していたら見つかった。

《私は、作家の随筆、紀行文など、所謂、雑文のたぐいを読むのが好きだ》

——『作家の生態学(エコロジー)』の表題になっているエッセイにあった言葉。この一文は初読のときから記憶に残っている。自分もまったく同じだとおもったからだ。
 そして「雑文の名手といったら、まず、私は吉行淳之介さんと、山口(瞳)さんをあげたい」と書いている。これも共感した。

 とくに山口瞳の『酒呑みの自己弁護』(新潮文庫、一九七九年/単行本は一九七三年)は山本容朗の「大事な本」だった。

《自宅と仕事部屋に書籍が分散しているせいか、この『酒呑みの自己弁護』は、探せば単行本を含めると、同じ本が五、六冊あるのじゃないか》

 初出は一九八四年ごろ。山本容朗は五十四歳。本が見つからないと買って、そして増える。

『作家の生態学(エコロジー)』は過去の単行本『文壇百話 ここだけの話』(潮出版社、一九七八年)、『現代作家 その世界』(翠楊社、一九七二年、みき書房の増補版あり)などに収録した文章を再編集した文庫である。ひさしぶりの再読だが、面白い。この先も何度か読み返す本になるだろう。

2026/05/11

東京近郊ぶらり文学散歩

 ここ数日、日課の散歩(晴れの日一万歩、雨の日五千歩)は目標歩数に達しない日が続いている。急に暖かくなったせいか、やや夏バテ気味。継続は力というが、時々休んだほうが長続きする——という考え方もある。

 今、所持しているデジタル万歩計は午前三時に歩数のカウントが切り替わる。
 朝寝昼起のわたしはだいたいその時間は起きている。
 午前三時前——ちょくちょく目標の歩数のために散歩していたのだが、その時間に歩くと頭がさえてしまい、眠れなくなる。日課の散歩をはじめたのは、よりよい睡眠のためであるから、これでは本末転倒である。

 前の日おもうように歩けなかったら、次の日、その分多めに歩いて足して二で割る方式も試みた。せっかくの気分転換の散歩にもかかわらず、昨日を引きずっている感じがしてやめた。

 部屋でごろごろしながら、山本容朗著『東京近郊ぶらり文学散歩』(文藝春秋、一九九四年)を読む。同書「水の郷へ、今昔旅模様 土浦」に高田保の名前が出てくる。高田保は一八九五(明治二十八)年土浦生まれ。山本容朗はこの本の中で旧水戸街道を何度か歩いている。土浦は水戸街道の宿場町だった。
 同エッセイには尾崎一雄の名前も出てくる。

《尾崎一雄には「土浦行」という短篇がある。これはこの作家が早稲田大学時代に一方ならず世話になった山口剛先生の三十三回忌の法会のため、土浦に行く話で、昭和四十年一月の『小説新潮』に発表された》

 尾崎一雄「土浦行」は『随想集 四角な机・丸い机』(新潮社、一九七四年)に所収。

 山本容朗は文壇ゴシップの書き手として知られるが、紀行エッセイも素晴らしい。

 同書「ラーメンの町・荻窪を歩く」では、井伏鱒二の『荻窪風土記』に出てくる蕎麦屋の話にふれつつ、こんな一文を書いている。

《私は丸ノ内線・東高円寺駅から徒歩五、六分の場所に住んでいるので、地下鉄に乗ってよく行った》

 以前、このブログで山本容朗は「中野桃園町の住人」と書いたことがある。東高円寺駅は杉並区と中野区の区境が近い。

《荻窪はラーメンの町だが、有名な「春木屋」や「丸福」を避け、「丸信」という店へいく》

 同エッセイの初出は「食の文学館」(一九九一年八月号)。
 山本容朗は一九三〇年四月生まれ。還暦すぎの随筆である。当時、井伏鱒二は生きていた(一九九三年七月没)。

 わたしは「荻窪らーめん はなや」が好きだった。昨年八月閉店した。以来、荻窪でラーメンを食べていない。

(追記) 山本容朗のことを「中野桃園町の住人」と書いたのはわたしの早とちり(「中野桃園町」/文壇高円寺、二〇二〇年六月五日)。 最寄り駅が東高円寺駅の山本容朗の住まいは桃園町ではなく、十貫坂周辺の可能性が高い。

2026/05/06

古典とか

 五月四日(月)の都内の最高気温は二十七度。部屋の換気をしてエアコンの試運転をした。夕方、涼しい風が吹く。そろそろコタツ布団とヒーターをしまう予定である。

 この時期、tenki.jpの「黄砂情報」を時々チェックする。三年前の今くらいの時期、黄砂がすごく飛んでいた日に長時間散歩して体調を崩した。関東の黄砂の飛散量は九州や中国地方より少ないが、それでも空の色が変わるくらい飛ぶことがある。

 岡野弘彦が四月二十四日に亡くなった。享年一〇一。三重県一志郡美杉村(現・津市美杉町)の生まれ。川上山若宮八幡宮の神主の家に生まれた。神社はJR名松線の伊勢奥津駅から山を登ったところにある。駅の周辺は伊勢本街道の奥津宿——旧街道の雰囲気が残っている。岡野弘彦著『花幾年』(中公文庫)に郷里・美杉村の話を書いている。

 一志郡が市町村合併で津市、松阪市に編入された。美杉村が津市になったのは二〇〇六年一月、今年二十周年。平成の大合併以降の地理に疎い。奈良県の橿原と伊勢を直線で結んだとき、その中間あたりが伊勢奥津である。

 連休中、西部古書会館と高円寺図書館に行った。図書館の街道の本は歴史、地理、交通の棚などに分散している。街道と関係する和歌や物語絵巻、浮世絵(名所図)も別の棚にある。
 一つの分野にまとまらないところも街道の面白さかもしれない。

 図書館の隣の福寿院に行き、渓斎英泉の墓参りをする。墓の横に英泉の案内板があり、生没年を見ると、一七九〇(寛政二)年生まれで一八四八(嘉永元)年七月二十二日没とあった。本によっては英泉の生まれた年は一七九一(寛政三)年としている書籍もある。五十七、八歳で亡くなった。
 当時の寿命もそうだが、大酒飲みだったという逸話が残っていることを考えると、よく生きたほうだろう。

 福寿院、長善寺、鳳林寺などがある曲がりくねった道を抜け、環七を渡り、東高円寺のかえる公園(アニメ『輪るピングドラム』に出てくる)、天祖神社に寄り、あまり通ったことのない住宅街の道を歩いていたら、昭和浴場という銭湯の前に出た。そのまま東に進み、中央西公園を通り、北のほうに行くと桃花小学校、庚申橋跡がある。小学校の横の中央公園、橋場公園を抜け、桃園川緑道に出る。コープ中野中央店で惣菜を買って、再び、桃園川緑道を通り、高円寺に帰る。
 桃園川緑道――前から気になっていた今の時期に咲く白い花の木はピラカンサ(バラ科)という名前だった。

 五月二日(土)、昼すぎ、西部古書会館。そのあと野方から練馬にかけて散歩した。野方に行くときは妙正寺川のでんでん橋を渡る。散歩のときの持ち歩き本は久保田淳著『柳は緑 花は紅 古典歳時記』(小学館ライブラリー、一九九三年)。公園のベンチなどで一日十数頁ずつ読んでいる。奥付に「イラスト 柳柊二」とある。春夏秋冬の章のはじめに小さな花や葉っぱの精密な絵が載っている。柳柊二は怪奇もの、SFの挿絵で活躍した人。こういうのを見つけると嬉しい。

 東武ストアで乾麺などを買う。練馬駅北口の平成つつじ公園は(今年の四月から)改修中で入れず。帰りはバスに乗る。
 夕方、三重県、奈良県、和歌山県で地震があった。街道の研究で一八五四(安政元)年十二月の安政東海地震の本を何冊か読んだ。安政東海地震の震源は駿河湾奥。その年(嘉永七)の七月に伊賀上野地震が起きている。
 奈良や上野の地震は怖い。といって、個人にできることはなるべく健康を保つことくらいしかない。何事もなければそれでよし。

『些末事研究』vol.11が届く。特集は「自由に生きてみた」。座談「鶏を捌いて食べる」(内澤旬子、荻原魚雷、福田賢治)に参加した。創刊が二〇一四年三月だから、干支ひとまわり。だいたい年に一回。座談会の自分の喋り、あいかわらず、とっとらかっている。あと人の話を拾わない傾向がある。飲み屋でもよくやってしまう。

 同誌の座談会、大学の話になったとき、わたしは「当時は思わなかったけど、今は古典とか地理学とか、そういうのを学生時代に勉強しておけばよかったなって」と喋っている。

2026/04/30

白子と平坂

 街道の研究をはじめたのは二〇一六年六月(この年の五月末に父が亡くなった)からなので、まもなく十年になる。三重の郷土史、郷土文学の本を集めるようになったのも同じころか。
 街道と絡めて郷里(三重県)の歴史もちょこちょこ調べているのだが、今さらながら三重県の場合、陸路(東海道、伊勢街道)だけでなく、海路も重要だったことに気づく。伊勢商人は海運によって栄えた豪商である。

 わたしは東京と三重の往復でJRの在来線(東海道本線)によく乗る。在来線は車窓がいいし、途中下車して宿場町を散歩するのも楽しい。
 豊橋駅~名古屋駅の間は東海道沿いということもあって名鉄に乗ることが多い。

 次に帰省するときはJR東海道本線の海に近い駅を歩きたい。Googleの地図で三河地方のJRの駅周辺を見ていて、平坂街道を知った。
 平坂街道の始点の小坂井はJR飯田線の小坂井駅の近く。平坂街道は三河地方の塩を運ぶ「塩の道」でもあった。

 すこし前の西部古書会館の均一祭で買った海の博物館、石原義剛著『伊勢湾 海の祭りと港の歴史を歩く』(風媒社、一九九六年)の目次を見ていたら第十章「三河湾全域 西尾から豊橋まで」という章があった。
 同章に「名残り少ない平坂湊」という小見出しがあり、「西尾市の観光や文化財地図に、三州五ヶ湊の一つだった平坂湊の史跡を伝えるものはない」と記されている。

 同書によれば「平坂湊は、現在、平坂入江と呼ばれる水筋の奥にあった」とのことだが、正確な場所は不明――。

 三州五ヶ湊は大浜(現・碧南市)、鷲塚(現・碧南市)、平坂(現・西尾市)、犬飼(現・蒲郡市)、御馬(現・豊川市御津町)で、一六三五(寛永一二)年に定められた。
 平坂湊は白子湊(三重県鈴鹿市)ともつながりがある。

 本多隆成、酒井一編『街道の日本史30 東海道と伊勢湾』(吉川弘文館、二〇〇四年)の第三章「東海道と伊勢湾の地域と民衆」の「伊勢湾の海運と伊勢商人」の項に「白子と平坂」という見出しがあった。読んでいたはずなのに記憶にない。知らない地名、固有名詞を読み飛ばしている。たぶんこの癖は治らない。

 江戸時代に白子湊と平坂湊は木綿などの運搬が盛んな港だった。この二つの港は尾張の物資の集荷も担っていた。

《白子廻船が運賃値上げを要求したり、洩積や拾荷などによって仲間荷物の運送に支障をきたしたときは、しばしば平坂が白子の代替港としての役割を担わされた》

 古代から伊勢と三河は伊勢湾をはさんで舟運が行われていた。白子湊も三河と行き来があった港の一つである。
 尾張や美濃の荷物を江戸に輸送するさい、なぜ伊勢湾対岸の白子湊が利用されたのか。

『伊勢湾 海の祭りと港の歴史を歩く』の「鈴鹿 白子港と大黒屋光太夫」の項には「江戸初期から紀州藩の所領だった白子はその親藩としての特権を活用して、商売を発展させた」とある。

 江戸時代の白子湊は伊勢松阪や知多の木綿を集め、江戸に運んだ。庶民の衣料が麻から綿に変わり、木綿を染めるための型紙(伊勢型紙)が発展したのも当時の流通経路と関係ある。
 ちなみに松阪も紀州藩の飛地だった。

 白子湊から江戸に木綿を運び、帰りは房総半島で生産された干鰯(ほしか)を運んだといわれている。干鰯は鰯を乾燥させた肥料で木綿の栽培にも利用された。千葉には伊勢神宮の神領もあった。

 木綿商といえば、国学者の本居宣長の家(三重県松阪市)も江戸に店を持つ木綿問屋だった。宣長自身は商いに興味がなく(若き日に奉公に出るが一年くらいでやめて郷里に帰っている)、ひたすら書物と趣味に耽溺したいと願った道楽者である。地図(絵図)好きでもあった。自作の地図も残している。

 わたしが就職もせず、古本ばっかり読んでいる人生を送るようになったのは本居宣長の「好信楽」の教え……ではないけれど、街道の研究をはじめて以降、松阪は好きな町になった。
 鈴鹿と松阪、滋賀と松阪のつながりにも興味がある。
 鈴鹿もそうだが、松阪も伊勢参宮の往来によって情報が集まり、文化が育った——といろいろな本に書かれている。わたしもそうおもっていた。しかしやはり舟運、商人の情報網は無視できない。

 歴史を知ることで地理の感覚が変わる。地理を知り、歴史の認識が変わる。そういうことが今の自分には面白い。